かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

花巻で湯ックリズム

2020-01-13 11:24:51 | 日記

 

鹿踊り(ししおどり)の鹿が、花巻市の鉛温泉にある藤三(ふじさん)旅館名物の「白猿(しろざる)の湯」にのんびり浸かっているポスター。この湯舟の深さは1.3mほどあるので、立ったまま入らなければならない。したがって、入るとやや安定にかけ、あまりのんびりとはいかないのだが、このほうが体に良いとも聞く。でも、四つ足の鹿君、二本足では、さぞかし不安定だろう。

花巻市の温泉PR用のポスターなのであるが、オイラは昨年の暮れから花巻の温泉地を巡りはじめたこの地の新参者である。

二日間泊まった大沢温泉自炊部では、思いがけず、この温泉が賢治ゆかりの温泉であることを知った。幼少期から父親が主催する仏教講話会に何度か参加していることを知った。その後、年譜やその他の情報で、この講話会は10日間程度行われており、花巻の浄土真宗信徒を中心にのんびりとした湯治を兼ねていることも知った。子供も大勢参加しており、すぐそばを流れる豊沢川で水遊びをしたり、野山を駆け回ったりしたのだろう。退屈させてはならないと大人は子供にやさしく仏教説話などを話して聞かせていたと推測する。賢治の童話の世界は、このような幼少時の体験によってすでに芽吹いていると思ってよいのだろう。

 

賢治10歳、1906年(明治10年)8月9日に大沢温泉で撮影したと思われる仏教講習会記念写真。年譜では、講習会は、8月1日から10日まで行われたとある。

 

 

 

今年に入って、大沢温泉よりさらに西の豊沢川上流にある鉛温泉の藤三旅館を訪ね「白猿の湯」や「桂の湯」、「白糸の湯」の日帰りを楽しんだ。バスは、その先の新鉛温泉まで通じていたが、そこで降りてしまったため藤三旅館までは5分ほど歩いて戻った。大沢温泉自炊部も藤三旅館も古く格式のある木造建築で、宿の応対も丁寧、豊沢川の瀬音を聴きながらの露天に忘我のときを過ごした。

 藤三旅館の風格ある構え

 

この藤三旅館に賢治が投宿したかは今のところ不明だが、西隣に西鉛温泉秀青館という、これも格式のある温泉宿があり賢治の母方の実家がこの宿を所有していたとのことで、賢治の両親をはじめ、トシの保養、などで賢治一家は秀青館を利用していたようだ。戦後は、光太郎も投宿し、四階建ての木造建築をほめたたえていたようであるが、残念、昭和40年代に廃業となり、今は跡形もないとのこと。夢の跡なのである。

大沢温泉や鉛温泉は、花巻南温泉郷というエリアに属し、このエリアには、松倉温泉、志戸平温泉、渡り温泉、山の神温泉、新鉛温泉とまだまだ温泉地が点々としている。これから、賢治ゆかりのなめとこ山や松倉山歩きもしたいので、ここいらの温泉巡りもいいのだろうが、オイラの目にとまるのは歴史ある古い建物の名湯とされるところ。

先週は、花巻電鉄の走っていたもう一方の様子も見てこようと、花巻温泉郷の奥の台温泉までバスで行き、日帰り温泉精華の湯というところに入ってきたが、湯質はよかったが、隣の蕎麦屋さんと併設で、平日の昼どきは誰もおらず、自動販売機で券を買い、となりの木箱に券を入れるという性善説にたった対応で、かっくりとし、すこし寂しい思いをした。何軒かの宿は日帰りを可ととしているので、今度はどこか別のところを探そうか。古くからのみちのくの宿は、日帰りでもたいてい1000円はしないので、調べてから行こう。こちらの花巻温泉郷は、花巻温泉や金矢温泉などがあったが。台温泉しか求めるレトロ感は味わえないのかもしれない。

 

平日の昼は、歩く人ない台温泉街

 

 

大沢温泉湯治屋と藤三旅館の鉛温泉湯治部は、これからの花巻における賢治巡礼の基地ともしよう。

しかし、地域の仲間同士で10日間も湯治に出かけ、混浴で誰彼なくわいわい語り合い、思い思いの手料理で、毎晩唄を歌いながら、大酒飲んで騒いだ時代というものは、もうこの日本にはやってこないのだろうな。帰らざる日々だ。目を閉じて、ニヤリとするしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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