9月16日(日)
阪神は対読売最終戦も負けたが金本がホームランを打ち、田淵の記録を抜いたという。
阪神があまりにもぶざまなので僕はプロ野球にすっかり無関心を決め込んでいる。特に今シーズンはほとんど最初から無視してきた。
そんなときに金本引退のニュースがあった。とうとうそんなときが来たのかと思った。
金本のおかげで楽しい思いをさせてもらった。阪神は史上最強の時を迎えることができた。退職後だったので神宮に応援に行くこともできた。抗がん剤治療の合間に西武球場に行くこともできた。本当にありがたかった。
阪神の勝利に酔う 西武球場
●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d58f6a0efb5b8351acaf106ec3f10bad
阪神の低迷はまた20年ぐらいは続き、僕はもうあの黄金の日々を味わうことはないかもしれない。
ありがとう!金本知憲さん。
金本涙「自分に限界」鉄人伝説に幕…最終決断は10日夜
阪神の金本知憲外野手(44)が12日、西宮市内で会見し、今季限りでの現役引退を表明した。「(最近は)肩身が狭いというのもあった」と振り返り、母親やファンへの思いを聞かれると大粒の涙を流した。1492試合連続フルイニング出場など数々の大記録を樹立した鉄人よ、さらば。アニキ、夢をありがとう。
戦いの軌跡、復活の奇跡に、涙が頬を伝った。現役か、引退か、激しく心が揺れた10日間。最終決断は10日の夜だった。寂しさ、そして悔しさが残る胸中。だが、それ以上にホッとした心があった。家族への思いを‐。会見で問われた金本は、声を詰まらせて続けた。
「母親には一番、最初に伝えました。『体のケアを、これから…してくれよ』と。それだけですね」。声を震わせながら、必死に言葉を紡いだ。左膝の半月板損傷で出場。死球で左手首の軟骨を損傷しながら、右腕1本でもフルスイングした。その体で夢や、希望を担ってきた。人は「鉄人」と呼ぶ。だが、限界だった。
2010年6月。福岡県内の病院で絶望的な診断を受けた。3月のオープン戦前練習で、味方選手と激突して肩を強打。「右肩棘(きょく)上筋断裂」の重傷であることが判明した。過去復帰した前例はなかった。「ケガした人に夢を与えたい。前例がないなら、僕が前例になればいい」。不屈の心で懸命なリハビリに励んだ。だが、若い選手の台頭に心を決めた。
「正直自分に対する限界。時代の流れで若手に切り替わって行く中で、いつまでもパフォーマンスを出せない自分がいるのも、肩身が狭い思いもあった。体がしんどいなという思いもあります」
激動の野球人生だった。91年のドラフト4位で広島に入団。「クビを覚悟した」と言う屈辱の3年が、21年に及ぶプロ野球人生の礎だ。江藤、前田智、緒方に野村。後に黄金期を迎えるカープで、ドラフト4位の金本は日陰の存在だった。同世代の有望株が徹底指導を受ける中、球場を去ることしかできない日々。悔しさを練習の力に変えた。
自宅にティー打撃用のネットを購入。知人に頼み込んで、1000球の打ち込みを日課にした。1日も欠かさなかった。住宅が並ぶ敷地内。打ち損じれば止まっている車、近隣の住宅を傷つける可能性すらあった。「そんなもん弁償すればええんや」。そう言って来る日も来る日もバットを振った。「今にみとけよ」‐。反骨心が鉄人と呼ばれる男の原点だった。
03年の阪神移籍後は同年、05年と2度のリーグ優勝に貢献。世界記録となる1492試合連続フルイニング出場に、史上7人目の2500安打にも到達した。数々の偉業を成し遂げたが、最も誇ったのはプロ野球記録の「1002打席連続無併殺打」。野球への情熱だった。「併殺打は(併殺崩れでも)打率が下がる局面ですけど、そこでも一塁に全力で走ることができたので。フルイニング記録より誇りに思いますね」。
残り18試合。シーズン終了まで全力で戦う。スーツではなく、阪神のユニホームを着て引退会見。目を閉じれば初優勝の瞬間が浮かぶ。デーゲームで広島に勝利後、ヤクルトの勝敗をベンチで待った。「ずっとワクワクしてね。阪神に来ていい思いをさせてもらいました」と金本。ありがとう、タイガース。球史を彩った鉄人伝説が、輝かしい成績と共に幕を閉じる。
戦いの軌跡、復活の奇跡に、涙が頬を伝った。現役か、引退か、激しく心が揺れた10日間。最終決断は10日の夜だった。寂しさ、そして悔しさが残る胸中。だが、それ以上にホッとした心があった。家族への思いを‐。会見で問われた金本は、声を詰まらせて続けた。
「母親には一番、最初に伝えました。『体のケアを、これから…してくれよ』と。それだけですね」。声を震わせながら、必死に言葉を紡いだ。左膝の半月板損傷で出場。死球で左手首の軟骨を損傷しながら、右腕1本でもフルスイングした。その体で夢や、希望を担ってきた。人は「鉄人」と呼ぶ。だが、限界だった。
2010年6月。福岡県内の病院で絶望的な診断を受けた。3月のオープン戦前練習で、味方選手と激突して肩を強打。「右肩棘(きょく)上筋断裂」の重傷であることが判明した。過去復帰した前例はなかった。「ケガした人に夢を与えたい。前例がないなら、僕が前例になればいい」。不屈の心で懸命なリハビリに励んだ。だが、若い選手の台頭に心を決めた。
「正直自分に対する限界。時代の流れで若手に切り替わって行く中で、いつまでもパフォーマンスを出せない自分がいるのも、肩身が狭い思いもあった。体がしんどいなという思いもあります」
激動の野球人生だった。91年のドラフト4位で広島に入団。「クビを覚悟した」と言う屈辱の3年が、21年に及ぶプロ野球人生の礎だ。江藤、前田智、緒方に野村。後に黄金期を迎えるカープで、ドラフト4位の金本は日陰の存在だった。同世代の有望株が徹底指導を受ける中、球場を去ることしかできない日々。悔しさを練習の力に変えた。
自宅にティー打撃用のネットを購入。知人に頼み込んで、1000球の打ち込みを日課にした。1日も欠かさなかった。住宅が並ぶ敷地内。打ち損じれば止まっている車、近隣の住宅を傷つける可能性すらあった。「そんなもん弁償すればええんや」。そう言って来る日も来る日もバットを振った。「今にみとけよ」‐。反骨心が鉄人と呼ばれる男の原点だった。
03年の阪神移籍後は同年、05年と2度のリーグ優勝に貢献。世界記録となる1492試合連続フルイニング出場に、史上7人目の2500安打にも到達した。数々の偉業を成し遂げたが、最も誇ったのはプロ野球記録の「1002打席連続無併殺打」。野球への情熱だった。「併殺打は(併殺崩れでも)打率が下がる局面ですけど、そこでも一塁に全力で走ることができたので。フルイニング記録より誇りに思いますね」。
残り18試合。シーズン終了まで全力で戦う。スーツではなく、阪神のユニホームを着て引退会見。目を閉じれば初優勝の瞬間が浮かぶ。デーゲームで広島に勝利後、ヤクルトの勝敗をベンチで待った。「ずっとワクワクしてね。阪神に来ていい思いをさせてもらいました」と金本。ありがとう、タイガース。球史を彩った鉄人伝説が、輝かしい成績と共に幕を閉じる。