中学の頃から京都への憧憬がある。
毎年3回ほど京都に行った。
足が遠のいたのは90年代に入って
からだった。
高校の頃に私が京都に住みたいなぁ
と言ったのを聞いていた京都の
大学に進学した奴が久々に会った
時に言った。
大学に進学した奴が久々に会った
時に言った。
夏は暑いし冬は寒い。よそからの
観光客だらけで、地元感がないの
で付き合ってみると滅法意地悪だ。
とても住みにくい、と。
そりゃ俺ら江戸の東戎は住みにくい
だろさ。
でも、地元に住んでみると、外から
見た景観とは違う実態がよく見える
のだろうなぁ、とその時思った。
それでも京都にはある種の憧れが
私にはあった。先祖ゆかりの寺も
あるし。
それよりも、私の憧憬の念の源は、
とりもなおさず、幕末に日本の世の
中が大変動を起こすきっかけに
なった千年王国の地だからだ。
なった千年王国の地だからだ。
伊豆下田からではない。
激震地は間違いなく日本の首都京都
だった。
ただ、仮に私が幕末にいて京に命で
行くとなったら、だんだら羽織
の諸君と対峙しなければならな
かったかも知れない。
の諸君と対峙しなければならな
かったかも知れない。
だが、時期による。
長州征伐の頃は、芸藩は幕府寄り
で、新選組近藤殿も幕命で広島藩
まで出張していたりした。
しかし、状況は日毎に変化したの
で、いつのどの時点かで、諸人の
立場が大きく変わったのが文久元治
慶應の時代だった。
京都からの若者の人口流出が深刻
らしい。
観光客頼りで市の財政が維持できる
筈はない。
これは、企業誘致地方都市政策の
根源的な欠缺と全く同じだ。
企業誘致などは、企業が撤退したら
万単位の人口が減少する。
市政は財政破綻する。
中国地方では、広島県の三原市など
が典型だが、今なお企業誘致策
で乗り越えようとしている。
で乗り越えようとしている。
無理だ。
町は今や福永武彦の作品の「廃市」
のようになって来ている。
「人が住みたい町」にならない限り、
市政財源は確保できない。
観光や企業誘致の一過性に偏重する
と、やがてそれらの基板が消滅した
ら、一気に土台が揺らぐ。
天下の京都でさえ、迷走段階に入っ
てしまった。
てしまった。