人生ブンダバー

読書と音楽を中心に綴っていきます。
現在は、暇に飽かして、日々更新。

9/9 元気かい   7世紀の「日本」

2024-09-11 05:00:00 | Weblog

9月9日(月)、重陽の節句。

午後2時から元気かい。「いつまでも暑いですね~」が挨拶代わ
り。

先週は横浜新都心脳神経外科病院にお世話になったが、今週は元
のペースに。

この日はほとんど全員が参加。皆さん、お「元気」だ!



13:40 大クスノキ


13:42 集会所


14:03 まずはF久保さんのリードで(14:35まで)


14:09


14:41


14:41


14:50 ハマトレ(横浜市歌版)


14:57 仕上げに


15:04 これより後半 お口の体操


15:06


16:04 帰りも談笑しながら。

 ----------------------------------

○大谷 46-47  盗塁が先に「50」達成?


○(暇に飽かして)7世紀における「皇位継承」に関する一考察
  7世紀の東アジアの国際情勢に対応するため、倭でも政治の改革を目指す動
 きが出てきた。当時、政治の実権をにぎっていた蘇我入鹿は、自らの手に権
 力を集中させるため、聖徳太子の子である山背大兄王をほろぼした。

  この頃には、唐へ派遣された留学生や僧によって新しい法律や制度などの知
 識が持ちこまれ、唐を手本とした国づくりを考えた人々もいた。その中心であ
 った中大兄皇子や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らは、645年に蘇我蝦夷・入鹿
 父子をほろぼし、大化という年号(元号)を定め、宮古を飛鳥から難波(大阪
 府)に移して政治改革を進めた。
 (『中学歴史 日本と世界』山川出版社2024)


私は、中大兄皇子が中臣鎌足とともに蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼして、
天智天皇に即位したと思い込んでいたが、中大兄皇子はその後20
年以上皇太子に就いていた。

すなわち、天皇は、皇極(女帝。中大兄皇子、大海人皇子の母)
[645譲位]→孝徳[654崩御]→斉明(女帝、皇極の重祚)[661
崩御]→(「称制」後)天智[668即位]という順であり、

中大兄皇子の皇太子時代に、飛鳥から難波宮遷都、改新の詔、百
済滅亡(660)、白村江の戦い大敗(663)などが起きている。

天智天皇は、668年に即位するが4年足らずで崩御され、「壬申の
乱」となる。

--あらためて中学レベルの勉強?


ちなみに中臣鎌足は、669年、死亡する前日に「藤原」の姓を賜っ
た。
藤原不比等はその次男。氏寺を奈良に移し、興福寺とする。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 9/5 北八朔公園~大場みすず... | トップ | 9/10 何かと多忙な一日 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事