川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

桂子おばさん逝く

2009-07-18 17:20:57 | 父・家族・自分
 松山の将史兄さんから桂子おばさんの訃報が届きました。世話になった日々を思い出しながら弔電を書いていると泪がとまりません。

 久田桂子、ぼくの祖父の妹の末子。将史兄さんの叔母さんです。高知県室戸岬で生涯を送りました。世代はひとつ上ですが一番若かったせいか、我が家では桂子さんとよんでいました。

 ぼくは少年の頃、桂子さんのお嫁入りの樽持ちという役をやらせてもらいました。花嫁行列に加わって手提げの酒樽を持ち運ぶのです。中町の実家から港の上を通って西下町の久田家まで歩いたのではないかと思われます。祖母がいなかったぼくにとっては中町のばあちゃんは祖母がわりです。ご苦労さんといって何かをもらったのでしょう。

 お連れ合いの春利さんは沿岸漁業の漁師です。虎丸という船を持っています。この頃は風呂事情が悪く、よくもらい風呂をしました。桂子さんたちが我が家の風呂に来ることもあります。ぼくは水くみから風呂焚きまでよくやりました。そして、最初の方に入浴するのです。桂子さん達が来るのを知って、湯があまり減らないように、垢が浮かないように気をつけるようになったことを思い出します。水道というものが風呂場まで来ておらず、湯加減を自由に出来るわけではなかったのです。(坂井の伯父さんの家や平野のばあちゃんの家に行くとタイル張りの風呂があり、水道もありました)。

 ぼくが家を離れてからは正月や神祭に帰ったときにお会いしました。家のお客によく来てくれたのです。春利さんは神祭や盆踊りの口説きの名手でお客の席を盛り上げてくれます。父にとってこのご夫婦は自慢の種であり、頼りにもしていました。何かあれば「春利」「桂子」だったのです。お二人がいると座が和むのです。室戸岬の漁師町の気質と伝統を体現している最後の人たちだったのではないかと思われます。

 ずいぶん後になって春利さんが喘息でたくさんの薬の世話になっていることを知りました。戦後、長期に亘ってシベリアに抑留され、体を蝕まれたのが原因です。春利さんはまもなく急逝されました。
 いくら遠く離れて住んでいるからといっても、何も知らなかったのは残念でなりません。ぼくはこの方達に楽しい思いだけをさせてもらっていたのです。
 遅ればせながら少し勉強して抑留体験を持つ方の画集などを桂子さんに届けたりしました。「おんちゃんがシベリアでどんな風に生活していたかがちょっとわかったよ」などといってくれました。

 1人になられてからも父や母の頼りの綱になってくれました。やがて病魔に冒されますが、気丈なこと限りなく、いつも励まされるばかりでした。
 最後はこの春です。大阪から姪が来てくれたからといって珍しくお客に出席したといいます。松山の千代美さんにも踊りを所望したそうです。その一族がそろった賑やかな宴席から遠くに住むぼくに電話の向こうから声をかけてくれました。

 「啓介、おまんも頑張りよ」

 今日、妻は丸木美術館の手伝いで留守です。妻もこの40年間、桂子おばさんにかわいがってもらいました。この人がいたおかげでどんなに心強かったことでしょう。北海道の旅先からお見舞いの絵はがきを書いていました。おばさんに読んでもらうことが出来たのでしょうか。

 室戸ではそろそろお通夜の時間です。桂子おばさん、本当にお世話になりました。どうぞ、ゆっくり休んでね。春利おんちゃんのところにいったらまた仲良く暮らしてください。