昨夜は、漫然として、Youtubに映し出されるパレスチナ・ガザ地区の町並みをライブ映像で見ていた。
どちらの方角を映し出している映像なのかさっぱりわからないが、3分から5分の間隔で黒煙と時折火柱があがり、少し遅れて鈍い爆発音めいた音が聞こえた。ライブ映像の奥で、何かモスクの中の禱りのような男のダミ音も微かに聴こえた。
イスラエルのミサイルは何を狙っているというでもなく、ただ無差別にガザの市街地にありったけの砲弾を浴びせ続けているというにしか理解できなかった。何か恐怖で怯えたものが無差別に空に向かって発砲するかのように。
こんな時、また、わが耳奥で、みゆきさんの「ひまわり"SUNWARD”」のシャウトが聴こえてきた。
昨年3月あの熊野古道の山小屋で雑音交じりのNHKラジオから聞こえてきた、みゆきさんが戦争の不条理を歌った歌である。ロシアの理不尽なウクライナへの暴力に、いいようのないかの国の「冷徹」さに悪寒を感じながら冷たい三月の雨音を涙まじりで聴いていたっけ。
どうしてヒトは、隣人同士でかくも残虐な行為に及べるのだろうか。今回のかの国は、隣人同士ではなく長年抑圧され続けた囚人と看守という立場なのか。
宗教や民族の違いやこれまでの紛争の歴史がわからないととうてい理解不能ではあろうが、今回のパレスチナ自治区のハマスの行為とそれに反応するイスラエルの行為は、なんのためらいもない暴力の連鎖の一コマであって、いいようのない「冷徹」というものを感じる。それは、やがて来るAI時代の「冷徹」も前触れなのだろうか。いや、それが有史以前から繰り返されてきたヒトの本来の「冷徹」なのだろうか。
ロシアといい、パレスチナ紛争といい、毎年のように、ただただ、ヒトの世の愚かさを感じながら、まだまだ、この老後を生きて行かねばならぬのか。(辛い)
SUNWARD(形容詞・副詞で”太陽の方向の、に”)
たとえ どんな名前で呼ばれるときでも
花は香り続けるだろう
たとえ どんな名前の人の庭でも
花は香り続けるだろう
どこにでも、だれにでも降り注ぐ「太陽の光」、それを「神さま」というのではないか。花たちは、ひまわりたちは、そう言っている。そこには民族も宗教もないよ。
今宵、ひまわり”SUNWARD”の入っているみゆきさんの「ここにいるよ」のアルバムを聴きながら、秋の長夜を過ごそう。(瞬きもせず → 泣いてもいいんだよ → 負けんもんね → 時代 →・・ )
ぶるぐれさんのYoutubで
マリー・クレール・アランのオルガンで バッハコラールBWD731