かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

年譜を読みながら

2019-12-13 09:02:07 | 日記

筑摩書房刊行の原子朗先生著「定本 宮澤賢治語彙辞典」巻末には、かなり詳しい年譜が記されているので、賢治の生まれた明治29年(1896年)から昭和8年(1933年)までの37年間の彼の軌跡を目で追った。

 

絶筆となった短歌二首

「 方十里 稗貫のみかも 稲熟て み祭り三日 そらはれわたる 

(花巻地方は稲穂もたわわに実り今年は豊作らしい。この吉兆を寿ぐかのように祭りの三日間は空が晴れ渡ったなあ。)

 

「 病(いたつき)の ゆえにもくちん いのちなり  みのりに棄てば うれしからまし 」

(病のおかげで私の命も終えようとしているのだが、この命、一粒の種となって土に還り、次の実りとなればうれしいことはない。)

 

の清々しさに感動を覚えて、最期の五日間をたどると、み祭り(鳥谷ヶ崎神社祭礼)の三日間(昭和8年9月17日~19日)最終日、祭礼の神輿を家の前で拝礼。翌日(9月20日)は、上記の短歌二首を墨書、肥料相談に訪れた農民に病床を離れ、衣服改め、正座して1時間対応。弟に、原稿出版(残された原稿をどんな本屋からでも依頼があればよろしくとのこと)を依頼。そして、最期の日(9月21日)午前11時30分突然大声で「南無妙法蓮華経」を高々と唱題。容態急変。父に「国訳妙法蓮華経」1000部を知人に配るよう遺言。

午後1時30分永眠。

たった五日間でも、なんとも「やることをやって」逝ったものだと、あらためて清々しさを覚える。信仰とは、かくもヒトを最期まで勁くするものか。

 

その、年譜で・・・気になっていたこと。

花巻の大沢温泉の幼少の頃の集合写真二枚。

父親が浄土真宗の熱心な信者であったため、大沢温泉で毎夏開催していた「仏教講習会」での2枚の集合写真は、何時のものだったのかということ。

 

まずこれ、

 

豊沢川の河畔で撮られた集合写真には、妹のトシも写っている。

 

年譜には、明治39年8月1日から10日まで、第8回夏季講習会が開催され、トシも参加しているとある。そして、講師は、学僧暁烏敏(あけがらすはや)とある。

 

暁烏さんの以下の画像から推定するに、この集合写真は、明治39年、賢治10歳の写真で間違いないのだろう。(お顔の輪郭から)

 

 

問題なのは、宿に飾られたもう一枚の集合写真。

 

大沢温泉曲がり橋で撮られたという写真には、明治39年とあるが、左の解説には、明治41年、42年と矛盾する記載がある。「賢治小学五年生のもの」は、明らかに間違い。小学5年は、年譜によると明治40年。

 

手がかりは、解説の「帽子をかぶっているのが島地大等講師」。学僧島地大等は、この年譜によると、明治44年、大沢温泉での夏期講習会講師として招聘されており、賢治は、初めて彼の「法話を聴いたと推定される。」と記されている。宿の解説にあるように写真中央の僧形の氏は、島地大等に間違いないのだろう。(髭と鼻のカタチから)

 

 

島地大等先生の画像

 

だとすれば、二枚目の集合写真は、明治44年、8月4日から10日の間に撮影された、賢治15歳、盛岡中学3年生の写真ということになるのだが・・

ただ、15歳にしては、背丈が小さいし、あどけなさも残るのが、やや疑問。ただし被っているのは中学の学帽に夏用の白カバーを付けたものと推定されるので、中学生でよいのかもしれないが。

年譜には、賢治が盛岡中学に入学した明治42年夏(誕生日前の12歳)の夏期講習会の記載がないので、あるいは、「年譜のほうが誤りで」、二枚目の集合写真は、2年前の明治42年なのではなかろうか。だとすれば、賢治のあどけなさにも合点がいく。そういう意味では、大沢温泉の解説がやや「当たっている」ようにも思える。

興味は尽きないので、現地再訪を含めて、さらに調べていきたい。(露天風呂にまた入りたいというのが本音か)

いずれにせよ、宮沢賢治誕生の核心ともいえる仏教世界との邂逅譚については、「そんな、些細なこと」とはいわず、ミステリーを解くかのごとく、迫っていきたいな。すこし、ライフワーク的になってきたぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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