小説はしばらく置くとして、ノンフィクションの本のおもしろさは、
読む側の「問題意識」によって、おもしろかったり、おもしろくな
かったりするのかもしれない。
最近、「戦後史」を調べていて、奥武則『増補 論壇の戦後史』
(平凡社ライブラリー、2018/10)を買い求めたが、私には、大変
おもしろかった。★5つ以上、6つかな(笑)。
「目次」は論文発表のレジュメのようなものだが、まずは本書の目
次を見てみよう。
各章の小文字(フォントを小さくしたもの)は、私なりの要約・補
足である。
<目次>
序章 1988年8月12日 四谷霊廟
清水幾太郎(1907-1988)の葬儀に集まった人々。
第1章 「悔恨共同体」からの出発--二十世紀研究所のこと
「悔恨共同体」は丸山眞男の造語。二十世紀研究所は、清水幾太郎、大河内一
男、細入藤太郎が設立者(所長は清水)。メンバーは、3人のほか、丸山眞男、
林健太郎、福田恆存、中野好夫、高橋義孝、飯塚浩二、高島善哉、川島武宜、
久野収、真下信一、宮城音弥、渡辺慧等。
第2章 「総合雑誌」の時代--『世界』創刊のころ
岩波書店の雑誌『世界』の創刊の辞は、田中耕太郎(巻頭)と岩波茂雄(巻末)。
当初は、安倍能成等「同心会」というオールド・リベラリストが中心(→こちら)。
第3章 天皇・天皇制--津田左右吉と丸山真男
→後記。
第4章 平和問題談話会
ユネスコの声明(1948/7。8人の社会科学者)に刺激を受けた吉野源三郎が清
水幾太郎などに声を掛けて「平和問題談話会」(→こちら)を作った。
第5章 『世界』の時代--講和から「六〇年安保」へ
講和問題論争(小泉信三の批判)~講和後、平和問題談話会は事実上解散~
「再軍備反対・非武装中立」の主張~ハンガリー事件ではソ連介入を正当化
第6章 政治の季節--「六〇年安保」と論壇
矢継ぎ早に「安保特集」~安保改定反対~『世界』と「進歩的知識人」の論壇
第7章 高度成長--現実主義の台頭
『中央公論』の活躍~現実主義~高坂正尭と永井陽之助
第8章 『朝日ジャーナル』の時代--ベトナム戦争・大学騒乱
ベ平連~全共闘へ寄り添って~「造反教官」~羽仁五郎『都市の論理』
終章 「ポスト戦後」の時代--論壇のゆくえ
世界第2位の「経済大国」~連合赤軍リンチ殺人事件~ソ連崩壊
補章 戦後「保守系・右派系雑誌」の系譜と現在
オールド・リベラリストの系譜の受け皿~『心』、『文藝春秋』、『自由』、
『諸君!』、『正論』、『VOICE』等
付論 「ポスト戦後」論壇を考える
論壇の衰退・崩壊
「第3章 天皇・天皇制」がまことにおもしろい。
昭和20年代当時の世論調査等でも分かるが、多くの国民は、敗戦に
あっても、「天皇制」を支持していた。
いささか長くなるが、本書の一部を引用すると、
津田が著書『古事記及日本書紀の研究』などによって(注:昭和15年)岩波茂
雄とともに出版法違反に問われたことは前にふれた。吉野はそうしたいきさつ
があっただけに、新しく創刊する雑誌(注:『世界』)には、(編集長吉野源
三郎は)ぜひとも津田に執筆してもらいたかったのである。「日本史の研究に
おける科学的方法」というのが、吉野が依頼したテーマだった。・・・・・・
原稿にはそれぞれ、「日本歴史の研究に於ける科学的態度」と「建国の事情と
万世一系の思想」という表題がつけられていた。前者は三月号に掲載された。
問題は、後の方(注:四月号)だった。
実証史学の立場から、『古事記』『日本書紀』に光を当てた津田は、「建国の
事情と万世一系の思想」で、「国民の皇室」「われらの天皇」に対する熱烈な
愛情を吐露していた。たとえば、こんなふうに。
国民とともにあられる故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫
相承けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。
そして、結びの部分が強烈だった。
国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は国民の皇室
であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが
愛さねばならぬ。・・・・・・国民は国を愛する。愛するところにこそ民主主義の
徹底したすがたがある。・・・・・・そうしてまたかくのごとく皇室を愛すること
は、おのずから世界に通じる人道的精神の大なる発露でもある。
困惑した吉野(注:源三郎、山本夏彦によれば「かくれ共産党員」といわれて
いた。『私の岩波物語』。いわゆるシンパ?)は、津田に加筆を願うべく、平
泉を訪れる。・・・・・・
吉野は、津田論文をめぐって、政治的利用ウンヌン以前に岩波書店内部に難問
をかかえていた。当時、『世界』編集部員は吉野以外に三人だったが、津田論
文を読んだ部員たち(注:共産党員!?)掲載中止を求められていたのである。
こうした状況の中、吉野は歴史学者・羽仁五郎(注:講座派のマルクス主義者)
に津田論文を読んでもらう。羽仁が津田と交友があることを知っていた吉野は、
加筆なり修正をしてくれるよう津田を説得してほしいと考えたのだろう。とこ
ろが、吉野によると、羽仁は「こんな論文はいま絶対に発表すべきではない。
没書にしてしまえ」といったという。
吉野は「そんなことはできない。没書にするというなら、その主張を根拠に論
文にしてほしい」と求めた。羽仁は「適任ではない」と辞退する。結局、相当
の言い合いになった末、ボツには絶対できない、という吉野に対して、羽仁は、
次のようにいったという。
それならば、君は、日本の革命が成功した暁に、この論文を発表した責任
を追及されてもいいのか。そのとき、君の頸に縄がかかってもいいのか。
吉野は、「そんなことで頸に縄をかけるというなら、かけてみたらいいだろう」
と答えたという。相当な「大げんか」といっていいだろう。目論見が崩れた吉
野は、長文の手紙を書いたうえで、自ら説得のために平泉に津田を訪れる。
津田は論文の終わりの方に数カ所の筆を入れただけで、結局、吉野の説得に応
じなかった。
(注)吉野源三郎(当時46歳)は、羽仁五郎より2歳年長だった。
吉野は、結局、『世界』(昭和21[1946]年4月号)の巻末近くに
「編集者」の署名で、三段組8ページにわたる長文の文章(釈明)
を掲載した。本書によれば、
(それを)端的にいえば、吉野は、「国体護持論」とも受け取られかねない論
文を掲載したけれど、私たちは決して「反動」ではないですから、と「釈明」
しているのだ。「釈明」の対象は必ずしも一般読者ではなかった。「釈明」は、
何よりも、身内の編集部員を含む天皇制批判の人々にこそ向けられていただろ
う。
この問題(『世界』の津田論文)について、長部日出雄は『天皇は
どこから来たか』(新潮文庫、H13[2001])第5章、第6章に48ペ
ージにわたって、津田左右吉の戦時中の裁判内容、人となり、徹底
した原典考証とともに紹介している。
津田は、戦時中の裁判を、自説をとうとうと主張し、言論弾圧では
ありません、と語っていたという。そういう人となりだった?
津田は、東大法学部での講義が終了後、蓑田胸喜(注)系の学生か
ら質問攻めにあう。思い出を語る丸山眞男を紹介する長部によれば
そのうち、津田先生の立場は、結局唯物史観ではないか、と迫られたとき、即座
に、
--唯物史観などは学問じゃありませんよ。
と、軽く一蹴した博士の答えと、その反応の素早さが、以後も長く丸山(眞男:
当時法学部助手)の記憶にのこる。・・・・・・
外はすでに真っ暗で、雨が降っていた。・・・・・・(本郷)一丁目の停留場に近い
「森永」に入って、店じまいの気配のなかで食事をする。俯きかげんにフォー
クを動かしていた(津田)博士は呟くようにいった。
--ああいう(注:ファナティックな)連中がはびこるとそれこそ日本の皇室
はあぶないですね。
(長部日出雄『天皇はどこから来たか』p150-151。「注」は私が付けたもの)
(注)蓑田胸喜(みのた むねき):1894-1946。東大卒の「狂信
的」な右翼思想家、T14(1925)原理日本社を創立。終戦後に自
殺。
戦前、蓑田が盛んに攻撃したのは、美濃部達吉、滝川幸辰、大内
兵衛、田中耕太郎、河合栄治郎、津田左右吉等々。
津田左右吉は、先日もブログで取り上げた金森久雄『男の選択』に
も、
(戦後)時流に流されず、戦中、戦後少しも説を変えない人も居た。歴史学者
の津田左右吉氏、憲法学者の美濃部達吉氏などだ。津田氏や美濃部氏は、戦争
中は、時局をわきまえない自由主義者、戦後は、民主主義に反抗する保守主義
者に見えた。
と紹介されている。→こちら。
ちなみに『文藝春秋』の発行部数を40万部とすれば、今日の『世界』
のそれは1万部以下?(--図書館に寄贈分も算入して?)
奥武則『増補 論壇の戦後史』(平凡社ライブラリー、2018/10)
★×5
(参考)
長部日出雄『天皇はどこから来たか』(新潮文庫、H13[2001])
★×5 →こちら。
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