かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

雀 スズメ

2019-07-17 14:01:39 | 日記

不覚にも、おおむね3日間寝込んでしまった。熱が引かなければインフルの疑いがあるのでクリニックに行こうと考えていたが、3日目に熱が引いたので、梅雨寒による風邪の悪化と自己診断し、起き上がった。

一日目の夜に、酒飲めば治るだろういう旧来の手法で寝込んだが、さらに悪化し、38.5度の熱、悪寒、首とのどの硬直、どこかかしらの痛みが増したので、反省し、二日目からは、胃の薬と感冒薬で寝込んで、やっと3日目の朝になって布団をたためた。

雨がそぼ降る日々が続いていたが、晴れ間には庭やベランダに雀がやってきてチュンチュンと騒ぐ、窓開ければ逃げるが、近所の電線や屋根の向こうに数匹は留まって、こちらの動きを伺っているようだ。,

一体雀の集団はどういう関係なのか良くわからない、一夫一婦制、ともたまには一夫二婦制と物の本にあるが、少なくとも10~20羽がいつもけんかもせず集団行動している様子だ。近づいてくるには訳があって、1週間前に1日2度ほどベランダに白米と玄米を40~50粒ほど撒いておいたら、どこからともなく目ざとい奴が1,2匹やってきて美味しそうに啄んで帰り、その後、20羽程度の集団がやってきて、あっという間に平らげていった。糞を二つばかり置いて行った。

「野生」に餌付けはよくない、ここは集合住宅だと、自覚し、餌やりはやめることにしたが、それでも、学習したと見えて、たまにその集団が近くに寄ってきてチュンチュンと騒ぐ。

決して人懐っこいのではないのだろうが、そのへんの「つかず離れず」の雀の習性に、他の野鳥とは異なる愛着を感じざるを得ない。

寝込んで、枕もとで聞く雀たちの声の軽やかさは、モーツァルトのような音楽を聴いているようでもある。

 


 

 

                                               雨の日、こちらを見ている 30メートル先の屋根上

 

 

 

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ごめんなさい一茶さん

2019-07-12 19:20:34 | 日記

小林一茶については、これまで全くと言っていいほど関心がなかったし、満足に句も読んでいなかった。

「やれ打つな蠅が手をすり足をする」

「痩せ蛙負けるな一茶是に有り」

「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」

などの句ばかりイメージにあり、駄句をいっぱい作っただけの俳人であり、取るに足らないヒトだと思いながら生きてきた。

日本のアニミストを数えるにあたって、宮沢賢治、村尾三省などのほかどのようなヒトたちがいたのか考えていたら、ふと、村尾三省さんが著書「アニミズムという希望」という著作で小林一茶のことに触れていることを思い出して、本棚から取り出して、その頁をめくってみた。

 

長野県北部の柏原村に生まれた一茶は、継母との確執から少年期に江戸に奉公に出たが、50(文化9年)まで俳諧で名を挙げていたが、思うところがあって50になって故郷にもどり65歳(文政10年)に没するまで故郷に暮らし、故郷での句をいっぱい作った。

村尾さんに言わせると、アニミズムの原点は「故郷的存在」であり、自分の生まれ故郷か否かを別として「終の栖」という自分の感覚にぴったりとする「故郷」という地を得て、その場の森羅万象に霊=カミを感じ、自らの生を子孫にバトンできる者こそ一番幸せであり、一茶は、故郷に帰り、そのような幸せの中で句を作り生涯を閉じたのであり、故郷に帰ってからの句に一茶のアニミストたる価値を認めるのだという。

あらためて、図書館から一茶の句集を借りてきて、目を通してみたら、なんと「オイラの感覚にぴったりする」句がいっぱいあるあることに驚いた。見くびっていた。ごめんなさい、一茶さん。

一例をあげると、

「雪とけて村一ぱいの子供哉」(文化11年)

「蟻の道雲の峰よりつづきけむ」(文政2年)

「子供らや烏も交る栗拾い」(文政8年)

雀をはじめとする小鳥、花、昆虫、哺乳類らへの愛着、同レベルでの子供らへの愛着にあふれた句がいっぱい。あらためて、一茶の世界を知ってみようと思った。(故郷に帰った一茶は3人の妻をめとるが、存命中に生まれた子供にことごとく死なれ、一番目の妻に死なれ、三番目の妻は一茶が死んでから子を産んだので、存命中に子孫を見どけなかったし、継母や弟との相続争いなど、はたから見たら決して幸せな環境だとったとは言えないが、それなのに、故郷に帰ってから、どうして暖かな句がいっぱいできたのか、それを一番知りたいのだ。)

山尾さんに言わせると、俳句の季語そのものがカミであるのだという。目鱗ある。であれば芭蕉も蕪村も、虚子も子規もみなアニミストということになり、アニミズムへの帰依のためには、名句をいっぱい詠んで、オイラも句を詠むべし。という気にもなってきた。

賢治や三省さんばかりではなかった、この国のアニミストは。・・・美術の森にも分け入ってみよう。

 

 


青葉山の樹々の名前の学習に奔走中。

 

青葉山で一番多い落葉樹は「コナラ」。「ミズナラ」との違いを学習せよ。

幹は

葉柄が(葉の付け根から枝まで)1センチ以上ならコナラ

 

オニグルミとサワグルミ

よくわからんが、鋸歯(葉の縁のギザギザ)が細かく低いからオニグルミ。リスの好物。

 

 

モミの幼木の先端は二つに割れているんだ

 

 

 

 

 

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年金生活者の広瀬川と青葉山散歩

2019-07-10 10:29:06 | 日記

少し長いが、青空文庫に掲載されている宮沢賢治「注文の多い料理店」序文を掲載させていただく。


わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃ももいろのうつくしい朝の日光をのむことができます。  またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗らしゃや、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。  わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。  これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹にじや月あかりからもらってきたのです。  ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。  ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。  けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾いくきれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
  大正十二年十二月二十日
宮沢賢治

底本:「注文の多い料理店」新潮文庫、新潮社    1990(平成2)年5月25日発行    1997(平成9)年5月10日17刷 初出:「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」盛岡市杜陵出版部・東京光原社    1924(大正13)年12月1日 入力:土屋隆 校正:noriko saito 2005年1月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国政選挙運動の真っただ中である。最大の争点は、将来の年金不安だとか。マスコミは、(選挙妨害にならない範囲で)連日、年金に関する報道を取り上げており、昨日は、A社が国民年金だけで暮らしている高齢者を紹介していた。夫婦で月当り12万円の生活。

国民年金は、20歳から60歳まで全国民が加入義務となっており、サラリーマンとその専業主婦は国民年金に入ったこととされ、別途厚生年金保険に加入し、保険料を事業主と折半で負担することにより、定年後国民年金分に加えて厚生年金を受け取り、A財務大臣が受け取りを拒否した金融庁の報告書にあるような平均的な厚生年金受給者は夫婦で平均月当たり19万円ちょっとと国民年金のみより大幅に多い。報告書では、平均的夫婦はその他の収入併せて21万円の収入があるというが、それでも毎月5万円が赤字とか。

そのような平均的日本人の生活費と比較し、国民年金のみ生活者の月12万円とは何たる低廉なのだろう。実は、「国民年金加入者は経営者や農漁民、自由業などを職業とするヒトたちであり、定年はないのだから、少ない年金でも死ぬまで収入があり続けるのだから文句はないでしょ」というのが、もともとのお国の考え方。

ところが、非正規と言われ零細個人企業などに雇われ続けた人々で厚生年金加入履歴がなかったりするヒトや、経営者でも体の老齢化や、もうからなくて商売をやめたヒトは、国民年金だけの生活に陥り、生活保護費とあまり変わらない生活を余儀なくされる。報道された月12万円の年金生活者は65歳で電気店を閉めたものとか。零細企業者には、貯蓄どころではなかったヒトビトも数多くいよう。65歳の夫婦は、市営アパート月2万円とか。資産も作れなかった個人経営者は多いのだろう。この国の実態なのであるが、年金の制度設計をしたお国のヒトは65歳でリタイアする経営者など予想していなかったようだ。予想していた役人でも、経営者=金持ちのイメージをもって制度設計したのかもしれない。失敗だった。

報道では、金融庁の平均的夫婦の「交通通信費」と「娯楽教養費」が5万円以上であるのに対し国民年金夫婦は1万にも満たない。どこにも行けないし、何もやれないという、ただ食べて寝るだけという数字なのだが、アンケートでは、娯楽は何かととの問いに、金のかからない「散歩」をしているのだという答えが一番多いとか。

どうりで、というか、オイラも仙台にいるときは、毎日のように広瀬川河畔や青葉山をカメラ担いで歩いているが、日中行きかう人は、年金生活者と思しき高齢者ばかりである。あの報道以来、すれ違う人々が国民年金生活者に見えてくるから「印象操作」というのは怖い。

だが、待てよ、毎日が近所の散歩だけだって、ランニングだけだって、毎日同じ舞台というのはなく、賢治の語るように、風や陽の光を受けた森や林といった森羅や鉄道線路のような万象をも「深く」味わうことによって、宝石やすきとおった真の食べ物を手にすることができる、言い方を替えれば、山川草木悉皆成仏=アニミズムの境地に達することによって幸福になれるじゃないか。

別途、今後の生活不安解消に選挙という武器で声を上げることにしても、今ある生き方を転換していけば、新たな光明というものが射してくるのかもしれない。

かくいうオイラは金融庁的平均的年金生活者に分類されるのではあるが、趣味のカメラは壊れる、防湿庫は壊れる、住まいは老朽化と汚れが激しく、酒は抜けず、旅の中毒は増すばかりで、実質収入は、国民年金派に近いとも言え、不安なのである。・・・・・ゆくゆくは、狂信的なアニミズム教に帰依するしかあるまい。

今は、その修行中でござんす。


心配していたが。広瀬川に今もカジカガエルが鳴いているのを確認した。今日は、青葉山でホトトギスにどっぷり漬かったし、たしかにニイニイゼミの声も聴いた。もう少し暑くなるといよいよ大好きなセミの季節がやってくる。広瀬川の魚止の堰堤にはサギやカモメ、カワウやゴイサギがいつもやってきて遡上するアユやヨシノボリを美味しそうにほおばっている。食われたほうからしたら何が何だか分からんだろうが、多くの仲間は食われずに上流を目指しているのだろう。

G3xの動画機能が撮影

スマホで撮影、青葉山ムササビのヒノキの森でホトトギスを聴く

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夏の花

2019-07-09 01:53:06 | 日記

さしずめ、梅雨期の仙台の天候は、石垣島の正月前後の気候と同じ。最低気温16度、最高気温20度、湿度80%。毎日毎晩青空は望めず、星空派にとっては忸怩たる思いである。

富士山から帰って、月半ばからの夏山シーズンを控え、訓練と行きたいところだが、近隣は然り、北を見ても南を見てもどんよりとした空気に、今一歩、足が山に向かない。

高山では、夏の花が謳歌している時節、内心いてもたってもいられず、東北なら花の山、栗駒、焼石、吾妻あたりに出かけたいのだが、週末も傘マーク、どうだろう。吾妻は、一切経の噴火レベルが2から1に引き下げられたが、いまだ浄土平までのバスは走っていないのだという。

まあ、大雨でもない限り、登山規制解除の吾妻に出かけようか。ふもとの高湯からスカイラインを歩けばいい。雨だったら、営業を再開した吾妻小舎にも泊まってみたい。

その、花の山の撮影練習を兼ねて、歩いて30分「近所」の野草園に通っている。高山植物スポットもあり、山の「気分」にさせてくれる。それにしても都市部の「植物園」の静けさと言ったらどうだろう。先月の神代植物園も東京とは思えない静寂の時間をいただいた。

これより先、旅の途次、「動物園」でも「水族館」でもなく「植物園」を訪ねるのもいいかもしれない。野鳥観察も昆虫観察ものんびりできて、料金も低廉だ。

仙台なら、近隣の野草園と東北大学植物園、一日中、ぶらぶらして寝そべるのもいいだろう。

 

これより、夏の花写真集

 

夏椿

 

野花菖蒲

撫子

 

白山風露

 

紫陽花の仲間

駒草

 

山苧環

 

柿蘭

 

野萱草

 

九蓋草

丘虎尾と靫草

 

紫陽花の仲間

 

蝦夷紫陽花

 

山蛍袋

 

桔梗の仲間

 

白馬浅葱

 

石楠花の仲間

細葉当帰

 

鵯の仲間

 

乳茸草の仲間

 

赤とんぼの♀  野草の世界は秋も近い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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昭和30年代までの富士山バス道路

2019-07-05 20:06:14 | 日記

富士スバルラインの開通は、前の東京オリンピックの年に当たる昭和39年とか。それ以来、今の吉田五合目までのバスが開通し、アンチョコ殺伐富士登山スタイルが始まったといえる。古来の参詣道に当たる北口浅間神社からの登山道は急速に廃れる。だが、それ以前の昭和の30年代まで、富士吉田、河口湖方面からバスが走っていて、ヤマケイNEXTの筆者によると、オイラがこの前辿った船津林道の二合目から三合目のコンクリート養生跡などから分かるように三合目の広場までバスが通じていて、どうやら今の精進湖ルートの林道らしき広い道が五合目まで通じているのだが、三合目から五合目まではジープみたいな四輪駆動車に乗り換えてお客を運んだらしい。

船津林道のダート

 

バス終点となった三合目広場 車掌さんの笛が聞こえてきそう

 

 

アスファルト舗装道路に慣れ親しんだ我々には、非舗装のダートやコンクリート補強道路をエッチらコッチらと登るボンネットバスによる三合目までの走行は想像できないし、ましてや、現在の様子からは、初代コロンビアローズ(?)のような容姿端麗女車掌が乗り合わせてオンボロバスがこの山道を行き交ったなんて、全くイメージできない。

たしかに、1400m地点には、昭和27年に富士山が特別名勝に指定された記念石碑がぽつんと立っており、そのころは確実にバスが往来していたのだろう。

昭和27年12月22日 特別名勝富士山の石碑が沿道に立っている

 

 

だがどうだろう、昭和27年、1953年から66年、往来は原生林の苔に埋もれ、倒木で隠され、この道を歩くものさえ、今や年に数十人程度だろう。

ヒトの世の隆盛の短さ、儚さに、いまさらながら愕然とせざるを得ないが、まてよ近未来、空飛ぶ自家用車なんてものが富士山上空を飛んで容易に富士山頂にたどり着けたとしても、ちっともおもろない。

 

荒んだバス道やオイラのあるいた5つの古道はしっかりとした痕跡があるし、ヒトは結局「緑に回帰してくる。」オイラみたいな阿呆が、緑に焦がれて、古木に会いに、また、どんどん歩き始めるのだろう。(と、近未来の富士登山を予測したい・・・・)これらの道が、復活することを、祈りたい。

 


 

こないだの日曜日、富士山御中道を歩いていて、きらクラの録音設定しようとNHK東京FMをオンエアしたらバッハの無伴奏ヴァイオリンが流れていた。「ああ、厳しさと慈愛にみちたバッハの音楽こそ、富士の樹々に聴かせるにはぴったりだ。」と理解した。帰って、Youtubeのお世話になり毎朝聴いている。マルツィという女流の方の演奏で。いいなあ。お宝発見。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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