川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

南国節  「南国土佐を後にして」のルーツ 

2010-10-12 20:11:02 | ふるさと 土佐・室戸
 高校の同級生の益弘泰男くんから父上がレコーディングした「南国節」の歌詞とそれに添えられた一文が送られてきた。レコードはNippon Mercuryから出ている。

 後にペギー葉山が歌って有名になった「南国土佐を後にして」の元の歌である。

 
  南国節  武政栄策補作

      唄 益弘 稔  伴奏 土佐電鉄軽音楽団


1.南国土佐を後にして   中支へ来てから幾歳ぞ
  思い出します故郷の友が 門出に歌ったよさこい節を
  土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た

2.月の露営でたき火を囲み しばし娯楽のひとときを
  友が自慢の声張り上げて 歌うぞ土佐のよさこい節を
  御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸をあけて 月の名所は桂浜

3.故郷の親父が室戸の沖で 鯨釣ったという便り
  僕も負けずに手柄を立てて  唄うぞ土佐のよさこい節を
  言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 
  潮吹く鯨が泳ぎよる  よさこいよさこい


【歌手 益弘 稔(土佐電鉄常務取締役)は語る】

 「此の唄は、第二次世界大戦の際、郷土部隊の鯨部隊が中国の揚子江方面に遠征したときに、兵士たちの間に誰歌うともなく歌われた唄である。

 従って作曲者も作詞者も誰か分からないのであって、唯兵士たちが遠く異郷に在って故郷を懐かしみ、自然に流れ出た哀愁に満ちた望郷の唄である。

 戦後帰還した兵士たちから口づてに歌われはじめ、私が最初聞いたのは、確か昭和24年頃であったと思う。

 それを郷土作曲家・武政英策氏に依って補作され今日のものになったのであるが、当時国際関係の微妙な動きもあり、若干文句を変えて歌われていたが、矢っ張り兵士たちの間に自然に生まれ出た唄であるので元の文句にした方が善いという意見が多く、今回は元へ帰した。

 素朴な哀愁のメロヂーと歌詞は作らずして出来たもので、是が本当の民謡であろうと思う。敢えて素人の私が歌ってみた所以でもある。」


 「南国土佐を後にして」のルーツについては「川越だより」でも紹介したことがある。

 ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/e22c6d8100813ec4dfccf8898b55707e


 益弘さんの唄では「中支に来てから」「手柄をたてて」等の歌詞になっているが「戦地に来てから」「戦の後で」等という歌詞もあったのであろう。「作らずして出来たもの」だから色々あるのが自然なことだろう。

 ペギー葉山が唄って大ヒットする前に「南国土佐を後にして」を他の歌手が歌ったことは
聞いたことがあるが益弘くんのお父さんが「南国節」として元の唄をレコーディングしていたとは初めて知ることだ。

 12月のクラス会の時、益弘くんがお父さんの声を聞かせてくれるかもしれない。再生が上手くいかなくてもその時は益弘くん自身が歌ってくれるだろう。楽しみがまたひとつ増えた。

 50年前の高校の卒業式の後の謝恩会で僕らの3Hホームは「雪の降る街を」を合唱したが二番は益弘くんが独唱してくれた。見事なテナーだった。

http://www.youtube.com/watch?v=RRTe8c25HH0 

 総合司会を僕が務めた。ほんの昨日の出来事だったようにも思える。