川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「3年自然災害」という人災

2008-01-22 08:13:08 | 中国
 昨年から残留孤児やその中国人妻のお話を聞くようになって「大躍進期の飢餓」が身につまされるようになってきました。皆さんの多くには何のことか解らないでしょう。僕もほんの少し前まで年表的理解を出ませんでした。そこで、少し長くなりますが『岩波現代中国事典』の該当語彙の説明を書き写すことにします。時間をかけてゆっくり読んでみてください。大変なことです。                  

  三年自然災害  1958年の大躍進政策の失敗で、59年から61年までに2000万人から4000万人という史上空前の大量の餓死者を出した事態。中国では「自然災害」と呼んでいるが、政治的要因も大きく「天災」ではなく「人災」だったともいわれている。なお、「3年経済困難」という言い方もされる。

 [死者数、損失規模の推計]
 
 59年から61年にかけて大躍進政策の失敗によって大量の餓死者と膨大な経済的損失が出たことは長らく秘密にされてきた。しかし、文化大革命後の82年に人口センサスが行われた結果、この時期に人口の絶対数が大幅に減少しており、大量の死者が出たことが確認された。また最近の公式文献や研究論文でも断片的にその惨状が明らかにされ始めているが、中国では「非正常死亡」と呼ばれる当時の餓死者数について公式に確認された数字はない。公式文書では2000万人ともいわれていたが、93年に発表された研究では「農村地帯のみで4040万人」、あるいは「出生数減少を含め4000万人減」という推計も出ている。また経済損失は総額1200億元といわれている。
 この惨禍について、中国当局は「経済困難期」があったことは認めたが、その原因は「自然災害、ソ連の(対中援助の)契約破棄、一部指導上の誤り」と主張してきた。しかし、その後の研究によれば、この期間に重大な自然災害は発生しておらず、また「ソ連の契約破棄」も食糧生産にほとんど関係がなかった。つまり、この大量餓死事件は人為的な原因による「人災」であることが明らかにされている。

 [「人災」の諸原因] 

 これまでの中国内外の研究では、この惨劇を引き起こした最大の原因は「生産水増し報告」であったとされる。当時農業の奇跡的大増産を目指した大躍進政策を成功させるか否かが政治問題として農民、特に各地区の幹部にとって大きな圧力となり、生産額の誇大報告が蔓延した。その結果、供出割当量が急増し、供出を達成したら自家飯米もなくなったという。供出を達成できない場合いには「ごまかし報告摘発運動」で隠匿食糧も摘発され、餓死者を増やすことになった。ちなみに当時の公式発表では58年の食糧生産量は3、75億トンであったが、実際はその半分以下の1,7億トンと推計される。
 農業の大増産運動と同時に農民は土法による鉄鋼生産、水利工事に動員され、農村労働力が枯渇し、作物が収穫できなかったところも多い。また毛沢東は自らが描く共産主義ユートピアの一部として大躍進期には農村での無料公共食堂を開設させたが、結局は大量の食糧を浪費する結果となり、まもなく解散された。事態を深刻化させたもう一つの原因は、飢餓が発生した地区の農民は歴史的に流民となって村を離れ他郷で働いたり、乞食をして危機を乗り切ってきたが、大躍進期には地方幹部が流失を阻止したため、無用の被害を増加させ、一部では流失しようとする農民を逮捕し暴行を加えたという。

 この災害を破局まで導いたのは59年の廬山(ろざん)会議であり、この会議の結果、中国共産党中央は毛沢東の命令通り、大躍進の強化継続を命じた。また、彭徳懐(ほうとっかい)批判に続いて全国的に展開された反右派闘争で大躍進の継続に躊躇する多くの地方幹部を右派分子として粛正して運動を強行したため、犠牲者をさらに増やした。
 これらの惨状は文革終結までひた隠しにされてきたが、文革後になって河南省信陽地区の実情の一部が明らかになった。「信陽事件」として知られるこの大量餓死事件も当初中央に報告されることなく、事態をいっそう悪化させた。60年になり党指導部は大量の幹部を送り込み救済を始めたが、すでに同地区の人口の5~20%が餓死していた。安徽(あんき)省でも300~500万人が餓死したという。当時、党中央が救済に乗り出し責任者の処分を決定(実際の処分はなかったという)したのは信陽地区の一例のみであり、全国的状況について信頼できる資料は残されていない。
 一家・一村全滅、食人事件、食糧暴動に対する流血の弾圧など当時の惨状を断片的に伝える資料や文学作品も現れている。しかし、今なお大災害期の餓死者数、そのほか被害に関する正確な数字を知ることはできない。
 こうした大躍進の惨憺たる結果について劉少奇らは大きな衝撃を受け、調製政策へと転換するが、これを不満とする毛沢東との対立が発生し、後の文革(66年からの文化大革命のこと)発動への導火線となった。(辻康吾)