川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「日本書紀」を読む

2009-07-23 07:02:12 | 父・家族・自分
 こういうタイトルを付けましたがぼくが「日本書紀」を読んだわけではありません。とても面倒くさくて、難しそうで読む気力が起こりません。

 何度も何度も読んでぼくに語り聞かせてくれるのは妻です。面白いのでそれを書いてみたらと勧めたところ、「きいちご」に連載記事が載るようになりました。天武・持統朝(奈良時代)の頃編纂されたわけですが今の歴史教科書よりは遙かに公正に諸説を紹介しているといいます。

 ぼくと同じように歴史に関心はあるけれど読むのはとてもと思われている方におすすめします。



  連載エッセイ・「わたしの」古代史 其の四(『きいちご』5号)

 
   神代(かみよ)の話(2)

                      鈴木倫子

●天孫降臨

 「てんそんこーりん」と読む。いまや、これを知らない人もいると思うのでちょっと説明しよう。まあ、読んで字のごとく「天から孫が降りてきた」ということなんだが、1945年8月15日までは学校で、それが皇室のご先祖の歴史だと教えていた。もちろん天武・持統政権にとってもここが日本書紀のハイライトともいうべき部分だったわけだ。そのせいかどうか、このくだりも「一書」が多く、第八の書まである。

 誰の孫かというとアマテラスの孫でニニギノミコトという。別書では若干違う名になっていたりするが、本文ではアマツヒコヒコホノニニギノミコトだ。ヒコヒコは誤植ではない。たぶん、アマツヒコ ヒコホノ ニニギノミコトと区切るのだろう。長ったらしいのでここでは省略して、「ニニギノミコト」あるいは「ニニギ」だけにしておく。

 アマテラスが孫のニニギに「行っておいで」と命じたとする書もあるが、本文はじめおおかたの書では、別に三柱の神さまがいて指令を下したとされている。これが「其の一」でふれておいた「司令塔」の「アメノミナカヌシ」「タカミムスビ」「カミムスビ」で、とってつけたようにここでいきなり登場する。後から創ってくっつけたものだろうと、岩波文庫本の注にはある。こういう司令塔は一柱で良さそうに思うのだが、独裁ではなく、三柱にアマテラスも加わった合議で指令が出されて来るというところが面白い。

 この人(?)たちを仮に「天孫族」と呼ぶことにしよう。天孫族はどこが気に入ったのかわからないが、自分たちの子孫をこの列島の支配者として送り込みたいと思った。日本書紀も認めているように、ここは無人島じゃなかったんだから、ずいぶんとお節介なことをしようとしたものだ。

 でも彼ら、厚かましいけど慎重でもあった。まず偵察隊を送ってみると「なんだかわけのわからない野蛮そうな連中がワヤワヤやっている」という報告が挙がってきた。この時点までは、アマテラスの息子とタカミムスビの娘を結婚させて、新婚の二人を送り込むつもりでいたのだが、「こりゃ、ちょっとヤバイよ」ということで、決行中止。とりあえず折衝係を送り込んで懐柔にかかったのだが、これが逆に懐柔されて行ったきり還ってこない。すったもんだしているうちに、新婚の二人に子供がうまれた。これがニニギノミコトで、ジジババの欲目と言ってしまえばそれまでだが、なかなか出来が良い。幸い、下の方との話も付いたので、この孫にお目付役をつけて送り出すことにした。以上が「天孫降臨」の顛末だ。

 ちなみに、このときの主な交渉相手はいずれの書も「出雲の国」「オオナムチノミコト」としている。つまりここで出雲族の「国譲り」が語られているわけだが、ニニギノミコトはこのとき、畿内にも出雲にも降り立っていない。出雲がヤマト政権に統合されたのはもっと後の時代なのだが、天孫族支配の正当性を語るためにここに割り込ませた、と見るのが、現代では一般的な考え方になっている。



●「天孫族」はどこからどこへやって来たのか

 では、ニニギノミコトはいったいどこに降り立ったのか。本文と第二、第四の一書では「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)」「日向のくし(木偏に串の下に心)日(ひ)の高千穂峯」など、第一の一書は「筑紫の日向の高千穂のくじ触峯(くじふるのたけ、「くじ」の漢字は前出の「くし」と同じ)」、第六の書では「日向の襲の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」といった具合になっている。「日向」は「日向国」が今は宮崎県になっているから高千穂峯は宮崎県にあると考えられてきた。ご丁寧なことに、宮崎県では霧島山と臼杵郡高千穂が本家争いまでやっているようだ。しかし、「日向」を「ひむか」の文字どおり「日に向かうところ」と読めば、これは固有名詞ではなくなる。現に第一の書では「筑紫のひむか」とされている。古事記でも「筑紫のひむか」となっているということだ。これであれば「筑紫の東部」にある、どこか日当たりの良い土地ということになるだろう。「高千穂峯」も補注に従って「稲をうずたかく積み上げたような、神のよりしろとなる山」と読み解けば、特定された「地名」ではなくなる。そして「日向」と「高千穂」をこのように読めば、第一と第六の暗号文のような降臨地の固有名詞は「くじふるたけ」と「そほりのやまのたけ」といった具合に尋常なものになってくる。

「クジフル」や「ソホリ」のどこが尋常なのかと言われそうだが、注および補注によれば、「くじふるたけ」は、朝鮮半島にあった加羅国の神話で始祖、首露王が天降りした山、亀旨峯(クィジムル)で、「添山峯(そほりのやまのたけ)」の「そほり」は新羅の都「徐伐(sio-por)」を音訳したものだろうという。つまり加羅国の首露王神話やそれに類似した神話を抱いた集団として日本列島にやってきたのだが、歳月、世代を重ねるうちにその場所がどこだったのかわからなくなって、「何でもあっちの方だったよな」「うん、たしか、筑紫のひむかとかいう所に最初のうちはいたって話だったよ」「筑紫(つくし)って言ったか?親戚があるのは日向(ひゅうが)とかだろう?」「あれは婆さんの方だろ?」てな具合になっていったということか。とにかく、天孫族は「神武の東征」まで、南の方の「オオヤマツミノカミ」に売り込んだり「ワタツミノカミ」と好誼を結んだりしながら、北九州の移住先で勢力を扶植することに心を砕いたようだ。

 ところでニニギノミコトや天孫族の故郷、高天原はどこにあったのか。亀旨峯に降りたと言うからには加羅国だろう。現在の慶尚南道金海市あたりにあったとされる古代国家で、加耶琴(カヤグム)に今もその名をとどめている加耶諸国の一つだ。「国」といっても、一つの国の規模はせいぜい「村」か「郡」程度のものだ。朝鮮半島についても日本列島についても、古代の「国」とはだいたいこの程度のものだということを念頭に置いておく必要がある。

 ところで加羅国を含め、加耶諸国というのが実は、流れ流れて朝鮮半島南部にたどりついていた「倭族」の末裔たちの国だった。彼らはすでに中国の文書には「韓人」と記されるような人々になっていたが、まだ一部には「倭人」として区分されるような習俗を保ち続けていた人たちもいたらしい。かれらが日本列島にやってきたのはおよそ三世紀のころと考えられているが、このころの朝鮮半島は、北方の扶余族が南下して「百済」を建てたり、加耶諸国を形成していた部族の一つである斯廬族(のちの新羅)が勢力をのばしたりしていた。そういう朝鮮半島情勢の中で弱肉強食の戦いに負けた「王」や「王子」が家来や一族とともに海を渡った。天孫族はそういう難民集団の一つだったと考えることができる。だからこそ慎重に瀬踏みをして「天降り」したという話になっているのだろう。もちろん、この時点で出雲王朝を屈服させることなど、できようはずもなかったろう。



●古代のボートピープル

 朝鮮半島から日本列島へは、どこをめざすにしても海を渡るしかない。ボートピープルになったわけだ。日本で一番古いと考えられる稲作遺跡は北九州の唐津付近にある菜畑遺跡で、紀元前三世紀頃のものということだ。つまり、朝鮮半島から日本列島へ来たボートピープルの歴史もそこまでさかのぼって考えられるものだということになる。

 彼らにはどんな事情があったのか。おおざっぱに言えば、だいたいこのころに中国大陸では、呉国と斉国の戦争、呉国と越国の戦争などがあった。そのはるか昔、漢族の侵略によって故国を追われ江南から山東あたりにまで流れてきていた倭族の末裔たちが、ここでまたもや難民となった。彼らの一部は朝鮮半島へと生きる場所を求め、さらに一部が海を渡って北九州にたどりついたということだろう。これがいまわかっている範囲では、ボートピープルの第一波ということになる。次の大きな波が紀元二~三世紀だった。出雲族も天孫族も、彼らが抱えてきた神話から察するに、この第二波に属するだろう。

 出雲国風土記によれば、「天乃夫比尊(アメノフヒノミコト)」と「大国魂尊(オオクニタマノミコト)」がそれぞれ「天降り(あもり)」したと伝えられている。さらに、北九州の古代豪族宗像君(むなかたのきみ)が祭祀を司り、彼らの祖神ともされている「宗像三女神」もまた、「天降り」したと伝えられている。書紀ではみな天孫族の臣下として神話ぐるみ統合されているが、もともとはそれぞれが族長ないしは王(きみ)として君臨していたものだろう。そのようなリーダーが他にも各地にいて、自分たちの「天降り」神話を伝えていたはずだ。



●「天孫族」は神武一家だけではなかった

 話をまた書紀に戻したい。「神武」が実在したか創作された者かはさておき、天武・持統朝の先祖が、やや後発のボートピープルとしてこの列島にたどりついたこと、九州のあたりを卑弥呼などの先住勢力とかち合わないように用心しながらうろうろして次第に力を蓄えていったらしいこと、下関から瀬戸内海を経て、その間、付近の諸勢力と争ったり同盟を結んだりしながら畿内に入っていったのだが、畿内にはすでに先着の雄族が蟠踞していて、たいそう苦労したらしいことなど、いじましいような軌跡が書紀から読みとることができる。

 で、その神武が畿内を狙ったときの話だが。噂を聞いた長髄彦(ナガスネヒコ)の軍勢がまちうけていた。ナガスネヒコ軍との戦闘は、凄惨を極めた。一度目の合戦は、はっきり言って神武軍の大敗だろう。二度目、攻め口を変えて和歌山の方から攻め入って、ようやくほぼ互角に持ちこむことができた。ここで神武が「われこそは天孫だ」と「東征の大儀」を宣言すると、ナガスネヒコは「そんなはずはない。おまえは偽者だ。わたしの王ニギハヤヒノミコトこそ天孫なのだから」という。で、お互いに「天孫である」という証拠を見せ合うと、それがそっくり同じ物だったという。しかし神武が天孫の直系であるということで、覇権をニギハヤヒが譲ったことになっている。興味深いことには、ここで神武は「天孫族」が幾流もあることを認めているのだ。

 ニギハヤヒは神武に服従したが、ナガスネヒコはニギハヤヒによって殺された。理由は彼が「わきまえのない、よこしまな心をもっているから」ということだが、内実はニギハヤヒが己の保身を図ってのことではなかったか。このニギハヤヒというのは、いわば先着の勢力だったわけだが、姓氏録などでは物部氏の祖神ということになっている。



●神武一家はなぜ「東征」の旅に出たのか

 神武は四人ないし五人兄弟だったが、一族をあげての「東征」の間にみんな失っている。一番上の兄は「戦傷死」したとして、そのようすが詳しく記されているが、他の兄弟たちは航海中に暴風にあったとき入水したり「常世の郷」に去っていったりしている。これはもしかすると、途中で袂を分かっていったということなのかもしれない。いずれにしても、敵にも味方にも苛酷な「東征」だったようだ。大阪の「難波の碕」で船を乗り捨て、陸路畿内に向かってからは、至るところで戦闘を繰り展げている。最大のライバル、ニギハヤヒとナガスネヒコ連合軍との戦闘に至っては、どこにも行き場をみつけられないできた流民の一族が、命がけで他人様の縄張りに食い込もうとしているかのように見える。なぜそこまでしなければならなかったのか。書紀にはただ、「アマテラスの御託宣」しか書いてないから、「東征」の必然性は何度読んでも見えてこない。それなら神武の出自から見直してみようというわけで、あんちょこ本その一『倭人と韓人』をまた、ひっくり返してみることになる。

 遠賀川の中流、嘉穂郡嘉穂町(今は嘉麻市になっている)牛隈の古社、荒穂神社の言い伝えでは、ニニギノミコトは稲穂大明神、すなわち稲作神とされているという。また、上流の田川郡の霊山、英彦山の祭神はアメノオシホミミノミコトだが、英彦山神宮の伝承では、「天忍穂耳命は英彦山に降臨、ニニギノミコトの建国の偉業に助力された」となっている。つまりオシホミミはニニギの父親ではなく、同志もしくは協力者で、田川郡の祖神として現れているという。また、田川郡の東方、瀬戸内海に面した京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町にある宇原神社には、「ここはヒコホホデミノミコトとトヨタマヒメノミコトが海神の宮から帰って、その子、ウガヤフキアエズノミコトを産んだといわれるゆかりの地」だという伝承があるという(ウガヤフキアエズは神武の父親)。宮崎県の鵜戸神宮の伝承がここに来ているのだ。

 これらのことを著者の上垣外さんは次のように考察している。〈オシホミミとニニギは本来、田川郡と嘉穂郡にそれぞれ「天降り」した別々の勢力だったが、遠賀川上流と中流の勢力が統合されていく過程で、父と子という系図にまとめ上げられていった。また、この遠賀川流域には香春岳があり、この山は古代に銅山が開かれている(今でもふもとに「採銅所」という鉄道の駅がある)。この二つの部族は、稲作だけでなく鉱物の精錬や金属器製造の技術を携えて渡来した人たちだったのだろう。そして有力な海人族とつながることによって金属器(武器や農具など)の交易を行い、力を蓄えていったのだろう。神武の「東征」の動機は、当時後進地域であった瀬戸内から畿内へと販路を拡げていこうというものだったと考えられる。〉

 以前の記事を読まれたい方は「きいちご多文化共生基金」のHPをご覧下さい。

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