1月29日(火)晴れ
昼前から安田善助さんの「野辺の送り」。大阪から参加の遠戚の顔もある。葬式の度にあう縁である。
精進落しの食事会で「献杯」の発声を頼まれたので、ちょうど一年前のこの日、おんちゃんに聞いたオリンピック選手(西野恭正さん・後に歯科医師)に勝った水泳競技の話を披露した。どなたも初耳のようだった。
会の終わり近くに熊野一貫(かずつら)さんという善助さんの一年後輩になる方との出会いがあった。ぼくが聞いた話の直接的な証人の出現。早速、参会者に熊野さんを紹介した。
後方右が熊野さん。前列は中谷(山村)さん・国恵さん・浜口(由井)さん。
熊野一貫さんのお話。
昭和18年8月、第14回明治神宮国民錬成大会(水泳)に室戸岬青年学校(後の室戸岬水産高校)の4人が高知県代表として出場、800mリレーで全国優勝した。2位との差が20mはある圧勝だった。安田善助(主将)、前田米造(のちに山崎)、増井啓二、熊野一貫。
その大会には満州国代表として西野さんも来ていた。室戸に帰り着くと出迎えの人の波で「避病院」のところで車を降り、学校まで「優勝パレード」をした。
4人は小学生の頃から水泳の大会が高知であるたびに優勝していたので神宮大会には予選無しに出場した。引率は浜田先生。
昨夜、熊野さんに電話でお聞きしてわかったこと。
お宅にそのときの表彰状とメダル、写真が保管してある。「表彰状」の日付は昭和18年8月22日で大会総裁は「正三位勲一等 小泉親彦」。種目は青少年団体・府県対抗800m。
善助おんちゃんがかつて熊野さんを訪ねたとき、安田家では表彰状や写真は占領軍の目を恐れてお母さんが燃やしてしまったと語っていたとのことだった。また、横浜で行われた「遠泳」の部でも一番に目的地の根岸の浜に着いたとのことである。
黒い箱で調べてわかったこと。
①第14回明治神宮国民錬成大会 昭和18年(1943)8月21日22日
会場 明治神宮外苑水泳場(水泳)
横浜市海洋道場(遠泳など)
②小泉親彦
軍医の最高位に昇り、近衛内閣・東条内閣の厚生大臣。敗戦時に自決。
戦時体制が強化される中で「国民体育大会」は「国民錬成大会」となり、競技場は姿を消して「尽忠報国」の皇国臣民錬成道場となった。
敗戦時に、小泉親彦は連合国軍の「戦犯」訴追を前に自決している。善助さんのお母さんはこのような時代の動きを見て「小泉親彦」名義の表彰状を破棄・焼却したのであろうか。
「大東亜決戦」下で「体育」も否定された時代だが、荒海で育った室戸岬の青年たちが800mリレーで全国優勝した事実には変わりがない。
戦後、小3と小4の担任だった升井京子先生は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進が少年期に浜名湖か遠州灘で精進したというお話を読んで聞かせてくれた。だが京子先生も「日の丸」「君が代」を絶やすことがなかった中谷義高校長も室戸岬の先輩たちの活躍に触れたことはなかった。なぜだろう?
それでも小学校の二間廊下に飾ってあった「安田善助」の表彰状群の記憶が僕の頭の中に残り続けて、おんちゃんの葬儀の日に全容?が解明された。
熊野さんのお宅には当時の写真が保存されているという。三浦三崎の船をはじめとして鮪漁船に乗り続けてきた熊野さんのお話を伺いがてら、19歳の善助おんちゃんにも会いに行こうと思っている。