かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

「富士日記」昭和51年9月1日を胸に刻んで・・・

2022-09-01 15:09:34 | 日記

来週の富士山卒業式にちなんで、太宰「富嶽百景」に触れてきたが、「富士山」絡みで武田百合子「富士日記」を手に取る。

9月1日は、賢治さんの「風の又三郎」にちなんで私的に「風の又三郎記念日」と決めていて、毎年再読しているのだが、昨晩は枕もとでYouTubeで市原悦子さん朗読の「風の又三郎」を聴きながら寝入って、すぐに目が覚めたら「9月4日、日曜」の「ガラスとマント」で又三郎が空を飛ぶ幻想的なシーンをやっていたが、眠くなったのでスマホを切って寝た。

「風の又三郎」は、夏休み明けの9月1日からはじまって嵐の翌日の9月12日までの物語であるから、今年は「台風11号」もやってきていることだし、台風と過ごしながら、この台風が列島を過ぎていくまでじっくりと読み進めることにして、今晩も、市原さんの朗読をつづきを聴きながら眠ることにしたい。

 

で、「富士日記」なのだが、これは、作家武田泰淳さんの奥様だった武田百合子さんが、富士山麓の別荘で泰淳や一人娘の花子(写真家武田花)さんや飼い犬・猫と過ごした昭和39年(1964年)7月から昭和51年(1976年)9月までの12年ほどの期間にわたる日記なのだが、オイラの愛読書でもあり、「富士山」が念頭にある時には決まって中公文庫の分厚い三冊を手にし、つらつらと目を走らせている。

今日は、9月1日にちなんで、この日記で、9月1日はどのように書かれていたのか、ペラペラページをめくってみた。

が、驚いたことに9月1日の日記があるのは、昭和44年と「泰淳最晩年の」51年の2か年だけと分かった。主に夏季に東京にある自宅から避暑を兼ねて出かけていて、9月、10月までは滞在することが普通だと思っていたので、9月1日が抜け落ちていることが意外だった。

が、すぐに見当がついた。昭和26年生まれの花子さんの学校があったからだ。日記の内容から、花子さんは東京の学校に通っていて、夏休みや他の休日に両親のいる別荘を訪ねていたのであり、9月1日といえば東京の学校は新学期の始まるころだ。当時、東京の自宅と富士の別荘は、百合子さんの運転する自家用車で移動をくり返しており、おそらく新学期の準備のために百合子さんは9月1日前後は、毎年東京に移動していたのだろう。

それと、日記をみれば昭和46年(1971年)以降、昭和50年までの5年間は9月に「富士」に滞在した事実はないことが分かる。これは、泰淳の体調の変化(Wikipediaによると糖尿病を基因とする脳血栓で入院など)が原因ではないかと思われる。

そして昭和51年であるが、Wikipediaによると、泰淳は、この年の10月5日に胃がんが転移した肝臓がんにより64歳で死去しているが、百合子と泰淳は、この年の7月23日から9月9日まで「富士」の別荘で最後となる睦まじい生活を送っている。この最後の年の日記、いつ読んでもすこし目頭が熱くなる。9月9日に東京に帰ってから、百合子と花子は泰淳の重篤な病状を知ることになるが、この「富士」に滞在した最後の日記には、「めまい」に苛まれ弱り切った泰淳がいて、百合子は当時、日記を書きながらなにかただならぬ気配を感じて過ごしていたものと察する。

 

その日記の昭和51年9月1日の日記なのだが、短いが実に味わい深い。要約すれば、


9月1日(水)晴.時々くもり

・朝、黒い揚羽5羽、庭のツクバネ朝顔の花に体を突っ込み蜜を吸う。羽ばたき弱い。

・天気が良いので、主人、歯ブラシ、コップを外で干しながら眼をつぶって座っている。

・そばで、(飼いネコの)タマも眼をつぶっている。

・午後、主人シャワーと洗髪。(百合子が)体を洗おうとするが「頭が悪くなる」と拒否される。

・夕方、(百合子)タマと遠くまで散歩。タマ飛ぶようについてくる。

・百合の匂いが庭に充満。(百合子)来年はもっと球根を植えたい。来年も二人とも元気で山にきたい。


このあと、二人とタマは、9月9日に「水中を潜って通るように」嵐の中を山を下ることになり、二度と二人で「富士」に来ることはなかった。

 

オイラは、富士登山を卒業すれば、もうあまりこの「富士日記」を手にする機会がないのかもしれないが、この昭和51年9月1日の日記の内容は、終生忘れることはないのだろう。

 

          

 

 

 

 

 

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