渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

レモントニック ~ノンアルコール~

2024年12月22日 | open



モナンのレモンシロップで
作るレモントニックは結構
いける。
糖分はやや多いが、爽やか。
バーのノンアルカクテル等

によく使われるのがモナン
シロップ。他にもいろいろ
種類がある。



 


ジンレモンティー

2024年12月22日 | open

 
ジンウォーターの紅茶割り。
かなり美味しい。ジンはゴ
ードン。

熱い紅茶に氷で冷やしたジン
の水割りを注ぐ。

レモンはうちの庭に成って
いるレモン。
このレモンも隣りに植えて
いる蜜柑と自然交配
した味
で、なかなかウマい独自の
レモンの味になっている。
専門交配のレモンオレンジ
とまではいかなくとも、オ
レンジぽいレモン。ジャム
にすると格別にウマいジャ
ムができる。


 

元禄会津藩御様(おためし)の談

2024年12月22日 | open



時は元禄十一年(1698)、
師走も迫る肌寒い霜月の事で
あった。

会津藩主松平正容(会津保科
家三代目。二代目の弟、初代
保科正之の六男。初代会津松
平)は藩工として召し抱えた
古川孫右衛門兼定と三善藤四
郎長道の両名を召し出した。
それぞれが鍛えた一刀を共に
試し比べをすることを藩主松
平正容は所望したのである。

試斬するのは一束の真綿であ
った。

日本刀は堅い物は切りやすい
が、柔らかい物は実に切りに
くい。乾いた真綿の束などは

衝撃を吸収してしまうのでま
ず切れたものではない。よほ
ど刃付けをカミソリのように

しておかないと切り込んでは
行かない。

さて、試しとなった。
兼定は見事にこれを両断した。
しかし、長道は斬り損じてし
まい、大いに面目を失った。

城から辞退する際に、憤懣や
るかたない藤四郎長道は、い
きなり刀を抜いて城門の乳輪
に斬りつけた。鉄製の乳輪は
見事に両断された。

だが、藤四郎長道は鉄を切っ
たその刀を掘に投げ捨ててそ
の足で菩提寺である城下蚕養
町の法華寺に赴いて墓前で切
腹して果ててしまった。

藩主正容は三善長道の死を深
く惜しみ、隠居していた利右
衛門政長に三善家の家督を継
がせた。三善家はこれにより
子々孫々まで永らえたのであ
る。

この一件は城の内外に広まり、
これ以降、会津家中をはじめ
城下の衆までが兼定を「真綿
斬り」、長道を「鉄斬り」と
呼んで末長く賞賛した。


というのがこれまで喧伝され
てきた会津藩における元禄試
斬の様子である。

しかし、いささかというか、
かなり眉つばで出来すぎた
(=出来の悪い)話だ。

なぜならば、当事者の没年が
合わない。
藤四郎長道は貞享二年(1685)
に53才で没している。この試
斬のオハナシである元禄十一
年(1698)の13年前に死んで
いるのだ。
しかも、藤四郎の父である三
善利右衛門は正保五年(1648)
に死亡している。元禄十一年
時点で隠居していたとする利
右衛門(実際は死亡後50年経
過)を呼びだして家督を継が
せるとは、幽霊にでも家督相
続させたというのか。

ならば、藤四郎長道の子の長
道の事かというとどうもそれ
も怪しくなってくる。

普通に考えれば藩主の面前で
面目を失ったことで切腹とい
うよりも、城の門扉に抜刀し
て斬りつけたことのほうが負
い目が大きいはずだ。城門に
そんなことをしてただで済む
わけがない。切腹ならばこち
らが理由となるのが筋だろう。
武家の感覚からいくと、やぶ
れかぶれにふてくされて城で
抜刀して城郭損壊に及んだり
したら、そんな乱心はそれだ
けで腹を切るには十分な理由
となるし、そのような無軌道
を藩主召し抱えの御用鍛冶の
刀工が為すとは到底思われな
い。大逆に等しい行為だから
だ。
そのような行為に及んだ士を
哀れと思って藩主がことさら
に取りたてるだろうか。城は
藩主の家屋、一国を鎮護する
館である。現代に置き換えて
みればよい。皇居で天皇陛下
の御前で試しがあったとしよ
う。不面目な結果に憤り、皇
居の建物に斬りつけたとする。
その人物の子を宮内省が哀れ
に思って取りたてることがあ
ると思うか。
実際に明治天皇の御前で兜割
り試刀会が催されたが、榊原
健吉が同田貫を使って兜を斬
った以外は、すべての剣士が
不面目な結果となった。
なかには刀をグタグタに曲げ
た者もいた。彼らが憤って皇
居に斬りつけて後自刃したら
子孫は明治政府から取りたて
られていたか。
あるいは現代一般企業でもよ
い。
製品開発プレゼンで不面目を
喫した。その者が会社の建物
もしくは器物を損壊して自殺
した。
社長はその者の家族を哀れと
雇用採用して重要な役職に着
任させたりするか?
いずれも子孫は排除こそされ、
積極的に惜しまれ褒め称えら
れ御取り立て、ということは
まずあり得ないおとぎ話だ。
おとぎ話としてもあり得ない
程の出来の悪い与太噺である。
まして、時代は人権もへった
くれもない封建時代、絶対領
主の時代である。剛直な武家
のしきたりも存在する武家政
権の時代である。城門に斬り
つけた士は生きながらえもし
ないし、その子孫が咎めも受
けずに逆に取りたてなどとい
う事は万が一にも絶対にあり
得ない。

小説講談与太話の類と現実的
な武家政権時代の真実は大き
く異なる。
やはり、この会津公の御前試
しの話は、元禄赤穂浪士討ち
入り後の各藩公による遺族召
し抱えの美談にかこつけた会
津藩主を讃える美談の創作で
あり、武家の本質を知らない
後世の町方の作り事とみるの
が順当だろう。町の刀屋あた
りが売らんがなのために作り
上げた噺ではなかろうか。
刀屋の作為的キャンペーンと
いうのは江戸期を通じて大い
に大手を振っていたし、この
現象だけは現在でも連綿と続
いている。刀屋のこうした常
套の行為はすべては真実流布
のためではなく、儲け=ゼニ
カネのためである。商売人は
武士ではない。ゼニカネのた
めには商売人は何でもする。
偽物をニセモノと呼ばずにギ
ブツと呼んで業界に積極的に
流通させてきたのは現代まで
続く刀屋という存在とそれに
寄生して利権を貪る「権威筋」
であるし、偽銘切りや偽物作
りを積極的に援助したのが刀
屋たちの商人だった。ゼニカ
ネのためには何でもする。儲
けには正義もモラルもない。
儲ける為には毒でも売る。放
射能を降らせてでも儲ける。
儲けることが正義とされるの
が商人の世界であり、商人の
感覚である。武家とは感覚が
一切交わり得ない。

いずれにせよ、兼定家と長道
家が明治まで「会津の切れ物
両家」として心得ある武士の
間では名声を得ていたことは
確かである。それは見た目が
芸術的だからではない。武士
の本懐を全うするにふさわし
い「切れる刀」だったからで
ある。
刀は頑丈で切れてこそ刀であ
る。
芸術性や美術性が自分の身を
守り、主の身を守ってくれる
わけではない。人の命と共に
ある日本刀は、頑丈で切れる
ことにこそ存在意義がある。
これは動かしがたい「絶対条
件」だ。

ちなみに、幕末、会津十一代
兼定は新選組土方歳三が愛用
していた。こちらはお試し噺
とは異なり、史実である。

会津磐梯山は宝の(コリャ)山よ
笹に黄金が(エーマタ)なりさがる

民謡『会津磐梯山』は会津地
方で広く盆踊り唄となってい
る。三十番まであるこの曲は
会津民謡の『玄如節』からの
転用で昭和十年(1935)頃に
小唄勝太郎(1904年~1974年)
のレコードに収録された。
「おはら庄助さん なんで身上
つぶした・・・」の御囃子が
入り、全国的に有名になった。

30
年ほど前、東北居合道大会
出場の折、士族の末裔である
居合の先輩の奥様の実家の御
屋敷に泊めていただいた事が
ある。
その時に聞くところによると、
会津地方では未だに長州人に
対して快く思っていない風潮
があるという。
特に武家の末裔に多く残って
いるのではなかろうか。
会津藩は戊辰戦争で庄内藩と
共に奥羽列藩同盟として最後
まで薩長の新政府軍に抗した。
本当の意味でのラストサムラ
イは会津ならびに奥羽越列藩
の武士だ。会津士魂に代表さ
れる魂
こそ侍の魂だと私は思
う。


【松平-保科-正容】
寛文九年(1669)生、享保
十六年(1731)没。

保科松平家三代目。延宝八
年(1680)に異母兄の保科
正経に子がないため養嗣子
となる。元禄九年(1696)、
27歳の時に松平姓と葵の紋
の永代使用が許可されて徳
川一門となる。徳川吉宗の
「髪切り親」を勤めた。


【古川孫右衛門兼定】
美濃和泉守兼定の奥州移住
系会津兼定(古川孫四郎)
の二代目。明暦元年(1637)
に会津保科家の抱工となる。
慶安四年(1651)三月に近
江大掾を受領。会津兼定家
は利刀の刀工家として幕末
まで続き、十一代兼定は京
都所司代会津中将松平容保
に随伴して京都に赴き会津
家中のために鍛刀した。新
選組の土方歳三の愛刀は会
津十一代和泉守兼定だが、
一般的には手に入れる事は
不可能であり、会津藩と新
選組の関係があってこそ土
方は会津兼定を所持できた。


【三善藤四郎長道】
寛永十年(1633)~貞享二
年(1685)。

初期銘道長。寛永十年(1633)
会津生まれ。万治二年(1659)
に陸奥大掾を受領して三善長
道と改める。切れ味鋭い利刀
を鍛え、受領後は会津松平藩
抱え鍛冶として活躍する。作
風が似ていることとあまりに
も切れるので「会津虎徹」と
称された。子孫も明治まで刀
工として続いた。貞享二年に
53歳で没。最上大業物。


【三善利右衛門長道】
慶長四年(1599)~正保五年
(1648)。

寛永四年(1627)父長国とと
もに四国松山から加藤嘉明移
封に従って会津に移住する。

加藤明成の転封に伴い、政長
もこれに従って会津を出よう
としたが、新領主の保科正之

から引き続き会津の地で鍛刀
することを命じられ、定住を
決意したと伝わる。「陸奥大
掾三善長道」藤四郎の父。


【会津兼定】
会津兼定の祖は美濃国和泉守
兼定(之定)の子である古川
清右衛門が弘治年間(1555~

1557)に会津領主の芦名氏に
禄二百石で召し抱えられ会津
に移住し、会津兼定家の開祖

となったことに始まる。
清右衛門兼定の子である古川
孫四郎兼定は本国美濃より福
井藩主松平-結城-秀康の求め
により越前に渡り、後の文禄
(1592~1595)始めに会津に
移住している。慶長年間には
会津藩主の蒲生氏郷に仕えて
会津兼定初代となった。孫四
郎は寛永四年より綱房と銘を
切る。寛永十四年(1637)八
月二十日没。孫四郎以降、兼
定家は代々、会津藩の
御抱鍛
冶を勤め、兼定銘十一代を数
えて明治末期まで血脈が続い
た。


 


ダンダラ羽織

2024年12月22日 | open




大丸で誂えた新選組の制服
であるダンダラ羽織は隊士
たちには好まれず、あまり
着られなかった。
と記録や新選組元隊士の談
話に残っている。
では出動服はどういう物だ
ったかというと、上下黒ず
くめだったという。



渓流カフェ

2024年12月22日 | open




渓流カフェは2001年から。
この一週間のここ渓流カフェ
ウエブ日記への来訪者数とい
うのは、一体何なのだろう。
319万ブログのうち2位とかっ
て、妙だから(笑
ここはブログではないけれど。
意見交換や質疑応答、交流な
どは一切求めていない。
ここは、一方通行の単なるコ
ラム発信地だ。
20年以上前はウエブカフェ形
式で来訪者同士いろいろお話
する場として提供していたが、
やめた。
その頃は毎日300人程の来訪
で会話で賑わったが、不思議
な事に荒らしは一度も現れな
かった。
しかし、ネット普及に伴い、
ネチケット知らずの世代が荒
らし始めたので、交流場所の
提供は終了させた。
同時期、ウエブサイトページ
の各ページは一端無期限非表
示にさせ、私のサーバーから
のリンクを非表示とした。
現在残るのはこのウエブペー
ジのみだが、こことて、いつ
突然閉鎖するかは分からない。
閉じるか継続するかは気分次
第だ。
収益化などとは一切関係ない
とこでやってる。
単なる気分だ。






ブラックアイスバーン

2024年12月22日 | open



夜中に雨が降り、明け方に
路面が凍結する日が続いて
いる。
黒い凍結路面はやばいやつ。

むしろ降雪したほうが滑り
にくい。





寒気著しく

2024年12月22日 | open
 


 
ぐだぐだにされてバラバラの
まま長期放置されていた二輪
の快速復活の整備、寒すぎて
中断(笑
指先凍え過ぎて、手先の正確
な作業不能。
暖房の利いた室内で整備した
いくらいだ(笑

今の情勢下で風邪引いたら、
かなりやばげの予感これあり。
こういう、回避行動は結構大
切。本能的センサーというか、
そういうやつで。
そうしたのが働いて、これま
で何度か危機的状況をクリア
して死なずにここまで生き残
ってこられた(笑