渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ジャックブーツ

2021年11月05日 | open


日本語で長靴と呼ばれるジャック
ブーツというものは、スポンと履く
のだが、脱ぐときには、いわゆる
二股の脱ぎ器具のジャックが無いと
なかなか脱げない。


元々は軍人将校の衣装の為ではなく、
これ用だからだ。緩み無し。


ただし、旧ドイツ軍の場合は、将校
は乗馬御免の階級でもあるので、
純然たる乗馬用に近い長い丈のブー
ツであり、脱ぐのは簡単ではない。


私もジョッキー用のジャックブーツ
を履いてみたら、脱ぐのにはジャッ
ク器具が無いと一苦労だというのを
数年前に知った。

フランス製乗馬ブーツに東ドイツ軍
将校パンツ実物。

とにかく、器具が無いと脱げない(笑

ところが、将校用と兵士用では旧独
軍などでは長さ等に違いがある。



兵士用は短く緩く、履くのも脱ぐのも
スッポコポンで楽ちんだ。

戦後東独軍兵士用。将校用より短い。


ただ、これだと、乗馬には適さない。
足首が緩いからだ。
兵は士官と違い、布製ゲートルを巻
いてから着用していた事が窺える。
それだと足首も締まって行軍にも
支障は出ない。
将校用パンツは複数のボタンでふく
らはぎを締めるのでピッタピタだ。


そこで気がつく。
乗馬用ブーツから発達したモーター
サイクル用のブーツは、今世紀初頭
までは現代のようなガチガチのスキー
ブーツのような物ではなく、レーシ
ングブーツであっても、乗馬用ブーツ
のような全革製でジッパーを着ける
事で締まりを造形する造りだった。
今ではそれはレギュレーションに
通らないのでレースでは使えず、
「ツーリングブーツ」の範疇に入れ
られるようになった。


1950年代〜1990年代の典型的な
レーシングブーツ。
サイドかバックにジッパーがあり、
キツキツのブーツをはめるように
履いて、ジッパーで締める。
80年代には転倒時にジッパーが崩壊
しないように革ベルトでジッパーの
上をさらに締め上げる形が一般的だ
った。


乗馬用ブーツが軍装品としての長靴、
特に乗馬本分者の将校装備へ与えた
影響は強い。
すでに近代兵装の始まりの産業革命
以降は、ドイツ軍もフランス軍も英
軍も米軍も似たような兵装で、将校
以上は乗馬用のジャックブーツを使
用していた。


フランス軍式軍装の幕府陸軍奉行並
の士内藤隼人=新選組副長土方歳三。
1869年頃。

土方は最後は幕臣旗本の正式な武士
である。 百姓ではない。土方を
百姓と呼ぶのは、勝海舟を金貸し
あんまの成れの果てと蔑むような
ものだ。大久保大和=近藤勇につい
てもそう。
そして、蝦夷共和国は、日本の歴史
の中で初めて西欧から国家認定され
た「デファクト」の共和国だった。
日本の歴史上、初めての共和国が
北海道に誕生した。
しかし、それは錦旗を捏造したニセ
「官」軍により無きものとされた。

プロイセンとドイツ軍が世界の軍装
に及ぼした影響は大きなものがある。




現在は平和ジャンルの象徴でもある
モーターサイクルとスポーツとして
のモーターサイクルのロードレース
だが、そのウエアは、戦闘機乗りの
上着とヘッドギアとゴーグル、油拭
きの為の白いマフラー、そして乗馬
将校ブーツとの合体という、ミリタ
リージャンルからの流用発展が色濃
いのである。被服史としては。

優れたウエアのルーツは軍物。
これは人類史の一面なので、否定の
しようがない。


世界史上、初めてマン島TTレース
を制した日本人、伊藤光夫氏(1963
年)。
伊藤さんは2019年7月、82才で亡
くなった。
この世界史的な記録は、まだ破られ
てはいない。
伊藤光夫選手の後に、世界最古の
ロードレースたるマン島ツーリス
トロフィーレース(1975年までは世界
GPに組み込まれていた)で優勝した
日本人はいない。

ブーツは乗馬ブーツの発展形。
ウエアは戦闘機乗りの発展形だ。

足もと

2021年11月05日 | open


やはり、今の時期は土方さんも愛用
これだよな。
なんたって寒いから(違


広島サーモン=ニジマス

2021年11月05日 | open


友人からの画像。
いわゆるギンザケではなくニジマス
なのだけど、海洋での養殖のやり方
が上手くて、味はモロにシャケ。
私も食べた事ありますが、これは
これでかなーり、イケます。
うまし。

HBCテレビ『クマと民主主義~記者が見つめた村の1年10か月~』2020年5月24日(日)放送

2021年11月05日 | open

HBCテレビ『クマと民主主義
~記者が見つめた村の1年10か月~』
2020年5月24日(日)放送

説明書きから)
【番組内容】 住宅地にクマが現れると、
ハンターが出動するのは、当たり前だ
ろうか。 山と海に挟まれた住宅地に、
約1400人が暮らす、後志の島牧村。
おととしの夏、毎晩のようにクマが
住宅地に現れ、庭や小屋を荒らした。
村は地元の猟友会に頼り、2か月後に
クマを駆除。騒動は終わったかに見
えた。

しかし今、毎日のように日中にクマが
現れているが、ハンターの姿はない。
きっかけは、ハンターの育成に力を
入れてきた村の政策に、議会が異を
唱えたことだった。 クマをめぐって、
人の対立が生まれた。解決策が決まら
ないまま、時間だけが過ぎていく。
背景を探るうち、住民が持っていた村
の民主主義への疑問が明かされ始めた。
クマ対策に取り組むべきなのは、誰な
のか。
揺れ続ける小さな村の1年10か月の取材
を通して、日本の地方が抱える民主主義
の課題を見つめる。(了)



取材の報道関係者に対しての
猟友会非難派の行政議会側の
人間の態度。


村長が猟友会育成に傾注して

いても、住民の一部や議会
が猟友会の功績を認めず、排除
しようとしていたために村長
も立場が苦しくなった。

中には猟友会が悪徳な公金泥棒
だとまで言う中傷が寄せられたり
もしはじめた。クマと対峙する
猟友会の危険手当について、税金
泥棒だと言うのだ。
そうした住民や議員は自分で自力
で石でも投げてヒグマの前に立って

家族を守ればいいと強く思う。

どうやらヒグマ出没に日々怯える

村民が村議会の議事を傍聴に行っ
ただけで、「大勢で押しかけて
議会を威圧した」とか議員たちが
言うような体質の村らしい。
そして傍聴者を悪人のように仕立
てて排除する。
この件について、北海道大学の
教授はこう語る。








この北海道の報道番組の主題が
問題としている指弾点、問題提起
とは、人間の生命を脅かすヒグマ
の出没について、民主主義を建前
とした議会の議員たちが、金の無駄
遣いだとしてヒグマ駆除への危険
手当や死亡時の保険金を大幅に削減
させようとしたり、猟友会による
村民を守る活動そのものを非道で
悪徳な金目当てだとする心無い
誹謗中傷を実質的に支えていると
いう現実がある点のえぐり出しだ。

この手の民主主義のはき違えの
議会の横暴は広島県でもあった。
議会が広島県内の市長を「おとな
しくしていろ」と恫喝したのだ。
市議会議事中の議員の居眠りを
注意した市長に対して。

「市長を続けたいのなら黙れ」と。
この手の恫喝体質は広島県人は
骨の髄までしみ込んでいる。
やくざがやるのではない。

「良人」と自認している市民がやる。
民主主義などは存在しない。
この手のやり口はスポーツの場面
でも実際に実行されているのが
現実だ。「練習を続けたいのな
らば、不正事実の指摘などする
な、黙れ」ということが実際に
まかり通っている。

また、議会への国民の政治不信
は現代では深刻な問題として浮上
している。
すべては、「民主主義という形式
を利用した言論封じの暴力」と
して現出している。
使い慣れない民主主義を得た
日本人は、リーガルマインドと
リバティとしての社会意識が未成熟
なのだろう。
ゆえに本物を装った疑似民主主義
を以て「静かなる暴力」に民主
主義的な容器を利用している。

北大の先生は言わなかったが、

政治学者や政治学を学んだ学士
ならば立ちどころに理解が及ぶ
事だろう。

ファシズムは、民主主義的基盤が
あるゆえ生まれる事を。
民主主義が未成熟あるいは機能
不全に陥った時に、最大に疑似
民主主義的な国民動向として民主
主義の入れ物が利用されてファ
シズムが誕生してくるカラクリ
である事を。





熊棚

2021年11月05日 | open
 
熊棚。
ツキノワグマが自作した熊のベッド
である。
山に入ると広島県の山間部ではよく
見る。
木の上のほうにある。
一個二個ではなく、近くに何個も
られている場合が多い。
巨大な鳥の巣のような感じ。
広島県はツキノワも多く、三原市内
でさえ熊が目撃されている。
 
三原市内の山間部、古代山陽道。

このたあたりで昨年ツキノワが
目撃され
た。
最新情報では、未確認情報ながら
このような山間部ではなく、三原
駅から数百メートルの中之町という
市街地で熊が目撃されたとの情報
もある。高速山陽道三原インター
付近でも目撃情報が公式にある。
さあ、大変。
北海道のヒグマと同じような事態
が起きかねない。
民家にクマが出没だ。

特に駅そばの町にクマが出てくる
のは実に深刻だ。

古代山陽道は江戸時代の旧山陽道と
は大きくルートが異なる。
古代道であるので海沿いは通らない。
山間部を通る。
現在の仏通寺の前の通りが古代の
山陽道になる。
三原市街地を抜ける旧山陽道は

江戸期の街道だ。
江戸時代以前は三原城のあたりは
海域だったので陸上の道はどこに
も存在しない。



舗装はされているが、ルートは日本
に道路が造られた一千数百年前の律
令時代のままだ。この景観も1500年
と変わらない事だろう。


律令体制時代には約16kmごとに
駅家(うまや)という駅が置かれて、
指定数の馬を荷駄の為に飼育して
いた。
駅家は全国各地からの納税品運搬
の為の道の駅であり、人民は朝廷
に労働力を強制的に搾取される為
に、租庸調の時代には都まで徒歩
上った。強制的徴兵の防人も派
遣先まで徒歩である。騎馬は許さ
れない。一般人民が馬に乗ったり
駅家に宿泊する事は固く禁じられ
ていた。
人民は全員野宿なのである。
中央朝廷の殿上人のみが「人」で
あり、それに支える役人は役の人
であり、民などは人としては認
られてはいなかった。
それが天皇親政の律令体制の実相
だった。
今でも日本人の役人にはその当時
の役人根性がっている。
明治以降、その精神性が国家により
強固に再生産された。
戦後の今もこの1500年前と同じ景色
のように何ら変わらない。
日本は中央集権国家が誕生した
1500年前から「日本人性」は
変わっていない。国の政(まつり
ごと)を司る者たちは上に厚く
下に薄い。
1500年前から変わらないのだか
ら、この先千年以上だろうと
変わらないのではなかろうか。
国民が自ら政治を行なう共和制
にでもならない限り。
日本は形式上は選挙による民主
主義的な形式を採ってはいるが、
国家権力の実体は行政執行権力
であり、官庁こそが日本の権力
の実体だ。選挙で選ばれた人間
が権力を掌握して行使している
のではない。役人こそが日本を
動かしている。民ではない。
伏魔殿の棲息者が実権を握って
いる。

クマさんは関係なく大昔から
森で生きている。
クマであるイタズは何も変わら
ない。
しかし、人間社会が良性方向に
変わらないのとは大きく意味が
異なる。


廃道探検 ~徒歩~

2021年11月05日 | open



ほんとにナスカの地上絵みたいだ。


トンネルで繋ぐ新道ができたために
ヘアピン
連続区間は廃道になった道。


こうした隧道完成により旧道が廃道
になった区間は全国いたる所にある。
また、廃道にはなっておらず、通行
可能な旧道もあるが、そこには進入
しないほうがいいです。
道が整備されていないので、落石は
そのまま、路面補修もゼロという
道路が多いので。倒木が横たわって
いたりとか。

北海道に毎年行く友人の話だと、

北海道は果てしなくまっすぐな道
が続くというイメージが強いけど、
意外と山岳部が多くて、峠だらけ
だとの事です。
絶対に転倒しない事と、あと、北
海道はガス
欠には最大注意しないと
いけないのだろう
なぁ。
一般四輪車の人たちも、ガソリンは
減ったら即入れる習慣があるとか
聞くし。

しかしこの路肩の上から出ている
矢印が恐怖です。
広島県山間部にも多いのですが、
冬季には一面雪で覆われてどこが
道だか判らなくなるので、脱輪や
転落事故防止のために道の端の
エンドを示す矢印。