かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

高村光太郎が書いた山の秋・山の春・山の雪

2019-12-18 10:24:28 | 日記

賢治つながりで、高村光太郎の花巻時代の散文を青空文庫で読む。光太郎は、昭和20年から7、8年間の間、花巻市の町はずれの掘立小屋とも言ってもいいような小屋に一人で暮らしていた。もちろん、自炊生活である。年譜によると、昭和31年に73歳で没したとあるから、およそ、62歳からの70歳近くに至る晩年を北国の掘立小屋で過ごしたことになる。オイラの今の年ごろにである。

昭和20年に東京のアトリエが空襲に遭い消失。花巻の街中にある宮沢家(当時は賢治の弟の清六さんの家だったか。)を頼り、疎開したにもかかわらず、8月に花巻までも空襲に遭い、難を逃れ、花巻中心部から10k以上離れた山里に粗末な家を建てひとり隠遁者のように暮らした。戦争鼓舞の詩を書いていた自省の念から、こうした生活を「選択」したといわれている。

高村光太郎連翹忌(レンギョウキ)運営委員会さまのblogを読ませていただくと、自然豊かな地ではあるが、けっして快適な環境とはいいがたく、吹雪の日には、板の隙間から雪が入り込んで、布団の表を凍らせたり、夏は湿気が多い土地とのことで、虫に悩ませられたりしたのではないだろうか。http://koyama287.livedoor.blog/archives/1658007.html

それがどうだろう、青空文庫の書棚に並んでいた「山の秋」、「山の春」、「山の雪」という短い散文を読んでみたら、貧しいはずの山里での暮らしが、山川草木、花鳥風月の浄土世界、ちりばめられた瑠璃光世界に住まう仙人のような、ほがらかで屈託のない文章となっている。https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1168.html#sakuhin_list_1

賢治もそうであるが、芸術家というヒトたちは、修羅の空気を吸って、天上世界の息を吐くことができる触媒めいたヒトたちだと思う。決して、虚言ということではなく、彼らの精神が、彼らの環境を、そのように浄化させたのだろう。戦争賛美を肯定するものではないが、戦時下の暗雲を彩雲として眺められる、何かしらの「高邁な精神」が、光太郎にはあったのだろう。

「山の雪」の末尾で、四角い紙にポスターカラーで真ん丸を書いて、棒の先に糊付けした日の丸を、新年に雪の小山に立てることを習わしとし、喜んでいた精神も、そのようなものなのだろう。

平明だが、山の生き物や天文気象、土地のヒトビトへの愛着が込められた、珠玉のような散文。光太郎も好きになった。春になったら、自転車に乗って、高村山荘も周ってみようぜ。

賢治記念館の丘から花巻市街を望む

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