川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

南国節  「南国土佐を後にして」のルーツ 

2010-10-12 20:11:02 | ふるさと 土佐・室戸
 高校の同級生の益弘泰男くんから父上がレコーディングした「南国節」の歌詞とそれに添えられた一文が送られてきた。レコードはNippon Mercuryから出ている。

 後にペギー葉山が歌って有名になった「南国土佐を後にして」の元の歌である。

 
  南国節  武政栄策補作

      唄 益弘 稔  伴奏 土佐電鉄軽音楽団


1.南国土佐を後にして   中支へ来てから幾歳ぞ
  思い出します故郷の友が 門出に歌ったよさこい節を
  土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た

2.月の露営でたき火を囲み しばし娯楽のひとときを
  友が自慢の声張り上げて 歌うぞ土佐のよさこい節を
  御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸をあけて 月の名所は桂浜

3.故郷の親父が室戸の沖で 鯨釣ったという便り
  僕も負けずに手柄を立てて  唄うぞ土佐のよさこい節を
  言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 
  潮吹く鯨が泳ぎよる  よさこいよさこい


【歌手 益弘 稔(土佐電鉄常務取締役)は語る】

 「此の唄は、第二次世界大戦の際、郷土部隊の鯨部隊が中国の揚子江方面に遠征したときに、兵士たちの間に誰歌うともなく歌われた唄である。

 従って作曲者も作詞者も誰か分からないのであって、唯兵士たちが遠く異郷に在って故郷を懐かしみ、自然に流れ出た哀愁に満ちた望郷の唄である。

 戦後帰還した兵士たちから口づてに歌われはじめ、私が最初聞いたのは、確か昭和24年頃であったと思う。

 それを郷土作曲家・武政英策氏に依って補作され今日のものになったのであるが、当時国際関係の微妙な動きもあり、若干文句を変えて歌われていたが、矢っ張り兵士たちの間に自然に生まれ出た唄であるので元の文句にした方が善いという意見が多く、今回は元へ帰した。

 素朴な哀愁のメロヂーと歌詞は作らずして出来たもので、是が本当の民謡であろうと思う。敢えて素人の私が歌ってみた所以でもある。」


 「南国土佐を後にして」のルーツについては「川越だより」でも紹介したことがある。

 ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/e22c6d8100813ec4dfccf8898b55707e


 益弘さんの唄では「中支に来てから」「手柄をたてて」等の歌詞になっているが「戦地に来てから」「戦の後で」等という歌詞もあったのであろう。「作らずして出来たもの」だから色々あるのが自然なことだろう。

 ペギー葉山が唄って大ヒットする前に「南国土佐を後にして」を他の歌手が歌ったことは
聞いたことがあるが益弘くんのお父さんが「南国節」として元の唄をレコーディングしていたとは初めて知ることだ。

 12月のクラス会の時、益弘くんがお父さんの声を聞かせてくれるかもしれない。再生が上手くいかなくてもその時は益弘くん自身が歌ってくれるだろう。楽しみがまたひとつ増えた。

 50年前の高校の卒業式の後の謝恩会で僕らの3Hホームは「雪の降る街を」を合唱したが二番は益弘くんが独唱してくれた。見事なテナーだった。

http://www.youtube.com/watch?v=RRTe8c25HH0 

 総合司会を僕が務めた。ほんの昨日の出来事だったようにも思える。
 

 
 




狭山・赤坂の森公園

2010-10-11 23:00:28 | 川越・近郊
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 朝から真っ青に晴れ上がったので、狭山の「赤坂の森公園」を目指すことにする。先日「森のさんぽ道」を歩いたとき地図の上で見つけた所だ。

 入間川自転車道から狭山環状道路に乗ってどこまでも行くと突き当たりが堀兼。このあたりは70年代から80年代にかけて「狭山事件」の調査で何度か来たところだ。大きな団地がいくつも出来てすっかり様変わりがしたが堀兼・赤坂までくると懐かしい風景が残っている。

 昔、遠くから見た森の中に「赤坂の森公園」はあった。

  ●赤坂の森公園http://waka77.fc2web.com/studium/11saitama/16sayama.htm

 森の中に400mのトラックがあり、フィールドは美しい芝生が広がっている。周囲に散歩道があったので歩いたあと、芝生に仰向けになってしばしまどろむ。「体育の日」だが、2,3組の親子連れが遊んでいるだけで静かなものだ。緑の森の上に広がる青空。別天地。


 近くに「善枝地蔵」があったことを思い出し、お参りしていくことにする。1963年5月1日に殺害された高校一年生の供養のために建てられた地蔵さんだ。

 このあたりかと思うあたりに見あたらないので諦めて帰ろうかとしたところ偶然農作業中の老夫婦に出会うことが出来た。地蔵さんは菩提寺に移されたらしい。

 事件当時の話も聞かせてくれた。おおがかりな捜査が行われ畑で働いているところにも聞き込みに来たという。この地域のひとびとにとっては忘れられない大事件だった。

 畑の中にある姉妹のお墓に手を合わせて帰ることにした。(事件の一年後にお姉さんは自殺した。)

 犯人とされた石川一雄さんは無期懲役刑を受け、今なお無実を主張して再審を求めている。

 ●狭山事件http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 僕にとっても忘れられない事件で自分なりに調査もし、授業でも取り上げたりしたが、94年に石川さんが仮出獄してからは格別なことは何もしていない。

 久しぶりに事件に関わりが深い地を訪ねてあれこれと思うことがあった。石川一雄さんについてはえん罪であると僕は今も考えている。

 関連「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/233a78e35ce7b093b40bc230b1b75fbd

 帰りは不老川沿いの道を走った。「新河岸街道」というらしい。入曽あたりから新河岸へ物資を運んだと同年配の方が教えてくれた。不老川は日本一汚い川といわれたが今はどうだろう。

足利ーこころみ学園と華雨蔵珍之館

2010-10-10 06:37:55 | 川越・近郊
 10月7日(木)晴れ

 11月のきいちご移動教室の下見をかねて栃木県の足利(あしかが)を訪ねる。

 途中、大泉(群馬県)に立派な街路樹の道があると地図で見つけたので寄ってみた。

 ●大泉町・いずみ緑道http://www.pref.gunma.jp/h/07/namiki/text/normal/higasi_normal/normal_215.htm

 幅広のハナミズキ通りの脇にどこまでも緑道がつづいている。椎の実を拾っている人に聞いたら鉄道の軌道跡だという。(パソコンで調べてみるとハナミズキ通りは中島飛行機がつくった飛行機を運ぶ軍需道路、緑道は軍需鉄道の軌道跡を利用してつくったもの)

 
 足利の街を通り抜けて「こころみ学園」へ。TVで紹介されたのを妻が憶えていて何はともあれいってみることにした。

 谷津の奥の小高い山の麓に学園とココ・ファーム・ワイナリーがある。ちょうど昼時で付設のココ・ファーム・カフェで昼食にする。ウィークデイなのに来訪者が多くけっこう賑わっている。

 風の涼しい屋外のテーブルで僕は珍しくワインを飲んだ。目の前に学園の人たちが丹誠込めたブドウ畑がみえる。「耕して天に至る」とは棚田の景観を形容する言葉だが、そんな言葉を思い出させる見事な風景だ。

 50年も前に川田昇という一教師と知的障害を持つこどもたちがこの山を開墾し、ブドウを栽培し始めたのが事の起こりだという。今はブドウを作り、ワインを醸す仕事に就く人は100人近いという。ここに安住の地を見つけ、老境に達した人も多い。

 川田昇さん。世の中にはすごい人が居るものだなあ。

  ●http://www.sankei.co.jp/yuyulife/mukiatte/200703/mkt070316002.htm

 僕は退職後、白岡町で似たような事業に取り組み始めた友人夫婦のことを連想していた。カフェの食事も美味しい。価格も手ごろだ。

  ●こころみ学園http://www.cocowine.com/cocoromi/cocoromi.html


 足利の街では観光協会に寄って雨の日の昼食場所を紹介してもらった。50人が弁当を食べられる施設はおいそれとあるものではない。「まちなか遊学館」の施設を開放してくれるという。訪問者に残留孤児とその家族が多いというと華雨蔵珍之館を紹介してくれた。

●華雨蔵珍之館http://www.antares.co.jp/kauzou.html

 訪ねると創設者・故山浦啓栄さんの娘さんと事務局の方が丁寧に案内してくれた。

 中国の石碑の拓本の宝庫。特に曲阜・孔子廟にある歴代王朝による改修・再建の記念碑の拓本が目立つ。元朝のものにはモンゴル文字も刻まれている。

 11月には無料公開が予定されており、その準備が進んでいる。二階に「論語」10巻、全文の拓本が展示済み。孔子と孟子の膨大な家系図の拓本もある。

 そういえば「足利学校」では「論語」を素読する修学旅行が実施されている。中国の学校からも修学旅行にやってきたとか。(拝金主義がはびこる中で共産党政府も孔子の教えを再評価するようになったのかな。)

 
 ●論語体験プログラムhttp://www.ashikagagakko.jp/welcome/2010/07/post-13.html

 足利は街を散歩するだけでもけっこう楽しい。あちこち見学すればすぐに一日が過ぎてしまう。さて、移動教室当日はどうしたものだろう。<田中正造と渡良瀬遊水池>というもう一つの見学地もある。悩みが深くなった下見である。
 


ノーベル平和賞・劉暁波さん 08憲章(全文)

2010-10-09 03:57:35 | 中国
 中国の「08憲章」起草者の劉暁波さんがノーベル平和賞を受賞したと発表されました。

 僕にとっては本当にうれしいニュースです。
 民主化運動、少数民族運動を弾圧して帝国主義的膨張政策をとる共産党独裁政権に対する時宜を得た痛打です。

 しかし、このニュースが中国の監獄に閉じこめられている劉さん自身に届くかさえ、危ぶまれるのが中国の現実です。

 米国のオバマ大統領は声明を発表したと言います。

 ●オバマ米大統領、平和賞・劉氏の即時釈放を中国に要求
http://www.asahi.com/international/update/1009/TKY201010080594.html


 劉さんの受賞を祝い、民主主義と人権の確立のために闘う中国の人々を支持し、支援する

声明を日本の各地から発信しましょう。

 かつて紹介した「08憲章」を再掲します。このような人間として当たり前の声をあげる

人を監獄に閉じこめて恥じないのが中国共産党政権です。

 独裁政権のやりたい放題を事実上是認して「東アジア共同体」の創設などとほざいている

のが民主党政権と日本の「知識人」。なぜ、オバマさんぐらいのことが言えないのでしょ

う。

 ノルウェーのノーベル賞委員会の勇気ある決定に敬意を表し、日本の一市民として劉さん

の即時釈放を求めます。


 ●川越だより「08憲章」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/7705c3f8751a381d92e1bce527490263

「森のさんぽ道」と三富新田

2010-10-08 16:41:03 | 川越・近郊
今日も朝から秋晴れです。我が家の二階の屋根と同じ高さまで成長したキンモクセイの花盛りです。香りが我が家は言うに及ばず近所一帯に漂っています。

 この二日間妻にあちこち連れて行ってもらいました。

 
 10月6日(水)晴れ

 川越市南部の初雁高校の近くに「森の散歩道」が出来たと聞いたので早速行ってみた。

 ジョイフル(南文化会館)の脇に駐車場があり、散歩道の入り口はすぐわかる。

 広大な武蔵野の平地林のなかに遊歩道が続いている。落葉樹の森だが手入れが行き届いて

 ないため、樹木や下草が茂るに任されており、川越公園の河川敷の森よりはやや薄暗い感

 じがした。

 遊歩道を歩くと3.4kmになるという。より短いコースもある。

 こんな広い森がよくも残ったものだと感心する。一部は開発されて墓地になっている。

 間違ってコースを外れると農家の裏庭に出る。昔は里山として薪や炭の材料となる大切な 雑木林であったに違いない。

 所々にベンチや方向案内板が設置されている。

 ゆくゆくはこの森全体を「川越市森林公園」(仮称)にする計画があるらしい。地権者と の交渉など難しいことがあるのだろうが、是非、実現させて欲しい。


 ●川越・森のさんぽ道http://cobaton.at.webry.info/200805/article_11.html


 午後は三芳町の上富(かみとめ)を訪ねた。柳沢吉保が川越藩主だった時代に拓かれた「三富(さんとめ)新田」の一番東側で、関越高速道の西側に広がる。

 まず立ち寄ったのは旧島田家住宅。

 ●旧島田家住宅http://www.jade.dti.ne.jp/~miyoshir/shitei/4.html

 ここでは三富新田開発の様子や計画的な地割りを学ぶことが出来る。僕が気に入ったのは土間の囲炉裏に絶えず火があってくすぶり続けていること。家の隅々まで黒光りしている。
 
 家は江戸時代のこのあたりの旧家を移築したもので農家としては豪華だがいまもなんとなく生活のにおいがしている。とれたばかりのサツマイモが土間に転がっている。おばさんが一人管理に当たっておられるがまるでこの家の主婦のようで自然な感じがする。

 屋敷地の後ろには広大な畑が続き、遙か彼方に雑木林が見える。有名な「三富新田の地割り」がこのあたりでは今もはっきりと確かめられる。

 ●三富新田の地割りhttp://www.pref.saitama.lg.jp/page/908-20091216-177.html

 「新田」といっても水に不自由なこの地では水稲は出来ず、地味に適していたサツマイモが栽培され「川越芋」として江戸の人たちに知られることになった。近年、川越観光が盛んになったせいか、芋の栽培が復活し、道路脇には旗が林立している。

 帰りに三富の人々の菩提寺である多福寺に寄ってみた。

 ●多福寺http://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/photo_gallery/tafukuji.html

 川越南部の武蔵野の台地には自転車道がなく敬遠気味だったが、いくらか土地勘も出来たので折に触れて訪ねることにしよう。

 

『花の夢ーある中国残留婦人』上映会

2010-10-06 16:26:48 | 中国残留日本人孤児
 荒川区で中国残留日本人孤児支援相談員をしている卒業生の洋子さんから映画会の知らせがありました。

 ○映画「花の夢ーある中国残留婦人」

 ○時 10月20日(水)2時開始

 ○所 荒川区 ムーブ町屋 3Fムーブホールhttp://www.cbc-move.jp/access.html

 ○入場料 無料

 ○主催 荒川区



 映画の内容や監督の東 志津さんの思いは次のHPをご覧下さい。東京に住む栗原貞子さんという残留婦人の人生の話のようです。<語り>余 貴美子。

  ●「花の夢」http://www2.odn.ne.jp/ise-film/works/hananoyume/hana1.htm

 僕が中国残留婦人・孤児の方々のお話を最初にきちんとお聞きしたのは1990年11月27日です。北高の生徒のおばあさんの庄司政恵さんを学校にお招きして生徒と一緒に聞きました。歴史のただ中に連れ戻されて緊張していたことを思い出します。

 その後も何人かの方々のお話を聞かせてもらいました。一人一人の人生は似ているようで皆違います。それらの人生に出会うことによって「歴史」が暖かくなり人ごとではなくなります。

 映画をみることがきっかけになって新たな出会いが始まることもあるかもしれません。

 昼間ですから無理があるかもしれませんができたら足を運んで見てください。僕も見に行こうと思っています。

 

よくも言えるものだ 検察官の可視化要求

2010-10-05 21:41:45 | 政治・社会
 2時頃に空が晴れ、気温も高くなってきたので川越公園を歩きました。桜の木がすっかり落葉して丸裸です。暑さのせいだろうと思ってきました。

 プール脇の桜並木で3人の方が剪定作業をしているので聞いてみました。暑さのせいか、毛虫が異常発生したのが原因だと言います。このあたりは風通しが悪いので被害が大きいとも。

 脱穀機のような機械がうなり声を上げています。切り落とした枝類を入れるとたちまちのうちにチップのようなものになり、桜の木の根本に吹き付けられています。根を保護する為だといいます。

 開園以来?10年、今や桜の名所ですが、維持管理する人々の苦労もなかなかのものです。

 
  さて『日刊ゲンダイ』にこんな記事があった。

 
  被疑者になったとたん可視化を要求した“特捜容疑者”のハチャメチャ

                (2010年10月5日 掲載)

 それまでの反対論は何だったのか
 

 フザケるのもたいがいにしろ!
 大阪地検の事件で、前副部長の佐賀元明容疑者の弁護人が、取り調べの全過程を録画するよう最高検に申し入れたという。つまり、可視化を要求したのだ。もちろん佐賀の意向である。「オマエが言うか」と思わずツッコミを入れたくなってしまう。
 
 そもそも検察は、これまで組織一丸となって可視化に抵抗してきた。大阪地検だって例外ではない。「取り調べがやりにくくなり、真犯人を取り逃がしてしまう」などと、もっともらしい理由をつけては反対してきたのだ。それが被疑者になった途端、「可視化してちょーだい」とは、一体どういう了見なのか。

「特捜検察の捜査手法というのは、まず見立てありき。筋書き通りに供述しないと、長く拘置される傾向にあります。脅し、なだめ、すかし……。検察はあらゆる手を使って落としにかかる。こうして得られた供述調書が、公判が始まれば法廷での証言より優先されるのです。捜査の内情を熟知しているからこその可視化要求でしょうが、お笑いですね。自らが所属する組織の捜査手法を否定したに等しい。それだけ、検察が密室性をカサにヒドイことをやってきたという証左です」(刑事司法に詳しいジャーナリストの青木理氏)
 

 自分は無実だと胸を張り、検察の正義を信じるならば、粛々と身を委ねればいいだけの話だ。それなのに可視化を求めた。要は佐賀自身、検察の取り調べを信じちゃいないのである。「可視化されていない状況で作成された供述調書は証拠能力がない」とまで強弁しているというから、調書なんてほとんどデッチ上げと認めたようなものだ。
 取り調べの手の内を知り尽くしている“特捜容疑者トリオ”。最高検を相手に次はどんな策を繰り出すつもりなのか。

出典●http://gendai.net/articles/view/syakai/126770

 こいつ等の無恥厚顔ぶりには慣れているとはいえ恐れ入る。「可視化されていない状況で作成された供述調書」を証拠にして有罪にされたすべての刑事事件の裁判をやり直すべきだ。高知白バイ事件などえん罪を主張して闘っている事件については直ちに再審に付すのが当然だ。

 小沢一郎さんが検察審査会に強制起訴の議決をされたがこいつ(前田某)等にとられた元秘書たちの供述調書が信頼できるからだと言っている。

 検察のしくんだ罠に検察審査会は落ち込み、「疑わしきは罰する」恐ろしい犯罪に荷担したといえないか。一国会議員の運命というより、この国の運命を左右しかねない許し難い議決だと僕は思う。

 議決は9月14日だったという。なぜ昨日発表されたのか解らないが、ここ数日の議決だったらこういう結果にはならなかったかもしれない。

●郷原弁護士が検察審査会の議決は無効だと解説している。http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/10/post_670.html

 

絹子さん七七忌

2010-10-04 20:44:42 | 友人たち
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 今日は曇り空ですが時に雨が降る一日でした。きいちご基金の事務で郵便局や銀行に行ったほかはたいていはベッドの上で過ごしました。

 先日、娘がベッドテーブルというものをプレゼントしてくれたのでベッドの上でパソコンの操作もできるようになりました。夏が終わって足が冷えやすくなってきたのでまことに好都合です。まるで病室にいるようでちょっと気にはなりますが…。


 10月3日(日)

 貴子のお母さんの七七忌で東京・高輪の光台院に向かいました。珍事がありました。バスで川越駅に着いたとたん革靴の底が抜けてしまったのです。それも両足が一度に。

 珍しく正装をして出かけたのがいけなかったのでしょうか。普段ははかないクロの革靴です。

 白金高輪の駅に着いてから妻がコンビニでスリッパを調達してきてくれました。何ともすばらしい格好で寺にたどり着きました。

 法要が終わると赤坂のホテルのレストランで親族の昼食会です。移動はタクシーとはいうもののスリッパ姿は変わりません。本人には恥ずかしいという意識はありませんがさぞみっともなかったことでしょう。

 貴子(池商81年卒)のお母さんの絹子さんは二人のこどもを一人で育ててきました。こどもを心配する気持ちが人一倍強く、貴子が高校を卒業して三人の子の親になっても、「貴子をよろしく」と僕に気遣いをしつづけてくれたのです。30年間が過ぎました。僕に何かが出来たわけではありませんが、信頼を寄せ続けてくれました。まことにありがたいことです。

 昼食会で貴子や貴子のお兄さんの家族と交流しました。こんな機会はもちろん始めてのことです。久しぶりに会う貴子のこどもたちもすっかり大きくなって長男はもうすぐ父親になります。お嫁さんにも会うことが出来ました。

 9月の連休に家族全員で北海道・十勝広尾を訪ねたと言います。高3の夏休みに僕と一緒に広尾の牧場で世話になって以来、貴子一家と交流を続けてくれた方にお礼を言いたかったのです。

 お母さんと張り合って?、がむしゃらに生きてきた人生ですが、心を寄せてくれた人への感謝を表せる余裕が出てきたのでしょう。

 お母さんが死してつくってくれた二つの家族との出会いでした。お母さんの思いを大切にして交流を続けていきたいと思います。


 

 

西川材

2010-10-03 07:10:26 | 川越・近郊
好天が続いたので二日続けてあちこちに出かけました。

10月1日(金)

 小川町の仙元山に連れて行ってもらい、青山城跡まで歩く。ここには何度も登ったが城跡まで行くのは初めて。

 近世の松山城の支城だったようだ。二つの堀切を上り下りすると本郭跡があった。けっこうな高さだ。本郭跡は杉林になっていて古城址のイメージにはほど遠い。

  ●青山城址<a href="http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/aoyamazyo.htm">http://www.water.sannet.ne.jp/u-takuo/aoyamazyo.htm

 同じ道を引っ返すのは面白くないのでいったん下里の村まで下り、里歩きを楽しんだあと、遊歩道を登った。夏の鍛えがよかったか、僕にしては上出来。


 10月2日(土)

 自転車で小畔川をさかのぼり、日高の高麗神社を訪ねる。人出が多い。2016年が「高麗郡建郡1300年」に当たるので9月いっぱい記念行事が続いたらしい。3日が最終日で「高句麗流馬上武芸」(流鏑馬)が披露されるという。

 境内の齋館では四神図をはじめとする「高句麗文化展」が開催中。

 ●高麗神社http://www.komajinja.or.jp/index.html

 ●四神図http://www.garo-seisui.com/cgi-bin/garoseisui/siteup.cgi?category=1&page=3

 曼珠沙華見物でごった返す巾着田を横目に見て卒業生の角田さんが住む武蔵横手に向かう。駅近くで喫茶店かと寄ってみた瀟洒な建物がNPO法人「西川・森の市場」の事務所?だった。

 食堂の所在を聞いて帰るつもりが思わぬ長居になってしまった。事務局の小見寺公一さんの話に奥行きがあって面白かったからだ。

 僕の質問の第一弾。「このあたりの材木を「西川材」というのはなぜなのか。」

 小見寺さんの目が輝いて説明が始まった。

 埼玉県の南西部を流れる高麗(こま)川・名栗川(入間川)・越辺川流域(飯能市・越生町・毛呂山町・日高市の4市町村)から生産される木材は「西川材」と呼ばれています。

昔は、筏(いかだ)を組んで江戸まで木材を流出していたことから、江戸の人々が「西の川から送られてくる良質の木材」として、この地方の材を「西川材」と呼ぶようになったといわれています。そして、この地域を「西川林業地」と呼ぶようになりました。

 これらの川は川越の北部で入間川に合流し、やがて荒川となって東京湾に注ぐ。江戸時代には筏にくまれた材木が筏士の手で江戸の深川・木場まで運ばれたというわけだ。江戸まで5日はかかり、筏士は途中の船宿に泊まりながらの仕事だったという。

 そういえば越辺川と入間川の合流点付近には近年まで小沢屋があり、僕は40年間、ウナギを食べさせてもらった。昔は船宿だったと聞いたことを思い出した。筏士の宿でもあったのか。

 もっともこのあたりの川は水量が少ないので筏流しは梅雨時などに限られてもいたらしい。


 事務所の所在地が「白子」というので話は古代新羅からの渡来人へと広がる。このあたりに住み着いた新羅系の人々は木工技術に長じ寺院をはじめ多くの遺産を残したという。

 小見寺さんの歴史への造詣は深くやがて先住民と縄文文化に及んだので、いったんお開きにして他日友人たちを誘ってお邪魔することにする。

 森と林業の再生に取り組む人ならではの面白い話の数々に時を忘れるほどだった。小見寺さんは今、このあたりに多い白髭神社をつぶさに調査して、いずれ本にまとめると言う。

 ●NPO法人「西川・森の市場」http://www.morinoichiba.net/about/nishikawazai.html


 角田さんの住む家は高い岡の上にあった。あいにく留守で伝言を頼んで帰る。夜、電話で元気な声を聞かせてくれた。

金王朝を終わらせるにはどうしたらいいのか

2010-10-01 06:21:49 | 韓国・北朝鮮
 金正日の息子のジョンウンが朝鮮労働党中央委員と中央軍事委員会副委員長に就任し、金王朝の3代目になる見込みという。

 ●NHKのニュース http://www.nhk.or.jp/news/html/20100930/t10014305991000.html

 日本のTVや新聞の報道や論説を見聞きしているとノーテンキそのものである。拉致被害者や日本人妻がこの王朝にさらわれ、閉じこめられ、行方さえわからないのに、第三者面をして床屋評論をしている始末である。

 韓国の保守派といわれる「朝鮮日報」の社説を読んでみた。僕はこちらの方に遙かに親近感を抱いた。少なくとも自らに引きつけて課題を明らかにしている。

 皆さんも「朝日新聞」の社説と読み比べて見てください。


 三代世襲王朝の喜劇と北朝鮮住民の悲劇 (「朝鮮日報」社説 2010・9・29)

 (略)

 
 2008年に脳卒中で倒れ、健康不安説がささやかれている金総書記にとって、金日成主席が与えてくれた権威はもはや消え去っている。金総書記が今手にしているのは、国民の苦しみを無視し、国の力を搾り取った資源を軍に投入する先軍政治によって得た銃口しかない。

 こうした状況に置かれている金総書記から、わずか27歳の息子に権力を継承させる作業が順調に進むことなど絶対にあり得ない。そのため世襲王朝による軍への依存はさらに深まり、すでに破たんした経済は出口を見出すことができないまま、さまようことだろう。軍での経歴がまったくない妹とその夫に取り巻きの使命を与えただけでは、到底信頼には値しない。

 主体と自主の国の首領という金総書記が、先回の中国訪問に息子を同行させ、中国の指導部に紹介したのは、危険と隣り合わせの世襲体制構築に対する中国の後ろ盾を期待しているからだろう。しかし北朝鮮では今も、住民が飢えの苦しみから逃れるために、国境を越えて自らの身体を売るようなことが現実に起こっている。このような悲惨な状況を永遠に保障するような方法などどこにもない。金総書記が国を息子に引き継ぐことに成功したとしても、それは一時的なものに過ぎないだろう。そこで北朝鮮は内部の不満を外部に向けさせるため韓国に軍事的な挑発を仕掛けてくる可能性も高く、また北朝鮮の体制自体が予告なく急変するに違いない。われわれはこれらの動きに対して国家的な知恵と力を結集し、万全の備えをしておく必要がある。


 われわれが回答を見出さねばならないもう一つの課題は、北朝鮮に住む同胞を、地獄のような貧困生活からいかにして救い出すのかということだ。

 北朝鮮の同胞たちは、金王朝の権力継承の見返りとして、同時に苦痛を継承せざるを得ない立場に置かれている。数日前には米議会で、北朝鮮から逃げ出して捕らえられ、収容所に入れられた妊婦の惨状を描いたイラストが公開された。それによると、妊婦の腹の上には板がのせられ、二人の男がそこに上がって足で踏みつけるという、まさに獣のような拷問が行われていたという。

 こうした生き地獄に終止符を打つ根本的な対策は、金一家による世襲王朝を終らせるしかない。

 しかし北朝鮮の口には、世界第2位の経済大国である中国が提供した延命装置がとりつけられている。この延命装置は同時に、北朝鮮住民の苦痛を長引かせるものでもある。この状況からもたらされるジレンマは、北朝鮮に圧力を加えれば、北朝鮮の権力がその痛みを住民に転嫁するということにある。

 北朝鮮の権力は韓国の対北朝鮮政策によるこうしたジレンマを巧みに利用し、対話と挑発を何度も繰り返してきた。また北朝鮮に追従する勢力も、このジレンマを人道主義という美辞麗句で覆い隠しながら、政府を攻撃してきた。

 金王朝による三代世襲が仮想のシナリオから現実となった今、われわれは将来、北朝鮮同胞に「あの時は苦痛を和らげるために最善を尽くした」と胸を張って言うことができるように行動しなければならない。そのためには北朝鮮体制の変化を後押し、あるいは誘導しながらも、それが北朝鮮同胞の苦痛を重くするような結果とならない方法を何としても見出さなければならない。

 出典●http://www.chosunonline.com/news/20100929000035

 ●「朝日新聞」社説 北朝鮮―世襲3代、変わらぬ難局http://www.asahi.com/paper/editorial20100929.html#Edit2


 「朝鮮日報」は
 
 われわれは将来、北朝鮮同胞に「あの時は苦痛を和らげるために最善を尽くした」と胸を張って言うことができるように行動しなければならない。

 と述べているが、日本の政府や国民が実際にやっていることは苦痛を和らげるどころか、

「北朝鮮同胞の苦痛を重くするような」ことになっているのではないか。

 王朝の支配を終わらせるにはどうしたらよいかと自らに問う姿勢がどこにもないからであろう。(つづく)