【大阪自由大学の公開講座で玉置通夫氏が講演】
78年前のアムステルダム五輪で銀メダルに輝いた人見絹枝。日本人女性初の五輪メダリストとして知られるが、彼女はどんな女性だったのだろうか。大阪自由大学の公開講座で「人見絹枝のスポーツ人生」と題して講演した玉置通夫氏(元毎日新聞編集委員)によると、「選手として非凡だっただけでなく、名文家で講演の名手でもあった。全国各地を回って偏見の多かった女子の陸上競技普及に努めた」。玉置氏は「夭折しなければ、国際オリンピック委員会の理事などとして世界のスポーツ界で活躍したのではないかといわれ、再評価の研究も進んでいる」などと話した。
≪人見絹枝の略歴≫ 明治40年(1907年)1月1日生まれ。大正9年(1920年)岡山高女(現岡山操山高校)入学、同12年、県女子体育大会の走り幅跳びで日本記録、翌年二階堂体操塾(現日本女子体育大学)入学。大正15年、大阪毎日新聞に入社、第2回国際女子オリンピックの走り幅跳びで世界新を出して優勝。昭和3年(1928年)アムステルダム五輪の女子800mで銀メダル。同6年8月2日肺炎のため死去、享年24。
近代五輪は1896年に始まったが、クーベルタン男爵の意向を受けて女子は当初参加を認められなかった。そのためヨーロッパを中心に「国際女子スポーツ連盟」が設立され、1922年に女子だけによる第1回国際女子オリンピックが開かれた。人見はその第2回(1926年)と第3回(1930年)に参加している。人見が800mで銀メダルを取った1930年のアムステルダム五輪は、初めて女子の陸上競技が認められたオリンピックだった。
人見はその五輪直前、100mで世界記録を出しており、五輪でも照準を得意な100mに絞っていた。毎日新聞社員でもあった人見は「100m有力人見」などと自ら署名入りの予想記事を書いていたという。ところが準決勝でよもやの4位。決勝進出さえ果たせなかった。「このままでは日本に帰れない」。そこで出場したのが残る競技800m。人見にとって未経験の中距離だけに「無謀」という声もあった。だが予想を覆して見事銀メダル。ただ人見を含めゴール後全員が倒れ失神する選手も。このため女子にとって過酷すぎるとして、女子800mはこの大会限りで中止に。復活したのは40年後のメキシコ五輪だった。
人見は身長が169cmで、当時の日本人女性としてはかなり大柄で体格に恵まれていた。ただ運動能力だけでなく「文才があり、和歌もたしなみ、文武に秀でた女性だった」。玉置氏は「恩師や先輩との良い出会いが人見の人生を左右した」とし、恩師の二階堂トクヨ(二階堂体操塾=現日本女子体育大=の創設者)や木下東作(大阪医専教授、後に毎日新聞運動部長)を挙げる。女子スポーツの良き理解者でもあった木下は人見の思いに応えて海外派遣を実現させた。
人見の後半生は「スキャンダルとの戦いでもあった」という。多忙な講演活動などを支えるため、二階堂塾の後輩女性が一緒に住んで身の回りの世話をしていた。このことから「同性愛者ではないか」という噂が絶えなかった。大きな体格から男ではないかという醜聞にも悩まされたそうだ。
アムステルダム五輪の銀メダルは戦時中に供出され現存しないともいわれてきた。ところが15年前の2000年、生家の押し入れの中から偶然見つかった。五輪の女子陸上で人見以来2人目の日本人メダリストとなったのは1992年バルセロナ大会でのマラソンの有森裕子。同じ銀メダルだった。実に64年ぶりのこと。有森は出身地も同じ岡山市とあって人見を尊敬するスポーツ選手として挙げている。