川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

共産主義 人民公社(1)

2008-03-16 06:28:00 | 中国
 『餓鬼 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』ジャスパー・ベッカー著(1999年 中央公論新社刊) 148pより151pを書き写します。

 飢饉の犠牲者のほとんどは、人民公社で暮らす、普通の中国人農民だった。1958年の終わりには、大躍進の制度上の骨格をなす、この奇怪な組織に、農民の総人口ともいえる五億人が組み込まれていた。毛沢東やその仲間は、人民公社は天国への入り口だと豪語し、康生は、農民が繰り返し歌うようにと、次のような詩を書いた。
 
  共産主義は楽園です
  人民公社は
  楽園にいく橋なのです
  共産主義は天国です
  人民公社は天国に続く階段なのです
  その階段が出来さえすれば
  私たちは、天国に行けるのです 

 しかし、農民は直ぐに、その人民公社が恐怖組織であることに気づいた。人民公社は、1958年の夏に急いで設立された。多くは、一ヶ月、時には48時間で作られた。この発想の源は、『共産党宣言』にあった。マルクスは、「農業都市」に基盤を置く産業軍として農民を組織すれば、都市と農村の較差を少なくすることが出来ると考えた。およそ一万の農民がひとつの人民公社にまとめられたが、所によっては、その二、三倍もの人数を抱えた公社もあった。(略)党は次のように表現した。「1958年に新しい社会主義組織が誕生した。それはまるで、東アジアの広大な地平線に輝く、朝日のようだ」。人民公社は、党の「三面紅旗」の一つとなった。他の二つは、「大躍進」、「社会主義の総路線」である。これらは中国を共産主義に導いてくれる旗印だった。私有財産をなくす、農村の工業化、党と農民を軍隊の機能を備えた、規律正しい組織として完璧に合体させる、などが目標に掲げられた。毎朝早く、農民は赤旗に従って行進した。ライフルを持って行進する所もあった。人民公社内部では、農民は生産隊としてまとめられた。時には、小さな村の労働力全部が組み込まれた。そしてこれらの生産隊は、生産大隊と呼ばれる更に大きな単位に組織された。通常は二交代制で働いたが、模範的な労働者が「突撃隊」として組織され、休みなしに二十四時間働いた。軍隊式に組織された女性の「突撃隊」もあった。

 1958年の数ヶ月間、人民公社では、男女を別に住まわせたことがある(これにはさすがの毛沢東も、子孫を残すために月に二回だけ会うことで男女は十分なのか、と首をひねった)。この男女分離は、河北省の徐水人民公社で最初に実施されたが、その後、河南省、湖南省、安徽省、さらにダムやその他建設工事に従事しているグループなど、国中に広まった(著者のインタビュー)。安徽省のある人民公社では、村の一方のはずれの宿舎に男が住み、もう一方に女が住んだ。このように分ければ、生産高向上に効果があり、結婚している人も含めてすべての男女が集団として集会に参加し、田畑の作業に従事できると人民公社の指導部は信じた(『農村の30年』)。共産党の目的は明白だった。家族という単位を破壊することである。

 何千年も続いてきた個々の家族の枠組みは、取り外された。……我々は人民公社を家族とみなすべきであり、自分だけの家族を持つことにこだわってはならない。長い間、母親の愛は尊いものとされてきた。……しかし、人間を社会的な面よりも生物的な面で見るのは誤りである。……この世でもっとも愛すべきは両親である。しかし、毛沢東主席や共産党とは、比べものにならない。……なぜなら、われわれにすべてを与えてくれたのは、共産党であり、偉大な革命だったからである。個人的な愛情は、さして重要ではない。したがって、女性は、夫の精力を求めすぎてはならない。(『中国青年報』1958年9月27日)