渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

『狼少年ケン』(1963-65)

2021年11月25日 | open

「狼少年ケン」(1963-1965)
 
放送はNET(10チャンネル)で1963
年11月25日〜1965年8月16日。
これはもう子どもたちに大人気の
アニメだった。
三つ児の魂百までではないが、3才
の時に私が観ていたこのアニメの
主題曲
は今でもほぼソラで歌える。
小学生に入った頃も、再放送があっ
たのか、中学年になった頃、同級
生たちはちょいエロの替え歌で歌っ
たりしていた。
「がっちりつかんだおっぱい~
離しはしないぜ~」てな具合で。
まあ、小3前後の男子などはそんな
もんだ。
「男子が悪いと思います!」と
学級会ホームルームで女子生徒が
先生に告げ口したりするパターン
ね。スカートまくりが大流行の頃。
あの全日本セクハラブームの嵐は
すごかった。
いきなし、日本の小学生男子が
イタリアンテイストになっていた。
しかし、主題歌の歌詞の
 ボバンババンボン
 ボンボババボバ
 ボバンババンボン
 ボンバボン
を正確に言える3歳児はほぼいなか
った。
これは放送が終了して2年後に小学校
に入ってからも。
「ちがうよ~、それ。こうだよ~」
とか正確に歌える奴がいると、
「すげ~」とか仲間内で羨望の眼差し
だった。
子どもたちは学校帰りに空き地に
「秘密基地」を作ったり、広っぱで
いつも何人もが集まって草野球を
やっていた時代。
大抵広っぱの空き地には、新興住宅
地建設のための土管が積んであったり
した。
そうしてできた住宅地を関東以外の
地方では「団地」と呼ぶらしいが、
首都圏で団地というのは公団集合
ビル住宅の事を指した。
その言葉の違いは、私は39歳の時に
初めて中国地方の人との会話の中で
知った。取引先の役員自宅に招かれ
た時、「うちの団地」と言っていた
ので、私も子ども時分に団地に住ん
でいた、とか言ったら話がよく通じ
なかったのだ。単語は同じでも表す
ものが異なるのをその時知った。

1961年の東京の団地。
住む人はほぼ勤め人か新たな会社
経営者だった。
公団住宅は戦後日本の文化住宅と
して大人気で、抽選は宝くじに
当たるほどに当選しない。
水洗トイレ、システムキッチン、
ガスの内風呂という最先端近代
住宅であり、出始めた三種の神器
と言われたテレビ、冷蔵庫、洗濯機
と共に日本人の憧れの生活だった。
応募資格には所得制限もあり、安定
した高収入を得ている層しか応募
できなかった。そのため、都心部の
安定企業に勤める勤め人が集中した。
後の日本人に発生した「中流意識」
はこうした都市部の文化層的世相を
背景として形成されて行った。
ここに写っている子どもたちは、
私より5歳~8歳程年上の昭和20年代
後半~30年代初期生まれの子ども
たちだろう。私が1歳の時の写真だ。


今、『オオカミ少年ケン』の第一回
放送を観てみると、1968
年の5年後
の近未来を描いた作品だ
った。
そして、物語の内容もアニメの表現
も当時のディズニーに負けていない。
感服する。

【公式】狼少年ケン 第1話「二本足の狼」

視聴はyoutubeサイトにてどうぞ。
 
 
 

北海道

2021年11月25日 | open


雪との知らせあり。
ぶひー。
寒そう。
てか、このように周り一面が同色で
上も下も右も左も分からなくなるの
よね。
いわゆるホワイトアウト。
なんたって、雪はそれが怖い。



原風景

2021年11月25日 | open

ヤマハYDS1
 
私が生まれて初めて跨って同乗して
走ったオートバイはこれ。
まだ2才になるかならないかの頃の
事だ。
その時の状況と、その場にいた運転
者と母の会話もよく覚えている。
跨らせただけだと思ったら、タンク
の上に乗せて走り出したので母は
慌てたとつい先日言っていた。
近所を一周してきた。
世の中が変わった。
生まれて初めて、山手線でも東急
東横線でもなく、時速何十キロと
いう速度を体験したのだった。
親戚のいる広島県の福山市に東京
から遊びに行った時の事だ。
オートバイに乗って走っていると
キャッキャと笑いころげ、エン
ジン
を切ると泣き出す。
エンジンをかけるとまたケラケラ
と笑い出す。
自然とそうなった。
「ほれ。見てみい。
こんぎゃあにすると泣き止む。
おかしな子じゃのぅ」
と言う運転者のセリフまで覚え
てい
る。言葉は1才半で普通に
話してい
た。ちなみに私の娘が
初めて口にした単語は
犬の名前
で、生後8ヶ月だった。その位で
言葉を言うのかと思ったが自分も
そうだったと親から聞いた。
また、私も娘も這わずにいきなり
立って歩いた。
そういえば、会話の記憶があるの
だから言語として記憶していた
のだろうと合点がいった。
また、私と同じく娘は1才3ヶ月
時点でお年
はいくつ?と人から尋ね
られると指を1本出し
て単語も口に
して答えていた。
1才半では大人と全く同じように
会話をしていた。
余談だが、私の家では「子ども
言葉」は一切使わない。靴はクツ
でありクックではない。魚はサカナ
でありオトトではない。大人と同じ
標準語ですべて教育した。単語を
言語として早期にマスターする
為だ。やがて来る幼児言葉から
標準言語への移行による混乱と
手間を避けるためにそのように
していた。
これは学生時代に付き合いの深か
った二輪仲間の家庭での教育方法
を見習ったものだ。その家の3歳児
は今は親と同じ弁護士になったが、
3歳の頃からごく普通に私たちと
会話を「対話」として成していた。
使用言語の選択は重要だ。
早期に「大人と同じ言葉」を使用
すると、幼児の脳が格段に発達する。
幼児単語ではなくストレートに
物事の概念を大人と同じ脳の働き
で理解しようとするからだろう。
複雑な論理的組み立てを構成する
のはもっと後だ。就学のあたりから。
1歳から3歳までで、海綿が水を
吸うように幼児は日々どんどん
言葉を吸収して思考力がついて
来る。
そして「自分で考えよう」とし
始める頃に、「なんで?これは
どうして?」と大人に訊きまくる
時期が来る。大体1歳半~3歳まで
の期間でそれが来る。
それと、絵本でも文字だけの本で
もいいから、読み聞かせが大切だ。
とにかく「言語を介して理解する」
という情操を養う。
親にしかできない、親の務めかと
思う。その一番大切な時期に情操
を育成しないと、人の痛みが分から
なかったり、偏向思考の自己中心性
にのみ依拠する人間になってしまう。
そうなると、それはもはや知的な
生命体としての大切な与えられた
ものを放棄する事になる。
そうした事に親が子をしむけては
ならないと私の家では考えていた。

初めてオートバイに乗った1962年
のその時のヤマハの排気音も私は
よく覚えている。
ドルルルンというような音だ。
バリバリとかG行のノイジーな音
はなく、こもるような潤いの
ある音。
その14年後に自らが乗って知った
後年のヤマハRDよりもさらに5年後
の81年に乗ったRZの音が62年
に乗
ったヤマハの音に近かった。
1962年時排気煙の匂いは残念なが
覚えていない。
 
幼児期の記憶は、断片的ではあるが
覚えている事もある。
1才時の時の隣りうちのおばちゃん
の顔とか割烹着とか。
目黒の家の隣りのうちに遊びに来る
オートバイは、なぜかしら左に
アク
セルがあった記憶がある。
なんだろ、あれ。
ただ左に回す所があって、ほかの
オートバイとなんか違うなあと感
じていた。座る所は自転車みたい
なオートバイだった。
それが戦後16年目の時の1才時。
よく見る自転車は、いわゆる後に
呼称を知った重荷用というような
自転車しかなかった。
年上の男の子たちがそういう自転
車で三角乗りをやっているのをよ
く見るようになったのは、もう
ばらくした3才頃からだった。
自転車が普及してきた頃かも
知れ
ない。
 
ただ、私が初めて自分用に買って
貰った自転車は、前輪にサスペン
ションがついていた。1964年の
だ。2年保育なので幼稚園に
前だ。
ブレーキがまた変なブレーキで、
ハンドルグリップのエンドに電車
の三角吊革のような物が着いて
いて、それを引っ張る。
走行中にブレーキかけられない
じゃんねえ(笑
そして、ペダルとチェンはロード
レーサーのように直結していて
空回りしない。
なので、基本的に止まる時には
足の力でペダルを止めるブレーキ
だ(笑
他の子が乗ってるようなフツーの
自転車が欲しかったよお〜(笑
親父も何でよりによって最初から
レーサーみたいな自転車を私に与え
たのか。大人用の重荷用でも
いか
ったのにさ。
私のそのマイバイクは、色はハン
ドルが何故かエンジ色に塗装
され
ていた物だった。その色は
なかなか
よかった。ミニカー
みたいで。
でも、ペダルがいかんせん重た
ぎで苦労した。
空転しないから、補助輪が外れて
二輪で乗れるまで苦労した。
何の事はない。ペダルから両足を
外して跨って慣性のみで走ると、
すぐに補助輪無しで乗れるように
なった。今までの苦労は何だった
のか、と(笑


過日、1962年に私をヤマハに乗せ
てくれた人が亡くなった。
叔祖父は超高齢だった。
あの日のあの時、私は私の質性に
目覚めた。
BORN TO RIDE.
とわに、乗ると共にあらんことを。
それが全ての源。

乗車靴

2021年11月25日 | open


まるで軍靴だ。
ゴツすぎる。
おまけにソールまでビブラム。
まあ、軍物屋さんが作る二輪乗車
靴だからかとも思うが。
キャンツーや観光地巡りの二輪旅
などには向いてるのかも知れない。
逆に、一般的なライディングブーツ
は、二輪を下りて観光地などを歩
き回るのに全くもって向かない。
歩くためには作られていないから。
もうあれはまさに乗車用に特化され
ている。

友人にこのモデルのロングタイプ
のファンがいて、何足か同じ物を
揃えている。ズタボロになるまで
使い倒し、それはそれでアウトドア
で履くのだが、また新たにライド
用には同じモデルを買い求める。
なんだか、そういうのっていい。
私もAVIは嫌いじゃない。


『魔法使いサリー』(1966)

2021年11月25日 | open

魔法使いサリー1966_op

 
55年前、1966年の空前の大ヒット
テレビアニメ。
テレビがある家(あまりなかった)の
子どもたちで観ていない子はいなか
ったのでは、という程のヒット作だ
った。
私が幼稚園の時に放送が開始された
TVアニメだ。
その後、1971年に歌手デビューした
天地真理さんは髪型をサリーちゃん
カットにしていた。
 
サリーちゃんの家は練馬区光ヶ丘
だ。まだあたりには畑と野山しか
ないの林の野原に魔法で屋敷を
建てた。武蔵野特有の雑木林だ。
今は巨大な集合住宅地域となって
いる。


通う小学校での仲良しのよしこちゃん
の三つ子の弟たちは、今の時代には
登場できない。
なぜなら、途中からエンディングに
もなった曲にあるように、
 
 僕たちわんぱくトリオだぞ
 イタズラするのが大好きだ
 女の子なんか
 いじめちゃえ
 (いいぞ いいぞ)
 
というようなものだからだ。
現代では「子どもの事だから」とか
でも絶対に許されない。
 
しかし、そうしたコンプライアンス
に事細かくうるさい現代であるのに、
まるで少年たちの殺人等が減らない。
むしろ増えている。
警察白書を見ても判るように、少年
犯罪自体は過去のほうが多いが、
凶悪犯罪は近年のほうが増えている。
自分にタガをはめて自制できない
子どもたち・・・。
 
『魔法使いサリー』は、人に心の
清さや優しさや思いやりを伝える
アニメだった。
1960年代の日本の思潮はそう。
人間性を謳歌し、人の心の涵養を
願う時代だった。
 
第一話はモノクロ放送だった。
尤も、カラー放送が始まっても、
カラーテレビジョンは超高額なの
で、まだ白黒テレビのままの家庭
も多かった。
うちの場合、初めてカラーテレビ
にしたのは1969年のアポロ11号
の中継を見るためだった。
しかし、月から地球に届いた映像
は見ると白黒だった(笑
 
【公式】魔法使いサリー(第1期) 
第1話「かわいい魔女がやってきた」


サリーちゃんが1966年にやって
来た頃の東京の街。
高層ビルは日本に一つも存在し
ません。
まだ、東京には銀座にも都電の
路面電車が走っていた。
私がもし社会科の教師である
ならば、「『マハリクマハリタ
ヤンバラヤンヤンヤン』を現代
日本語で訳せ」という問題を
出したい。
答えは主題歌にある。
それは日本人の願いだった。

 
 
 
 
 
 

映画『戦場にかける橋』(1957)

2021年11月25日 | open



『戦場にかける橋』(1957年英米)

名作。
公開年は太平洋戦争が終結してから
12年目の年。撮影は終戦から10年程
しか経過していない。
第30回アカデミー賞作品賞受賞。
名作。