かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

どっこい生きている者たちへ

2019-07-03 14:15:53 | 日記

2019年6月30日の朝、予定であれば富士山の奥庭荘から御中道を経由し五合目にたどりつき、そこから、ゆっくりゆっくり歩き、次第に薄くなる空気を楽しんで深呼吸を繰り返し、行く先々の山小屋の前で休憩を取りながら、山頂には翌日7月1日の午前0時ころには到着して、岩陰に身を寄せビバークスタイルでポンチョをかぶり、防寒服に身をつつんでウイスキーでもちびりながら、午前4時過ぎの山開きのご来光を待つという「図式」であったが、如何せん、ふもとの御中道入り口でさえ、下記のごとく猛烈な風が吹きまくっていたの早々と登頂をあきらめた次第である。


 

       

 

御中道入り口から五合目までは小1時間。幸い西風だったので東に方向を取る登山者の追い風となり風をまともに受けることはなかったが、吹きさらしの場所にあっては、何度か体を浮かされ、「飛ばされるんではないか」、「石が飛んでくるのではないか」といささかの命の危険を感じ、持っていたストックに力が入った。

 

御中道の散策路は風がないと日本庭園みたいな場所なのであって、森林限界地帯間近な位置にあり、溶岩の砂礫にコメツガ、カラマツ、ダケカンバ、ミヤマハンノキ、シャクナゲなどがしっかり根を張り、猛烈な風に耐えていた。冬の季節風や台風襲来時はこんなもんじゃないだろうが、それでも生きて、子孫を残そうと必死の様相であった。(樹のこころは分からないけれども、・・全然平気なのかもしれない。)

 

だが、おお、よく見よ、カラマツは植林されたノッポのへなちょこと違い、背が低く、幹をどっしりとさせ、山おろしの偏西風の風下となる谷側に枝を張り、今にも倒れそうな姿勢に耐えながらも、この環境でで安定的に生きる術を習得しているし、ダケカンバは、何度も折檻を受けた子供が背骨に変異を生じて育ったかのように、幹が痛々しい曲線を描き、古木は木肌がぼろぼろと化しながら風に対峙している。まるで、百戦錬磨の老いた兵士のようでもある。どの樹も尋常ではないスタイルで生き永らえながら、一族の繁栄に懸命であることに、感銘せざるを得ない。

 

カラマツ

ダケカンバ

ダケカンバ

 

ダケカンバの古木

 

富士山麓の樹々は、新しい溶岩の上のわずかな表土に根を張るものが多く強風に弱いのだという。船津林道の二合目から三合目の間は、昨年の台風の影響だろうか10メートル置きといってもいいくらい倒れた木々が道をふさいで、そのたびに迂回を余儀なくされ、1.5倍は歩かせられた。

ダートのコースだが、スバルラインができるまでのバス道路だとかで道幅が3、4メートルくらい広い林道なので、林道に倒木が多いのは、隣同士の間隔が広く、枝同士で支えあう樹がなかったということか。道端の古木は不運であったが、それでも仲間の大方は台風に耐え、命永らえている。

 

 

とてつもなく生きにくい世界に種を落とされても、何の愚痴もこぼさず、生きる知恵をはたらかせ、静かに百年、二百年の時を眺め、倒れても「完全な死」までには、なおしばらくの間、緑を残そうとする富士の樹々の生きざまに、神々しさまで感じ、信仰に近い何かしらを感じざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山麓から富士山をめざす5つの古道を踏破した令和元年

2019-07-02 18:33:30 | 日記

山高故不貴、以樹為貴」山高きを故に貴からず、樹有るをもって貴しとなす。

富士山を五合目の森林限界から登る行為は、山の神に不貞を働いている。富士山は、必ず麓のゼロ合目から登るべし。深田日本百名山に魅せられ、日本の名峰といわれる山を若かりし頃から登ってきたが、富士山だけは敬遠してきた。軽蔑してきたといって過言ではない。あのような砂漠のようなコースを歩いたって面白くもなんともない。五合目までバスやマイカーでやってきて蟻んこの行列のように砂と岩の無機質地帯に歩みを進める行為は「人間性に悖る」、こっちからお断りという時代が、40代後半まで続いていた。

ただし、「富士に一度も登らぬバカ、二度登るバカ」という格言というか、俗諺もあり、一度は登らねばならないと内心思っていた頃、「富士登山競争」という競技を知って、「競技のついでだったら、恥ずかしくない。一度だけ登ろう」と40代後半に決意した。

「富士登山競争」は、7月第四金曜日の朝、標高750mの富士吉田市役所前をスタートし、富士山北口浅間神社脇から標高1500mの馬返しまでの舗装道路11kをひたすら走り、ゼロ合目から五合目までの原生林となっている古来の参詣道を早足で進み、標高2300mの五合目から砂礫と岩稜の道併せて10kをあえぎあえぎ、朦朧としながら歩き詰め、3700mの東北奥宮に制限時間4時間30分でゴールとする過酷極まりない競技。

最初のエントリーした年、オイラは八合目の制限時間に引っかかり悔しい思いをしたが、馬返しから五合目までの原生林と江戸から昭和初期まで隆盛を極めた小屋の残骸などを間のあたりにして、それまでの富士のイメージががらりと変わった。樹がある、それも古木が、と感銘を受けた。その翌日、頂上を踏めない悔しさから、富士吉田にもう一泊し、タクシーで早朝馬返しまでいき、山頂に到達し、お鉢巡りを楽しんで、再び、緑深き吉田口へ降りた。

それ以来「富士登山競争」7回連続チャレンジする中、そのトレーニングかねて、同競争のコースでもある吉田口、裾野市からの須山口からの麓からコースを歩いた。富士の緑に埋もれたいからである。

一昨年は、海抜ゼロからの最長コース村山口、そして昨年は晴天にめぐまれ緑豊かな精進湖口からの山開き。

そして、今年、頂上こそ目指せなかったがヤマケイアルペンガイドNEXTで紹介されている5コースの最後となる船津口を歩いて、五合目まで達し「一応」完登した。いずれのコースも緑深き、貴いコースであり、改めて富士の深さと慈愛を体得することができた。

富士の緑はただの緑ではない、太古からの何度も溶岩に焼かれて、崩壊に埋もれて、ど根性を見せて再生した復活の緑。五合目から下はそのような復活なった緑なのであり、今も森林限界には、さらに上をめざそうというカラマツやコメツガの幼木が強風にめげずしっかりとした緑を色なしている。

そのような、命の舞台にオイラはこれからも訪れるのだろう、命ある限り。できれば、その辺の古木の下に骨を埋めてほしい。


G3Xの練習で広瀬川。

まずまずである。慣れろ。次は星空だ。

スズメ

カルガモ

なぜか、ウミネコ

冠毛のかっこいい五位サギくん

肉食系のおめめは鋭いね。

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富士山山開きの朝、机に向かいて何思う

2019-07-01 10:07:36 | 日記

2019・令和元年7月1日午前10時。本来なら富士山吉田口で富士山八合五勺まで登頂し、運良くば、ご来光を仰いでからの下山途中だった。

それなのに、それだのにだ、今こうして仙台の自宅の机に向かってこの日記を認めている。

朝日の速報だと、今朝の八合五勺に立って、一瞬のご来光を仰げた幸運の持ち主は、たったの5人。

https://www.asahi.com/articles/ASM7126HTM71UZOB006.html

静岡新聞の報道にあるとおり、昨日30日の朝は、五合目でも猛烈な風が吹きすさび、とてもさらに上を目指そうという状況にはなかったのだ。前日宿泊した奥庭荘からお中道を経て五合目に至る小一時間ばかりの吹きさらしの道で、オイラは何度か強烈な追い風にあおられ飛ばされそうになり、ストックに力を込め、すり足状態で五合目にたどり着き、ただただ、下山することばかり考えていた。

https://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/652131.html

多分想像だが、上の5人は前日登ったのではなく、上の小屋で待機していたのではないかと思われるが、あるいは、昨日の午後からは風が少しばかり治まってのかもしれない。それにしても、例年だと2000人ぐらいの登山者であふれる開山日の山頂、なんともさみしいかぎりである。が、自然にはかないません。

6月29日、夕刻の富士は八合目より上、厚い雲に覆われていた。(奥庭展望台より)

吉田口より、北口浅間神社に下る。トレールランナーが次々と登ってくる。日曜日だ。開催まであとひと月をきった富士登山競争の練習なのか。15年前から7年ほどチャレンジしたあの日あの時の懐かしさが込み上げてくる。

馬返しの寂し顔のおさるさまに挨拶をして、浅間神社の開山祭りを眺めて、湯に入り、吉田のうどんをいただいて、いつの間にか「富士山駅」と偉そうに改名した富士吉田の街を後にする。河口湖といい富士吉田といい、もう15年も通い続けている「富士バカ」なのである。

富士山の神様のお使いだとか、それにしても寂しいお顔はどうしたの。

北口富士浅間神社の開山まつりの参列。昔はこうして登ったのか。

一度ではすすりこめないゴワゴワ強靭腰の効いた麺の食感と、ごま油の効いた練り唐辛子を3杯入れると醸し出される辛味に病みつきになる。

さて、もう富士山の地図ひろげて来年のことを考えている。

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