好天が続いたので二日続けてあちこちに出かけました。
10月1日(金)
小川町の仙元山に連れて行ってもらい、青山城跡まで歩く。ここには何度も登ったが城跡まで行くのは初めて。
近世の松山城の支城だったようだ。二つの堀切を上り下りすると本郭跡があった。けっこうな高さだ。本郭跡は杉林になっていて古城址のイメージにはほど遠い。
●青山城址<a href="http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/aoyamazyo.htm">http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/aoyamazyo.htm
同じ道を引っ返すのは面白くないのでいったん下里の村まで下り、里歩きを楽しんだあと、遊歩道を登った。夏の鍛えがよかったか、僕にしては上出来。
10月2日(土)
自転車で小畔川をさかのぼり、日高の高麗神社を訪ねる。人出が多い。2016年が「高麗郡建郡1300年」に当たるので9月いっぱい記念行事が続いたらしい。3日が最終日で「高句麗流馬上武芸」(流鏑馬)が披露されるという。
境内の齋館では四神図をはじめとする「高句麗文化展」が開催中。
●高麗神社http://www.komajinja.or.jp/index.html
●四神図http://www.garo-seisui.com/cgi-bin/garoseisui/siteup.cgi?category=1&page=3
曼珠沙華見物でごった返す巾着田を横目に見て卒業生の角田さんが住む武蔵横手に向かう。駅近くで喫茶店かと寄ってみた瀟洒な建物がNPO法人「西川・森の市場」の事務所?だった。
食堂の所在を聞いて帰るつもりが思わぬ長居になってしまった。事務局の小見寺公一さんの話に奥行きがあって面白かったからだ。
僕の質問の第一弾。「このあたりの材木を「西川材」というのはなぜなのか。」
小見寺さんの目が輝いて説明が始まった。
埼玉県の南西部を流れる高麗(こま)川・名栗川(入間川)・越辺川流域(飯能市・越生町・毛呂山町・日高市の4市町村)から生産される木材は「西川材」と呼ばれています。
昔は、筏(いかだ)を組んで江戸まで木材を流出していたことから、江戸の人々が「西の川から送られてくる良質の木材」として、この地方の材を「西川材」と呼ぶようになったといわれています。そして、この地域を「西川林業地」と呼ぶようになりました。
これらの川は川越の北部で入間川に合流し、やがて荒川となって東京湾に注ぐ。江戸時代には筏にくまれた材木が筏士の手で江戸の深川・木場まで運ばれたというわけだ。江戸まで5日はかかり、筏士は途中の船宿に泊まりながらの仕事だったという。
そういえば越辺川と入間川の合流点付近には近年まで小沢屋があり、僕は40年間、ウナギを食べさせてもらった。昔は船宿だったと聞いたことを思い出した。筏士の宿でもあったのか。
もっともこのあたりの川は水量が少ないので筏流しは梅雨時などに限られてもいたらしい。
事務所の所在地が「白子」というので話は古代新羅からの渡来人へと広がる。このあたりに住み着いた新羅系の人々は木工技術に長じ寺院をはじめ多くの遺産を残したという。
小見寺さんの歴史への造詣は深くやがて先住民と縄文文化に及んだので、いったんお開きにして他日友人たちを誘ってお邪魔することにする。
森と林業の再生に取り組む人ならではの面白い話の数々に時を忘れるほどだった。小見寺さんは今、このあたりに多い白髭神社をつぶさに調査して、いずれ本にまとめると言う。
●NPO法人「西川・森の市場」http://www.morinoichiba.net/about/nishikawazai.html
角田さんの住む家は高い岡の上にあった。あいにく留守で伝言を頼んで帰る。夜、電話で元気な声を聞かせてくれた。
10月1日(金)
小川町の仙元山に連れて行ってもらい、青山城跡まで歩く。ここには何度も登ったが城跡まで行くのは初めて。
近世の松山城の支城だったようだ。二つの堀切を上り下りすると本郭跡があった。けっこうな高さだ。本郭跡は杉林になっていて古城址のイメージにはほど遠い。
●青山城址<a href="http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/aoyamazyo.htm">http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/aoyamazyo.htm
同じ道を引っ返すのは面白くないのでいったん下里の村まで下り、里歩きを楽しんだあと、遊歩道を登った。夏の鍛えがよかったか、僕にしては上出来。
10月2日(土)
自転車で小畔川をさかのぼり、日高の高麗神社を訪ねる。人出が多い。2016年が「高麗郡建郡1300年」に当たるので9月いっぱい記念行事が続いたらしい。3日が最終日で「高句麗流馬上武芸」(流鏑馬)が披露されるという。
境内の齋館では四神図をはじめとする「高句麗文化展」が開催中。
●高麗神社http://www.komajinja.or.jp/index.html
●四神図http://www.garo-seisui.com/cgi-bin/garoseisui/siteup.cgi?category=1&page=3
曼珠沙華見物でごった返す巾着田を横目に見て卒業生の角田さんが住む武蔵横手に向かう。駅近くで喫茶店かと寄ってみた瀟洒な建物がNPO法人「西川・森の市場」の事務所?だった。
食堂の所在を聞いて帰るつもりが思わぬ長居になってしまった。事務局の小見寺公一さんの話に奥行きがあって面白かったからだ。
僕の質問の第一弾。「このあたりの材木を「西川材」というのはなぜなのか。」
小見寺さんの目が輝いて説明が始まった。
埼玉県の南西部を流れる高麗(こま)川・名栗川(入間川)・越辺川流域(飯能市・越生町・毛呂山町・日高市の4市町村)から生産される木材は「西川材」と呼ばれています。
昔は、筏(いかだ)を組んで江戸まで木材を流出していたことから、江戸の人々が「西の川から送られてくる良質の木材」として、この地方の材を「西川材」と呼ぶようになったといわれています。そして、この地域を「西川林業地」と呼ぶようになりました。
これらの川は川越の北部で入間川に合流し、やがて荒川となって東京湾に注ぐ。江戸時代には筏にくまれた材木が筏士の手で江戸の深川・木場まで運ばれたというわけだ。江戸まで5日はかかり、筏士は途中の船宿に泊まりながらの仕事だったという。
そういえば越辺川と入間川の合流点付近には近年まで小沢屋があり、僕は40年間、ウナギを食べさせてもらった。昔は船宿だったと聞いたことを思い出した。筏士の宿でもあったのか。
もっともこのあたりの川は水量が少ないので筏流しは梅雨時などに限られてもいたらしい。
事務所の所在地が「白子」というので話は古代新羅からの渡来人へと広がる。このあたりに住み着いた新羅系の人々は木工技術に長じ寺院をはじめ多くの遺産を残したという。
小見寺さんの歴史への造詣は深くやがて先住民と縄文文化に及んだので、いったんお開きにして他日友人たちを誘ってお邪魔することにする。
森と林業の再生に取り組む人ならではの面白い話の数々に時を忘れるほどだった。小見寺さんは今、このあたりに多い白髭神社をつぶさに調査して、いずれ本にまとめると言う。
●NPO法人「西川・森の市場」http://www.morinoichiba.net/about/nishikawazai.html
角田さんの住む家は高い岡の上にあった。あいにく留守で伝言を頼んで帰る。夜、電話で元気な声を聞かせてくれた。