かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

化石の碑~広瀬川の断崖に立って

2019-12-16 10:19:40 | 日記

 こないだの、広瀬川河床に残された概ね300万年前のメタセコイアの化石。そのころの様子が、以下の広瀬川ホームページに詳しい。仙台市街を流れる、今の広瀬川付近は、500万年前は海だった。300万年ころまでは、その海の水が引くか、地盤が隆起して陸地となり、メタセコイヤやナラなどが繁茂、仙台市郊外の七ツ森付近からの大火砕流が巨木を埋め、いまの化石を残したものと思われる。広瀬川の少し上流、八木山の竜の口渓谷などでは、貝の化石や亜炭がいまでも見つけられるという。

広瀬川HP

https://www.hirosegawa-net.com/report/report20/2

 

近所の霊屋橋から愛宕橋にかけての広瀬川右岸は、高さ100mほどの断崖となっていて、さまざまの地層が重なっているが、数百万年の間にどのような地殻変動や浸食作用があってこのような地形になったのか、もう少し調べてみよう。

 

その断崖の上に、愛宕神社があって、散歩の途中時折立ち寄って、隣の大満寺のお参りと、広瀬川を挟んだ市街地の展望を楽しんでいるが、神社の境内に「石川善助」という仙台出身の詩人の石碑が立っている。

 

過去に何気なく目を留めたことがあるかもしれないが、この土曜日、改めてその詩を読んでみた。


 

「化石を拾う」

 

光の澱む切り通しの中に

童子が化石を探してゐた

黄赭の地層のあちらこちらに

白いうづくまる貝を掘り

遠い古生代の景色を夢み

母の母なる匂いを嗅いでゐた

 

・・・・・もう日は翳るよ

空に鴉は散らばるよ

だのになほも探してゐる

探してゐる

外界(さきのよ)のこころを

生の始めを

母を母を

 

         石川善助


この詩人のことを調べたところ、明治34年(1901年)に仙台で生を受け、昭和7年(1932年)6月に不慮の事故のため東京の蒲田で命を落とした、わずか31歳で逝った薄命の詩人である。亡くなった時、詩人の草野心平と同宿していた。そして、没後4年、「亜寒帯」という唯一の詩集が草野の編纂によって世に紹介されている。石碑の詩は、この詩集に掲載されているもの。追記すれば、詩集「亜寒帯」の序文は、高村光太郎が書いたとのこと。(オイラは、もちろんこの詩集を知らない。是非、読んでみたい。)

その草野心平といえば、宮沢賢治の「春と修羅」を出版当初から絶賛し、高村光太郎といえば、もちろん「智恵子抄」でおなじみの日本を代表する詩人であるが、「定本宮沢賢治語彙辞典」によれば、賢治没後に、賢治を「うちにコスモスを秘めた詩人である」と賛辞を呈し、昭和20年に東京の家を焼け出された後に、花巻の宮沢家をたよって来花し、戦後7年間花巻に在住している。

その、草野とも高村とも縁があり、賢治の没する前年に逝った石川善助であるが、賢治とも大正14年(1925年)に会っており、昭和6年に刊行された「児童文学」という雑誌編集者で詩人の佐藤一英というひとに、賢治の童話寄稿を推奨しているということが分かった。「グスコーブドリの伝記」は、この雑誌から世に出た。賢治は石川善助の死を悼んで、石川の1周忌(賢治の亡くなる3か月ほど前にではあるが、)に追悼文を書いたという。

「そうか、この石碑の詩人も、賢治つながりだったのか。・・・」

秋の日の、メタセコイヤへの想いから、広瀬川の珪木化石に手を触れ、遠い遠い数百万年前の広瀬川に思いをいたし、さらに、その河畔から高い高い断崖を見上げ、褶曲した地層に思いをいたし、神社の階段を踏んで、その断崖上に立ってみれば、化石の詩が御影石に刻まれている。

その詩人を紐解くと、「コスモスつながり」で、昭和の大詩人たちが目の前に現れる。

すべてが、「コスモスつながり」という縁(えにし)で結ばれている。

「母を母を」という糸が、途方もない時間の長さと空間の広がりに張り巡らされているのかもしれない。

 

広瀬川に羽ばたく水鳥の影

カワアイサ♀

 

 

 

カルガモ

 

        

 

 

 

 

 

 

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