川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

父の日記(昭和3年)(9)嵐

2008-01-28 13:53:42 | 父・家族・自分
 兄から電話があり、室戸岬小学校の朴一家の記念樹が枯死したとの僕の高知新聞への投書があちこちで話題になっているとのことです。朴姉弟の同級生などが関心を持って取り組んでくれるなら、それが最高です。そして、なんとかして姉弟の消息を探し出し、いつの日か、再会を喜んでほしい。その日まで、三代目になるかもしれませんが記念の木をみんなで育ててください。それが僕の願いです。
 室戸岬の嵐は並大抵のものではありません。僕の小学校の中谷義高校長は式典のたびに岬の松の木のように背は低くともしっかり根を張ってねばり強くたくましく生きよと訓示されました。高台にある学校の校庭で幼木から育てるのは大変だと思います。

 20歳の父の日記にも嵐の日の記録があります。
 
 1928(昭和3年)8月18日(土)雨
 
 暴風雨。夜来の荒海の為、港塞 殆ど潰えんとす。
 豪快と言ふべきか 悲惨と言ふべきか。偉大なる自然の力に対しては文化を誇る 人力もあまりに小さい。数か月の日子と萬を越ゆる労力と而して十数万の巨資を 費(す)。その人類砕身の営みの結果を自然は一瞬にして粉砕し去ったのであ  る。
  神は常に万生を愛すとかや。
 身方不相応の出資と数ヶ月の苦闘に、今や疲労困憊の極に達せんとしつつある、 六千八百津呂町民の頭上に突如一大鉄槌を下し給つる神の御旨は如処にかある。
 あはれ 貧しき町民の苦闘は更に一入(ひとしお)の激しさを加えた。
 例の通り経済学の勉強。新家の法会 一同手伝いに行かる。日没天候愈々悪し。 兄姉上等家の造作に骨折らる。

 12月12日(水)雨

 久しく行方不明を伝へられし津呂港漁船 多満丸 本日無事帰港せりとの事。本県水産界の為、又乗組員諸氏の為 衷心(ちゅうしん) 慶賀に堪へず。(略)
 床次(とこなみ)竹二郎氏 行き詰まれる日支交渉に一道の光明を見い出さんとして、本日南京入りをなせし由、成功を祈りて止まず。(略)
 
 当時、父の兄は漁船に乗っていました。港は村の命。しかし、天然の港ではなく嵐には耐えられません。沖に出たまま行方不明になる船もあります。僕が子供の頃でもそれは同じで、伯母さんについてあちこちの海の神様にお参りに行きました。
 この年は「満州某重大事件」で張作霖が爆殺され、日中関係が緊張していきます。父は鶴見祐輔の著作などの他、総合雑誌『改造』も読んでいます。社会主義者の言論にも接していたことになります。