く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<ムジークフェスト奈良⑤> 12人のチェロアンサンブル「セロ弾きのコーシュ(巧手)」

2014年06月29日 | 音楽

【2週間余にわたった音楽の祭典もきょう29日で閉幕】

 関西にゆかりのある12人のチェリストが一堂に集結したチェロアンサンブルの演奏会が28日、奈良市の奈良県文化会館で開かれた。宮沢賢治の作品に引っ掛け、題して「セロ弾きのコーシュ(巧手)」。編成は曲目に応じて8人、12人と毎回変化し、アンコールの2曲も含め8曲を演奏した。あらためてチェロという楽器の表現力の深さを再確認し、同時にアンサンブルの醍醐味も味わわせてもらった。

  

 メンバーの多くは主要オーケストラや室内楽グループの一員、または独奏チェリストとして活躍中。メンバー紹介では地元奈良出身の西谷牧人と伊東裕にひときわ大きな拍手が送られた。西谷は現在、東京交響楽団の首席チェロ奏者。伊東は東京芸術大学在学中で12人中最年少の22歳だが、高校在学中に日本音楽コンクールで1位に輝き、若手のホープとして将来を嘱望されている。しかも2人は同じ奈良高校、東京芸大の先輩後輩でもある。

 外国出身者2人も加わっていた。米国出身のドナルド・リッチャーはジュリアード音楽院在学中から首席チェリストとして活躍し、現在は京都市交響楽団に在籍。アルトゥンベク・ダスタンはカザフスタン出身で国立音大大学院を卒業。2人とも妻は日本人女性という。12人のうち女性は3人。第6回東京国際室内楽コンクール優勝者の水谷川(みやがわ)優子、第2回ローマ国際室内楽コンクール優勝者の福富祥子、「四次元三重奏団」の一員として活躍中の池村佳子。他に日本センチュリー交響楽団首席チェロ奏者の北口大輔ら、実に錚々たるメンバーが一堂にそろった。

 演奏曲目はパブロ・カザルス編曲のスペイン・カタルーニャ地方の民謡「カニグーの聖マルタン祭」▽ブラームス「インテルメッツォ」▽ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ舞曲第5番」▽ナンダヤーバ編曲のメキシコ民謡「ラ・サンドゥンガ」▽ユリウス・クレンゲル「賛歌」▽ヴィラ=ロボス「ブラジル風バッハ舞曲第1番」。アンコールはカザルス編曲のカタルーニャ民謡「鳥の歌」とトーマス・ミフネの「ワルツ・コラージュ」。

 3曲目の「ブラジル風バッハ舞曲第5番」ではソプラノの浅井順子が加わってチェロ8人の伴奏でアリアを熱唱した。チェロの深みのある音色と伸びやかなヴォカリーズ(母音歌唱)。その2つの響きが温かく溶け合って、いつまでも耳に残る心地よい演奏だった。この曲のチェロアンサンブルでトップを務めた辻本玲は演奏後「いつも自然の声のように弾きなさいといわれているので大変勉強になった」と話していた。

 アンコール曲の「鳥の歌」はカザルス自身がニューヨークの国連本部で「私の故郷カタルーニャの鳥はピース(平和)、ピース、ピースとさえずる」と話して演奏したことで有名。亡くなる2年前の1971年、カザルス94歳のときだった。この曲の演奏も心の奥底まで染み込んだ。この日の演奏会は関西が〝名チェリストの宝庫〟であることを内外に強く印象付けるものとなった。アンサンブルのメンバーは前日、本番に備え焼肉で英気を養ったという。その成果(?)も遺憾なく発揮されたようだ。 

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<川路聖謨を讃える会> 「幕末の大通詞 森山栄之助」

2014年06月29日 | 考古・歴史

【長田光男氏講演、「開国を迫る諸外国との交渉に通訳として大活躍」】

 「川路聖謨を讃える会」(孝田有禅会長)の講演会が28日、奈良市の中小企業会館で開かれ、大和郡山市文化財審議会会長の長田光男氏が「幕末の大通詞 森山栄之助」と題して講演した。森山栄之助(1820~71、写真㊨)は江戸時代末期、語学力を生かして開国を迫る諸外国との外交交渉で通詞(つうじ=通訳)として活躍した。長田氏は「功績の割にはあまり知られていないが、交渉を実質的に取り仕切った人物であり、日本の英語研究の草分けとしても評価されるべきだ」などと話した。

    

 森山は長崎のオランダ通詞の家に生まれた。そのためオランダ語はできたが、いずれは英語も必要になるとみて猛勉強してマスター。1853年にロシア使節のプチャーチンが来航した際には使節応接掛の川路聖謨(かわじ・としあきら、元奈良奉行)に随行し通訳を務めた。森山はこの年「大通詞」という通訳のトップになっている。翌年の米使節ペリーの来航のときも通詞団首席として活躍し、日米和親条約の締結に貢献している。こうした活躍が幕府にも認められ幕臣に取り立てられた。

 1855年、35歳のときには勝海舟や箕作阮甫(みつくり・げんぽ)らとともに外国の文書を翻訳する「蕃書(ばんしょ)和解御用」になるとともに「蕃書調所」(後に開成学校→東京大学)の創設を命じられた。翌年には米国総領事として下田に駐在を始めたハリスの世話役にもなっている。さらに1862年には遣欧使節団に随行、「開港延期など重要な交渉は全て森山が担当した」。この年には外国奉行通弁役頭取となり、1867年には開港したばかりの兵庫の組頭(副奉行)に任じられている。

 「語学に堪能な森山はぴっぱりだこで、長崎、江戸、下田、そして海外と忙しく動き回り、休む暇もないほど働いた」。この間の1859年には江戸・小石川の自宅に英語塾も開いた。その門下には福沢諭吉や農学者の津田仙(津田塾大学創設者津田梅子の父)や作家・ジャーナリストの福地源一郎(桜痴)らがいた。「英語の日本人通訳としてはジョン万次郎が有名だが、森山の活躍もめざましく、日本での英語研究の草分け的な存在でもあった」。

 だが、明治に入るとぱたっと表舞台から消え去る。その背景について長田氏はこう推測する。「諸外国との条約の締結は、その時としては精いっぱいの外交努力の結果だろう。しかし治外法権をはじめ日本に不利な点を含む不平等条約だったことも否めない。このためか、川路聖謨は井伊直弼から冷たい処遇を受け勘定奉行から西丸留守居役という閑職に追いやられた。森山も条約締結を手助けした1人として、明治新政府からあまり評価されなかったのではないか。また攘夷派から狙われる恐れもあり、自ら身を隠したということも考えられる」。

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