大人の休日フリーパスを利用し、かねてからの課題だった太宰治くん(限りない親しみをこめて)の出自探訪のため、津軽鉄道の金木駅に降りて、今は太宰記念館として自治体管理となっている「斜陽館」に行ってくる。ザックにいれた新潮文庫「津軽」を読み進めながらの旅である。
で、小説「津軽」、高尚な風土記チックなスタイルを匂わせてはいるが、そこは太宰くん特有の仕掛ではあって、(出版社の意向もあろうが)、実は大酒飲み同士の旧友とのたのしい酒盛譚なのだ。敗戦間際の軍需統制を極めていた、なかでもアルコールの確保が困難を極めていた昭和19年に、ひさびさ故郷を訪れた(アルコール依存体質の)太宰くんが、旧友や親類縁者の饗応にあずかりながら、朝から晩まで酒と郷土料理を堪能している、なんとも戦時なのかと疑いたくもなるような、今でいう食べ歩きレポートの類いなのだが、一流の批判精神、アイロニーやユーモアで、りっぱな作品に仕上がっている。よって、オイラもハイボールをいただきながら旅をする。
だが、作者の本音は、最終章にある。西海岸の小泊に、幼少の彼を付きっきりで母親代わりに育ててくれた女中タケとの再会。もう、このシーンを読み進めていくうちに目頭が熱くなってきた。この文庫本は20年ほどまえに買ったものだが、かつて、こんな気持ちにはならなかったのにである。「津軽」は、これが書きたいがために、グタグタ?と風土記だの食べ歩きだのを前置きしたともいえないか。
金木の斜陽館は、オイラの若い頃からの想像の通り、地方地主の成金趣味によって、貧相な市街にこれ見よがしに建てられた、いただけない構造物。太宰くんも、出自は選択できないにしても、青春期にこの成金と貴族員議員だった父の俗物性に相当のダメージをうけ、これが彼の精神構造をかたどり、左翼運動やデガダンに走らせたのだと想像する。
まるで。刑務所の塀のように、世間んと離隔した豪邸。おら。こんなイエいやだ!トウキョサイグダ!
金木方面から望む岩木山の十二単をまとった貴女の姿だけは、終生、太宰くんのなぐさめになってくれたのだろう。