毎年、人間ドックで指摘されることの一つは「運動不足」である。
例えば、今年1月の平均歩数/日は3,700歩。2月は4,100歩だ。
もう少し運動不足を改善する目的もあり、先日は鎌倉行で14,000
歩を歩いた。「鎌倉一日観光」は「取材」も兼ね、一石二鳥だ。
3月11日(金)、これに味を占めたというわけでもないが、朝早め
に出発して、鎌倉単独行。
長谷駅を起点に、御霊(ごりょう)神社~極楽寺坂切通~極楽寺
~稲村ケ崎~七里ヶ浜駅と移動する(写真参照)。
お昼は迷ったが、結局七里ヶ浜から長谷駅まで戻り、しらす丼。
7:23 あざみ野駅前
7:24 市営地下鉄 一番左の改札口より
7:25 7時29分発
7:58 横浜下車
8:01 通勤時間帯
8:06 横須賀線逗子行
8:32 鎌倉下車
8:33 鎌倉殿の13人
8:35
8:36 いったん外へ出て
8:37
8:37 1日乗車券を購入
8:38
8:45 折り返し電車
8:45
8:46
8:48
8:48
8:48
8:52 長谷着
8:53
9:00 ここから駅前の踏切を渡る。
9:00 下り鎌倉方向
9:01 線路沿いを西へ
9:02
9:05 突き当りに鳥居が見える。
ゴミ出しの男性に
「失礼ですが、御霊神社はどこでしょうか?」
「あ、そこ」
9:07 御霊(ごりょう)神社
9:08
9:11 本殿
鎌倉権九郎景政を祀る(→こちら)。
9:12
9:13
9:16
9:21 御霊神社より150mの「力餅家」創業300年
バス通り沿いにある。
9:22 極楽寺坂切通--鎌倉七切通の一つ
9:23 星月ノ井--鎌倉十井の一つ
9:24
9:30 虚空蔵堂
9:31
9:31 成就院 三代執権北条泰時が創建
9:32
9:33 極楽寺坂の碑
9:33
9:37 極楽洞(トンネル) 江ノ電唯一のトンネル(桜橋より)
9:38 極楽寺駅
9:40 同上 ちょうど電車が来た。
9:41
9:41 極楽寺
1259年、北条重時が創建、忍性(1217-1303)が開山として招か
れる。
9:41
9:42
9:43 極楽寺境内
9:43
9:44 「八重一重咲き分け桜」
北条時宗が植えたと伝えられる。
9:44 同上
9:45
9:46
9:47
9:48
9:52
9:56
9:57
9:57 導地蔵
9:59 極楽寺駅
10:00
10:01
10:01
10:02 鎌倉行をパス
10:08 上り藤沢行に乗車
10:11
10:12 稲村ケ崎駅下車
10:15 海岸方面へ
10:15
10:18 国道134号線 左折して東へ
10:19 遠くに江の島 富士山は見えず。
10:19 サーファーはいずこ?
10:20 稲村ケ崎 近年は桑田佳祐『稲村ケ崎ジェーン』で有名?
10:22 稲村ケ崎温泉
10:23 新田義貞碑
10:24
10:24
10:24
10:25 明治天皇御製 昭和19年10月建設(稲村ケ崎史蹟顕彰会)
新田義貞
投げ入れし剣の光あらはれて千尋の海もくか(が)となりぬる
10:25 新田義貞徒渉伝説(『太平記』)の碑
大正6(1917)年3月建之
10:26 逗子開成ボート遭難の碑
遭難事故は明治43(1910)年1月23日。12人が死亡。
「真白き富士の嶺」が有名。--母が歌っていた。
10:27
10:27
10:29
10:30
10:31 西田幾多郎(1870-1945)博士記念碑
10:31
10:35
10:36 ローベルト・コッホ(1943-1910)の碑
コッホ来日(明治41[1908]年7月)記念として、大正元年9月
建立。
北里柴三郎(1953-1931)はコッホに師事した。
10:36
10:37
10:46 公園の手入れ作業を終えたボランティアの皆さん
10:47
10:49
10:53 七里ヶ浜駅まで1.5kmを歩く。
10:58 海鮮料理「池田丸」11:30~
11:07
11:10 七高通り 右側:七里ヶ浜高校、左側:鎌倉プリンス
11:13 創作料理「Double Doors 」
11:15 行合橋 ここを右折
11:16 七里ヶ浜駅の踏切
11:18 七里ヶ浜駅
11:21 下り電車で長谷に戻る。
11:30 長谷下車
11:33 駅前の長谷食堂
11:34
11:36 「観光客に評判」の「カフェカプア」を目指して
11:37
「おかしいな、このあたりのはずだが・・・・・・」
と、ガイドブックにある電話番号に電話してみると
「現在は使われておりません」
(あちゃ~)
11:42 長谷駅方向へ戻る。
11:47
11:48
11:50
11:52 先日入った「カフェベルグフェルド」
11:55 しらす丼の「鎌倉甚平」に飛び込む。
11:57 中学生グループがランチ中
11:58 しらす丼定食 1,400円
12:16
-------------------------
<時事放談>
ロシアとウクライナの停戦協議
これでは、あまりにも両者の条件が乖離している。「落としどこ
ろ」はあるのだろうか。
ロシア軍によるウクライナ首都のキエフ総攻撃は始まるのだろう
か。
話は異なるが・・・・・・
日中戦争は、昭和12(1937)年7月の盧溝橋事件をきっかけに起
きた。
いったん停戦協定ができたが、本格的に拡大したのは、同年8月
の(第二次)上海事変からだ。
華中上海を戦場としたのは、中国側の選択だった。
当初、日本軍は30万の中国軍に苦戦したが、11月、杭州湾への奇
襲上陸を成功させ、上海を制圧。
中国は多くの犠牲を出したが、国際世論の同情を引きつけること
に成功する。
上海制圧後、日本軍は首都南京を目指す。
それに前後して、行われたのが「トラウトマン工作」である。
10月、ドイツを仲介として、広田外相(当時)が主張した停戦条
件は、
1.内蒙に自治政府を樹立すること
2.満洲国境から天津ー北平(北京)までの間に非武装地帯を設定
すること
3.上海の非武装地帯を拡大すること
4.排日政策の廃止
5.共同防共
6.日本商品に対する関税の低減
7.外国人の中国における権利を尊重すること
などであった。
しかるに、11月中旬、戦局が日本に有利となると、日本側は条件
を「つり上げ」たというか、より厳しいものにし、
1.華北の特殊地帯化
2.「華中占拠地」を非武装地帯とすること
3.戦費の賠償
4.和平協定成立後に停戦協定を結ぶこと
5.日本への講和施設の派遣
6.年内の回答
などとした。
(12月13日、日本軍は首都南京を占領)
12月21日、この決定は、部分的な修正の後、閣議決定された。
翌年1月、中国政府からより具体的な条件を知りたいというメッセ
ージが、独ディルクセン大使を通じて伝えられる。これを日本側
は中国の遷延策(時間稼ぎ)と受け取った。
1月16日、近衛首相は「爾後国民政府を対手とせず」という声明
を発表することになる。--「昭和政治史最大の愚行」の一つで
あった。
(注)第一次近衛内閣:昭和12(1937)年6月4日~14(1939)年
1月5日
当時、近衛文麿は国民に大変な人気があった(私の祖父母の時
代だ)。
<参考書>
北岡伸一『政党から軍部へ』(中公文庫)
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