水曜はT京音大の日でございますが、
今日は2限に谷村新司先生の授業がありましたので、僕は午後からの出講ということで、
なんとなく、少しだけ午前中はゆっくりできました。
といっても、1時間ちょっとくらいでしたが、それでも、その”余白の時間”のありがたいこと。
時間の流れが、全然違うものですね。
いえ、仕事としている時間も、大好きですよ。
僕の場合、ミュージシャンになりたいと思う以前は、将来なりたいものが学校の先生だったのですから。
二つとも、どちらも好きなことを仕事にしたのですから、なにも文句なんてございませんし、
どちらも、行く前から楽しいですし、
こうして夜に、「えっと、明日は・・・」と予定を見ても、”楽しそうだなあ、と思うこと”しか書いていないのです。
本当にありがたいことです。
教えるということは、すなわち、毎回が、そのことを、僕自身がより深く理解する機会でもあります。
同じことを言っているようでも、毎回、”同じことを繰り返しているという感覚”はないのです。
毎回、発見があったり、説明をしながら、自分に気づきが訪れたりします。
人は、
すでに、わかっていると思うことや、
十分に、知っていると思うことを、
改めて勉強することは、あまりないのではないでしょうか。
例えばですが、平仮名やカタカナの書き方や、よく使う平易な漢字などを、今、改めて書き方を練習することも、書き順を考えたりすることもないですよね。
でも、やってみたら、
「あ、こういうものだったか」
と思えたり、
「そもそも、これって・・・」
と、深くそれについて考えることになりますよね。
あるいは、「なんで、”あ”と”お”や、”ね”と”わ”、は似てるんですか。」なんて質問をされることもないでしょう。
でも、コードの話などをしておりますと、こういった基礎の部分から、しっかりと考えることになるのです。
・・・「そもそも、どうして、ドレミファソラシド、って、ドレミファソラシドなんだろう」
こんな基礎だって、音楽家でさえ、そんなのあたりまえと思っているだけで、実はよく知らない、よくわかっていない、ということもあるのです。
一つ一つ、見て行きますと、
”知ってること”には、実は”知らないこと”という影が、大抵、ついているものなのです。
そして、それを紐解いていくことの面白さ。
知っていくことの、喜び。
腑に落ちた瞬間の、快感。
学ぶって、素晴らしいですね。
カツ丼も、素晴らしいです。
(珍しく、デパ地下で買ってみました)
ではー。