渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『コレクター ―暴かれたナチスの真実―』予告編

2021年11月14日 | open

映画『コレクター ―暴かれた
ナチスの真実―』予告編

はっきりと言おう。
現代日本の広島県人気質は、
「ナチス」だ。

だが、「忖度」を神聖なものと

する人民はそれを指摘しない。
自分が「ユダヤ人」と見做される
ことを忌避したいからだ。
まさにナチズムとファシズムが
育成される広島県。
襟元を正して綱紀を粛正しないと
根本的に組織も国も子どもたちの
未来も無いとして「不正」を糾そ
うと自分たちの未来への提言を
しただけで、スポーツの世界でも
徹底的に潰される。
それが広島県人のやり方だ。
スポーツや武道や教育や政治
の場においても、広島県におい
ては全くそうだ。
「不正を無くし、正しく公正に
やっていこう」という提言をし
たら、権力とその手先により
一切の発言の場を「脅迫」と
「強圧」によって実効性を伴い
「実力」で奪う。
それが広島県だ。
全ての民主主義的な精神を踏み
にじる。
それは全国的には詳らかには知ら
れていないが、現実に実例が腐る
ほど起きている。
そして、一番恐ろしいのは、広島
県というローカルな地域にあって、
それがありとあらゆる「一市民」
にまでその精神性が浸透している
事だ。
市民の日常性にそのファシズム的
要素は浸透している。

世界で人類史上初の被爆エリアに
いる広島県人が、世界に稀有の
ファシズム肯定体質の集団性を
強固に具備しているとはまさに
歴史の皮肉だ。
人類史上最大の痛みを味わった
のに、自己以外に対して加えら
れる人の痛みに最大に不知なのだ。
これは現実を知る者しか指摘でき
ない。
さらに、これは「広島県人」に
よっては指摘できない。
そのことの現実の恐ろしさを日本
国民
はどこまで知りえているのか。

私は東京生まれ神奈川育ちの「東京
地方」の田舎者
なのでよく知らなか
ったのだが、
広島県に転住して、公共
放送で
「カープを応援せんいけんじゃ
ろう!」
と放送しているのを観て
驚いた。

公共放送でこうした特定プロパガンダ
の私的洗脳扇動が許されるのか、と。
公共放送を利用して、と。

これは、とんでもない事が「あたり
前」の事として、この民主主義国家
内部で行なわれているのではないか、
と。
だが、それに違和感を唱えたら排除
対象なのだ。
そういう土地。

しかし、これは、「戦後再編の日本が
目指す縮図」であった事が段々と見え
るようになってきた。
「3無い運動」が民主主義の発信地
である中央首都圏からではなく、地方
から発生してじわじわと首都圏を包囲
して、憲法を踏みにじる不法行為が
日本を席捲した暗黒時代のその根幹
要素が、「地方」には残存どころが
それが震源の爆心地のように脈動し
ている。
真っ黒な暗黒の世界をこの日本に築く
胎動が。


焚き火

2021年11月14日 | open







 
焚き火というのは簡単そうで奥が
深い。
ライターやバーナーを使わない点火
も難しいが、点火から着火、燃焼へ
と導くのはあまり簡単ではない。
うまく火を育てられないと、ゆで卵
一つ作れない。
庭か駐車場がある人はそこで練習で
きるので段々とスキルも上がるが、
キャンプ場でしか火おこしができな
い環境だと、自然と回数も減るので
上達深度が遅れる。
とにかく、それさえも有利な条件と
前向きに考えて、いろいろ研究して
やりまくるしかない。
焚き火は自分で実践しないと始まら
ない。
 
点火はメタルスターターでもマッチ、
ライター、バーナーでもよいが、楽
さのみを求めるならば焚き火ではな
くガスコンロでいいじゃないか、と
なる。
そうなると、「なぜ焚き火か」が
分からなくなる。
あえて野外での煮炊きの食事作りを
する意味さえ消滅する。
キャンプなどのアウトドアライフで
「楽さ」「便利さ」を第一義とする
と足元を揺るがすので注意が必要だ。
 
点火と着火の練習は家庭の台所でも
できる。
蒲鉾板を小割りにしてエスビットの
ケースを焚き火台代わりにして点火、
着火、燃焼の練習はできる。
それで米も炊ける。
「エスビットのポケットストーブの
ケースは固形燃料専用である」とす
る固定観念のようなものこそがアウ
トドア活動では回避されたほうがよ
い発想だ。
広く視野をとる視点の大切さを学び
とることが大切で、そうした視点と
実技の習得はキャンプ場でなくとも、
家庭の台所でもできる。
自身での焚き木の小割り作業に始ま
り、コンロの電子着火を一切用いず
に木を燃やす。
簡単ではない。
何度もやってみて、原理や道理を
実技として覚えて行く。
そこに意味がある。









多少のオコゲはご愛嬌。
 
かといって、価値観の強要はあって
はならない。人それぞれでいい。
「俺流」の強要が一番よくない。
マスキャンプでも、食の強制などは
あってはならない。軍隊のブート
キャンプではないのだから。
そして、「自由の履き違え」をして
はならないのが野外活動なので、
実は人としてかなり高度な意識性が
求められるのがキャンプという野外
での人間活動だといえる。