太宰治、1909年(明治42年)6月19日~1953年(昭和23年)6月19日、38歳没。青森県津軽の大地主が実家。
宮澤賢治、1896年(明治29年)8月27日~1933年(昭和8年)9月21日、37歳没。岩手県花巻の質屋・古着屋が実家。
ふたりとも、明治の東北地方の富裕層の家に生を受け、自らの出自・親の生業にある種の反感を抱いて多感な青春時代を送った。その間、数々の名作を残し、若くして天に召されたが、今や日本を代表する文人であるのは言うまでもない。ただし、文人と言っても、賢治さんは詩人、童話作家として今やコスモポリタン的な存在であり、太宰くんは、小説家なのであるが、いまだ青年層を中心に熱狂的なファンを抱えているという違いはある。
富裕層の出自・生命時間・同時代に生きていたという共通点はあるが、お互いに相手を知らなかったであろう。また、賢治さんは生前ほぼ無名だったとさいわれており、太宰君は、賢治さんの死後に芥川賞の候補にもなって名も知られてきて、戦後すぐに「斜陽」などのヒットで流行作家になっており、ふたりが交錯する機会はなかったと言える。
また、賢治さんは、熱心な法華経信仰者、科学者、農業実践者でもあり、終生女性を娶ることはなかった。反対に、太宰くんと言ったら十代後半から何人の女性と関係を持ったのだろう。昭和14年に石原美知子さんと婚姻(再婚か)しているが、生涯複数女性との関係を絶てず、最期も愛人との入水で命を絶っている。また、短い生涯において何度、薬物中毒や自死未遂を起こしたのだろう。身内や関係者から見たら、賢治さんと比べ、まるで危険極まりない人生を送っていたとみられる。なお、太宰くんは、キリスト教に親近性を持っていたと思われるが、今は、三鷹の仏教寺院に眠っており、キリスト信徒ではない
だが、太宰くんと賢治さんの「決定的ちがい」は、感覚のアンテナがウチ、すなわちヒトの世界、ヒトの心のうちに向かっているか、ソト、すなわち自然や宇宙といった、ヒトを包み込む世界に向かっているのかにあると思う。
オイラが愛読する太宰くんの「富嶽百景」は、「冨士には月見草がよく似合う」と言っているので、あたかも花などヒト以外の事物に太宰くんは関心があるのかなとも思ってしまうが、あれは富士山の風景という一般的価値感に迎合する大衆に反して、誰も興味を抱かなかった山際に咲く月見草をひとり愛でている老婆のこころの崇高なるものの賛辞なのだと思いたい。
太宰の師とされる井伏鱒二さんの随筆に「御坂峠にゐた頃のころ」(筑摩・井伏全集第18巻)というのがあって、井伏さんが「富嶽百景」当時、太宰君を連れて栗拾いにいっても、「太宰君は山川草木には何等興味も持たないよう風で、しょんぼりとしてついて来た。」というくだりがあり、このことからも、太宰くんは御坂峠に行ってもあまり自然には興味がないことを示しているのではないか。(でも、月見草の種を拾ってきて天下茶屋の背戸ちかくに播いたやさしい心根はあるじゃないか、と反論されそう。)
このことから、オイラはとしては、賢治さんを敬愛してやまないのは言うまでもないが、なぜか「心配ばかりかけている弟か友人のように」太宰くんのヒト好みと、かれが終生のテーマにした「愛」にも、賢治さんの「ほんとうのさいわい」と同じように興味を捨てきれないでいる。太宰くんの作品は、なにやら依存性のある薬物のような魅力というか魔力がある。こないだ行った「斜陽館」の何かの展示で、文芸評論家奥野健男さんが、「太宰の小説は我々への手紙だ。」と言っていたのが心に残っている。太宰くんは、絶妙な手紙口で、改めて今のおいらのこころに語り掛けてくるやもしれない。
そんなことで、きのう図書館から太宰全集を3冊ばかり借りてきた。まずは、戦前、戦中の円熟期の作品からはじめ、1か月ばかりの期間で、太宰君の小説にあらためて目を通そう。マラソンをしながら沿道を眺める程度の、斜め読みでおわるだろうが、富嶽や津軽とおなじような「ぐさっと心に刺さる名作」を見つけようではないか。
天下茶屋からの富士。雲があるといいじゃないか。河口湖が少し見えている。太宰当時は、あんなに家が建っていなかったろうに。ちょうど雲がかかりはじめているあたりが、武田泰淳・百合子さんの山荘だった地点だろう。
現在の天下茶屋
「天下第一」記された旧御坂トンネル。現在、ほとんど交通量はない。
太宰当時の天下茶屋
明治(クリーム)キャラメル、名糖乳業(ダイドードリンコ)、今も健在だ。太宰も口にしただろうか。(酒とたばこだけで生きていたか?)
天下茶屋に掲示していた「富嶽百景」娘さんモデルだという中村たかのさん。(近年亡くなったという。)
(当時17歳とか、どことなく妻となった津島(石原)美知子さんと似ていて知性的な容姿だ。)