橋本さん、よい記事書きますね。
私も全くそう思います。
ブームなどというのはくだらないもの。
しかし、ファッション界では「流行」は
仕掛け人たちによって練られて作られて
洗脳作戦が取られて来ていたのはご存知
の通り。アパレル界はそれです。
まだ、その時が来ていないのに、「今年
の秋冬物はこれを流行らせる」というよ
うに。ファッション界の流行は、全て
仕組まれた仕掛けの中での出来事なんで
す。
それゆえ、ピンクドラゴン/クリームソー
ダの山崎社長は、その虚構と欺瞞的な犯罪
性を見抜いていたので、「馬鹿じゃない?
よくやるな」とまで言い切って、流行を
追わないピンクドラゴンのスタイルを日本
で唯一アパレル界の中で打ち出した。
しかし、ピンクドラゴンは超爆発的に売れ
た。1980年代初頭には、あの原宿の狭い
店舗での売り上げが1日で650万もあった
程に。
ブランド名にまで女子はさすがに妙ちく
りんだ。
これがワークマンではなくワークメンなら
ば性別超える人類となるのだろうが、まる
で今の時代に「女流作家」とか「女流棋
士」「婦人警官」と呼ぶような違和感が
ある。女性がそれをやることは例外的な
特別な事でめずらしい、といったニュアン
スが含まれているからだ。
橋本さんは、明記はしていないが、それは
「差別」なのだ。
「女だから」は「女のくせに」とか「女
だてらに」とかと同位であり、明白な差別
意識なのだ。
刀剣女子にしてもキャンプ女子にしても
カープ女子にしても、どうして女性がそれ
らをすると特別視されなければならないの
か。
これはトランスジェンダーからするとふざ
けるな、という話ではない。性別一切関係
なくふざけるな、なのだ。
公的記事として橋本さんは舌鋒鋭くはさせ
てはいないが、明確な差別と差別意識が
そこには存在しているのである。
日本人は、21世紀になっても、相変わらず
差別が大好きだ。
「文学少女」という表現の横には「文学
少年」という単語もある。
こうした並列で表現がある概念は差別では
ない。
しかし、「ワークマン男子」という呼称が
あるだろうか。
「女性剣士」という呼称はあっても「男性
剣士」という言い方はない。
これは「女流剣士」という表現自体に男尊
女卑の差別的意識が含まれることを意味す
る。「女性剣士」という表現は差別にあた
る。無思慮に使うとしたら、その表現自体
の差別性とは別に使う人間の差別意識の存
在が指弾されるべきだ。単に言葉をすり替
えただけでは差別はなくならないからだ。
人間がどうか、その者の意識性がどうか、
ということが大切で、口をいくらつむっ
ても心の中に差別意識があるとしたら、
必ずそうした人間の意識は行動に表出して
しまう。そういう自由などは人間には認め
られていない。私がどう思おうが勝手じゃ
ないか、は人間社会では通らない。人が
人を傷つける自由はこの世には存在しな
い。
そして、その差別意識の現実的な現出は、
人を傷つけ、人を踏みにじることをいつ
か実行する。
人間社会にそれはあってはならないのだ。
私が言いたいのは、日本人はそうした何が
差別であるのかに対するアンテナを張る事
について、先進国に比べてあまりにも遅れ
過ぎているという点だ。
それは、同時に、根底に「実は差別が大好
きな国民性」が厳然として存在することを
日本人は自らに刃を向けて自戒したほうが
よいだろうということを感じさせる。