く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<けいはんな文化カフェ> 「クマグスの森~南方熊楠が見た宇宙」

2014年06月22日 | メモ

【松居竜五氏講演、「100年前〝エコロジー〟を紹介したパイオニア」】

 第15回けいはんな文化カフェ(NPO法人けいはんなオブザーブ主催)が21日、京都府精華町の町立図書館で開かれ、龍谷大学国際文化学部の松居竜五教授(写真)が「クマグスの森~南方熊楠の見た宇宙」と題して講演した。松居教授は生物学者・民俗学者の南方熊楠(1867~1941)研究の第一人者。熊楠の生涯の軌跡をたどりながら「100年も前にエコロジー(生態学)という言葉を日本に最初に本格的に紹介した」など、熊楠の人となりや功績について語った。(右の2冊は松居氏の著作)

   

 熊楠の「熊」は熊野地方の熊から、「楠」は熊野古道99王子社の2番目・藤白王子社(和歌山県海南市)のクスノキの巨樹(楠神)からもらったという。熊楠は幼い頃から10代前半にかけ「三花類葉集」や「本草綱目」「和漢三才図会」など図鑑や百科事典の筆写に明け暮れた。「それが人間と自然の関わりの中で全体をとらえようとする熊楠のものの見方の基礎を形作った。子どもの好奇心を晩年まで持ち続けたことは驚くべきこと」。

 熊楠は20歳から34歳までの青年期を米国、英国で過ごした。英科学誌「ネイチャー」に掲載された英文論文は生涯に51本に上ったというからすごいの一言。熊楠は自分が見た世界の姿を詳細に記述したり収集したりした。キノコの図譜3500枚、粘菌標本 7000点、藻類のプレパラート4000枚……。他に膨大なノートや手紙、日記なども残っている。「森羅万象を偏執狂的に記録した。これまで生きてきた人の中で熊楠が1番多く字を書いたかもしれない」。

 熊楠が後半生で最も力を入れたのが明治政府の神社合祀令への反対運動。1町村に神社1つとする合祀令によって、小さな神社は次々に壊され境内の森林も伐採されていった。和歌山県や三重県では神社全体の9割が廃されたともいう。社叢林の伐採により周囲の自然環境が急速に悪化することを憂慮した熊楠は1911年、和歌山県知事に書簡を送った。「千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し……」。熊楠は100年前に生物が相互に関連し合って生息していることを強く認識していた。

 反対運動の高まりの中、1918年、貴族院で合祀令の誤りを認める決議が行われた。熊楠らによる運動がなければ、鎮守の森は全国規模でなくなっていたに違いない。熊楠は1920年代半ば以降、宮内省からの依頼で摂政宮(後の昭和天皇)に粘菌標本を数回にわたって献上、さらに29年には天皇を神島(田辺市)にお迎えし艦上で進講した。松居教授は「熊楠がやってきたことが正しかったと、世間的に認知される側面もあった」とみる。約30年後、南紀を訪れた昭和天皇は白浜で神島を望みながら歌を詠んだ。「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。その歌碑が南方熊楠記念館(白浜町)のある山の上に立つ。

コメント (1)
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