かぜねこ花鳥風月館

出会いの花鳥風月を心の中にとじこめる日記

1年前の甘樫の丘の木

2019-12-21 15:44:46 | 日記

ひょんなことから、昨年のブログを眺める機会があって、昨年の今頃訪れた奈良県吉野の甘樫の丘に寄り添う赤い実の常緑高木の名前が分からないままになっていた、ことに気づいた。

この1年間で、少しは樹の検索能力が向上したのかもしれないが、「木肌」、「実の色と形」、「葉の形状」などで、あらためて、「滑らかな木肌」、「赤い楕円形の実」、「細い光沢のある鋸歯が少しあり、先端が細い葉」を検索していたら、インターネットの図鑑、「ナナミノキ(七実の木)」が一番近しいというということになった。

さらにネットで、「甘樫の丘・ナナミノキ」で検索したら、奈良在住の方のブログにヒットし、「甘樫の丘展望台のナナミノキ 果実が少し色づいてきた」というコメントに行きついた。

 

 

ナナミノキでいいんだ。 北国では聞きなれないモチノキ科モチノキ属の常緑高木だった。

「宿便を外に出したような、すっきり感」だ。

暮れの、暖かな丘の記憶がよみがえるが、「まだ1年しか経っていないのか、遠い世界のような心持なんだが・・」。

 

 

丘の上に肩を寄り添うように立っている可愛い二本の木

 

 

木肌は滑らかな常緑高木

 

 鮮明な写真ではないが、葉のカタチ、実の色とカタチといった特徴はつかめる。

 

 

 

 

 

http://zasshonokuma.web.fc2.com/nagyo/na/nanaminoki/nanaminoki.html

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2019年の星空を見上げて「銀河鉄道の夜」を読む

2019-12-21 11:50:07 | 日記

 

図書館から手当たり次第に借りてきて読んでいる賢治関連の書の一冊、2017年新潮社発行、今野勉著「宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人」には、これから賢治を辿るうえで、随分と示唆と刺激をいただいた。現場を歩きながら難解な文語詩、「春と修羅」、「マサニエロ」などの詩を克明に読み解いでいく展開に、ミステリー作品を読み進めるような快感を覚えた。

 

叙述の後半に、「銀河鉄道と怪物ケンタウルス」、「宮沢賢治の真実」の章が設けられていて、「銀河鉄道の夜」に登場するカムパネラとは誰をモデルにしていたのか、最愛の妹トシはどこに登場していたのか、ジョバンニの手にしていた切符は何を意味していたのか、「なるほど、そういうことだったのか」と、目鱗させられた。

 

あらためて、「銀河鉄道の夜」の「九 ジョバンニの切符」を読み進めながら、2019年に撮影した星の記録を取り出して、「白鳥区→アルビレオの観測所→鷲の停車場→双子のお星さま(水晶宮)→蠍(さそり)の火→ケンタウルスの村→サウザンクロス→石炭袋」を旅してみた。

 

 

 

2020年、もう少し、賢治の好きだった岩手の高原や海岸線を歩いてみようか。今野さんように、詩や童話を深読みする上で、何かしらかの閃きをもたらすのかもしれない。

 

10月28日18時 岩手夏油温泉での白鳥区付近

 

 

 

1月25日朝の6時 石垣島のベランダから朝のサソリ、左の大きいのは金星と木星

 

 

 

1月15日朝の5時 石垣島宮良海岸 からの 南十字座方向

 

 

それにしても、真冬でも気軽に海岸に出られた、石垣島のありがたさが、しみじみとしてくるわい。

 

 

 

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500万年前に触れる

2019-12-19 07:25:53 | 日記

広瀬川は、青葉城のふもとの霊屋橋から大橋にかけて大きくU字にくびれ、U字の下端あたりに竜の口渓谷という細い支流が流れている。この渓谷は、高さ100mはあろうかと思われる狭いV字谷となっていて、震災で崩壊しやすくなっているとかで、今は、立ち入り禁止の看板が立っている。

が、そこに、あの石川善助「化石を拾う」の舞台があったんだと聞いて、少し探検してみる。初冬の渇水期なので、長靴さえ履いていれば、流れを渡るのは容易で、途中倒木や落石危険場所もあるが、その化石層には、短時間でたどり着いた。

断崖の下方の流れの近いところの褶曲した層に白い貝殻がいっぱい閉じ込められていた、むき出しの貝殻は指でつまむと容易に欠けるほど脆い。炭酸カルシウムという成分そのまま。まるで、卵の殻ほどの脆さ。

その薄っぺらな白い貝殻が固い岩盤に閉じ込められている。先のとがったハンマーでないと割り裂くことは不可能なほど。広瀬川ホームページによると、500万年ほどまえの浅瀬の海に生息していたハマグリの仲間など。次第に海が引いて、陸となり死骸になったものが波や流れある土砂に揉まれたのなら、砕け散って砂になってこのような形状を残していないに違いない。生きている間に、あの化石木と同じように七ツ森当たりからの大火砕流や降り注ぐ火山灰に閉じ込められてしまったのではないか。

だが火山灰がかくも硬い岩盤に変化するとはどのようなことなのだろう。500万年という時間のプレッシャーなのか、500万年の間に上積みされた地層が圧力をかけ続け、その重圧で火山灰が固い岩盤に変化したというのか。想像もつかないエネルギーだ。

だが、謎はそれだけでない。このようなⅤ字谷はなぜできたのか。この谷がなければ、このような貝殻の化石層は、目の前に現れないのではないか。500万年の間に、計り知れない大きな地震のような地殻変動があって地面が割れる。そこに雨が流れる。すこしづつ周りの地層を侵食する。その積み重ねが、仏教でいう「五劫の擦り切れ」(天女が100年に1回降りてきて、羽衣で岩を1回撫でて、その岩が摩擦で消滅する)ほどの時間の間に、この谷を形作って、この化石層を露にしたということなのか。想像もつかない時間だ。

想像もつかないエネルギーと時間とによって存在が許された岩盤に閉じ込められた白い脆い貝殻が、2019年の地上に露になっている。何が何だか分からないままこの世に生を受けたオイラが、偶然散歩で出会った石碑に感化されて、この場所にたどり着いて、初冬の外気と水流に冷たくなったそれらの化石に触れている。

夜空の星を眺める如く、不可思議な心地にもなってくる。

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高村光太郎が書いた山の秋・山の春・山の雪

2019-12-18 10:24:28 | 日記

賢治つながりで、高村光太郎の花巻時代の散文を青空文庫で読む。光太郎は、昭和20年から7、8年間の間、花巻市の町はずれの掘立小屋とも言ってもいいような小屋に一人で暮らしていた。もちろん、自炊生活である。年譜によると、昭和31年に73歳で没したとあるから、およそ、62歳からの70歳近くに至る晩年を北国の掘立小屋で過ごしたことになる。オイラの今の年ごろにである。

昭和20年に東京のアトリエが空襲に遭い消失。花巻の街中にある宮沢家(当時は賢治の弟の清六さんの家だったか。)を頼り、疎開したにもかかわらず、8月に花巻までも空襲に遭い、難を逃れ、花巻中心部から10k以上離れた山里に粗末な家を建てひとり隠遁者のように暮らした。戦争鼓舞の詩を書いていた自省の念から、こうした生活を「選択」したといわれている。

高村光太郎連翹忌(レンギョウキ)運営委員会さまのblogを読ませていただくと、自然豊かな地ではあるが、けっして快適な環境とはいいがたく、吹雪の日には、板の隙間から雪が入り込んで、布団の表を凍らせたり、夏は湿気が多い土地とのことで、虫に悩ませられたりしたのではないだろうか。http://koyama287.livedoor.blog/archives/1658007.html

それがどうだろう、青空文庫の書棚に並んでいた「山の秋」、「山の春」、「山の雪」という短い散文を読んでみたら、貧しいはずの山里での暮らしが、山川草木、花鳥風月の浄土世界、ちりばめられた瑠璃光世界に住まう仙人のような、ほがらかで屈託のない文章となっている。https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1168.html#sakuhin_list_1

賢治もそうであるが、芸術家というヒトたちは、修羅の空気を吸って、天上世界の息を吐くことができる触媒めいたヒトたちだと思う。決して、虚言ということではなく、彼らの精神が、彼らの環境を、そのように浄化させたのだろう。戦争賛美を肯定するものではないが、戦時下の暗雲を彩雲として眺められる、何かしらの「高邁な精神」が、光太郎にはあったのだろう。

「山の雪」の末尾で、四角い紙にポスターカラーで真ん丸を書いて、棒の先に糊付けした日の丸を、新年に雪の小山に立てることを習わしとし、喜んでいた精神も、そのようなものなのだろう。

平明だが、山の生き物や天文気象、土地のヒトビトへの愛着が込められた、珠玉のような散文。光太郎も好きになった。春になったら、自転車に乗って、高村山荘も周ってみようぜ。

賢治記念館の丘から花巻市街を望む

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化石の碑~広瀬川の断崖に立って

2019-12-16 10:19:40 | 日記

 こないだの、広瀬川河床に残された概ね300万年前のメタセコイアの化石。そのころの様子が、以下の広瀬川ホームページに詳しい。仙台市街を流れる、今の広瀬川付近は、500万年前は海だった。300万年ころまでは、その海の水が引くか、地盤が隆起して陸地となり、メタセコイヤやナラなどが繁茂、仙台市郊外の七ツ森付近からの大火砕流が巨木を埋め、いまの化石を残したものと思われる。広瀬川の少し上流、八木山の竜の口渓谷などでは、貝の化石や亜炭がいまでも見つけられるという。

広瀬川HP

https://www.hirosegawa-net.com/report/report20/2

 

近所の霊屋橋から愛宕橋にかけての広瀬川右岸は、高さ100mほどの断崖となっていて、さまざまの地層が重なっているが、数百万年の間にどのような地殻変動や浸食作用があってこのような地形になったのか、もう少し調べてみよう。

 

その断崖の上に、愛宕神社があって、散歩の途中時折立ち寄って、隣の大満寺のお参りと、広瀬川を挟んだ市街地の展望を楽しんでいるが、神社の境内に「石川善助」という仙台出身の詩人の石碑が立っている。

 

過去に何気なく目を留めたことがあるかもしれないが、この土曜日、改めてその詩を読んでみた。


 

「化石を拾う」

 

光の澱む切り通しの中に

童子が化石を探してゐた

黄赭の地層のあちらこちらに

白いうづくまる貝を掘り

遠い古生代の景色を夢み

母の母なる匂いを嗅いでゐた

 

・・・・・もう日は翳るよ

空に鴉は散らばるよ

だのになほも探してゐる

探してゐる

外界(さきのよ)のこころを

生の始めを

母を母を

 

         石川善助


この詩人のことを調べたところ、明治34年(1901年)に仙台で生を受け、昭和7年(1932年)6月に不慮の事故のため東京の蒲田で命を落とした、わずか31歳で逝った薄命の詩人である。亡くなった時、詩人の草野心平と同宿していた。そして、没後4年、「亜寒帯」という唯一の詩集が草野の編纂によって世に紹介されている。石碑の詩は、この詩集に掲載されているもの。追記すれば、詩集「亜寒帯」の序文は、高村光太郎が書いたとのこと。(オイラは、もちろんこの詩集を知らない。是非、読んでみたい。)

その草野心平といえば、宮沢賢治の「春と修羅」を出版当初から絶賛し、高村光太郎といえば、もちろん「智恵子抄」でおなじみの日本を代表する詩人であるが、「定本宮沢賢治語彙辞典」によれば、賢治没後に、賢治を「うちにコスモスを秘めた詩人である」と賛辞を呈し、昭和20年に東京の家を焼け出された後に、花巻の宮沢家をたよって来花し、戦後7年間花巻に在住している。

その、草野とも高村とも縁があり、賢治の没する前年に逝った石川善助であるが、賢治とも大正14年(1925年)に会っており、昭和6年に刊行された「児童文学」という雑誌編集者で詩人の佐藤一英というひとに、賢治の童話寄稿を推奨しているということが分かった。「グスコーブドリの伝記」は、この雑誌から世に出た。賢治は石川善助の死を悼んで、石川の1周忌(賢治の亡くなる3か月ほど前にではあるが、)に追悼文を書いたという。

「そうか、この石碑の詩人も、賢治つながりだったのか。・・・」

秋の日の、メタセコイヤへの想いから、広瀬川の珪木化石に手を触れ、遠い遠い数百万年前の広瀬川に思いをいたし、さらに、その河畔から高い高い断崖を見上げ、褶曲した地層に思いをいたし、神社の階段を踏んで、その断崖上に立ってみれば、化石の詩が御影石に刻まれている。

その詩人を紐解くと、「コスモスつながり」で、昭和の大詩人たちが目の前に現れる。

すべてが、「コスモスつながり」という縁(えにし)で結ばれている。

「母を母を」という糸が、途方もない時間の長さと空間の広がりに張り巡らされているのかもしれない。

 

広瀬川に羽ばたく水鳥の影

カワアイサ♀

 

 

 

カルガモ

 

        

 

 

 

 

 

 

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