く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「シベリウスと宣長」

2015年04月23日 | BOOK

【新保祐司著、「港の人」発行】

 都留文科大学教授で文芸評論家でもある著者が、愛してやまないフィンランドの国民的作曲家シベリウスの音楽の背景に潜む精神と思想に深く切り込む。タイトルにある「宣長」はもちろん江戸中期の国学者本居宣長。その宣長にシベリウスの音楽がどう結び付くのか。ちょうどシベリウスの「カレリア組曲」を繰り返し聴いていたこともあって興味をそそられ手に取った。

     

 序曲「純粋な冷たい水」に続いて第1曲~第19曲、そして終曲「屹立する巨岩」で結ぶ。シベリウスの代表曲といえば、やはり「交響詩フィンランディア」だろう。著者はこの曲を聴き終わった時「ああ、これは本居宣長の『敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜ばな』のような音楽だ、とふと思ったことがあった」という。そこで、この曲を取り上げた第11曲の見出しがそのまま本書のタイトルとなった。

 第12曲「無限と沈黙」では「風景画家という呼び方を思い浮かべるならば、シベリウスは『風景音楽家』といってもいい人である」と指摘。さらに「フルトヴェングラーがさすがに的確に道破しているように、シベリウスの音楽はシベリウス個人の表現というよりも、シベリウスという個人を通して表出された『祖国』、あるいは『北欧』の『国のささやき』であった」とシベリウス音楽の神髄を表現する。

 第13曲「東山魁夷の耳」ではこの日本画の大家が1962年に訪れた北欧の印象を綴った『白夜の旅』の中で、「私の耳にシベリウスのシムフォニー二番が響いていた」とあるのを受けてこう記す。「私の耳には東山魁夷の傑作『白夜光』を見ていると、『シベリウスのシムフォニー』の第六番の第一楽章アレグロ・モルト・モデラートが響いてくる」。また同じ日本画家川合玉堂と比較しながら「東山魁夷の日本画は、美と崇高の絶妙な平衡の上に成り立っている。それは西欧、そして北欧を通過したことによって可能であった」と分析する。

 最終第19曲は「葬送のための音楽」。評論家福田恆存が選んだ自らの葬送曲はベートーヴェンのチェロソナタ第3番、作家の八木義徳もベートーヴェンのピアノ協奏曲弟4番だったという。ある音楽家の追悼式でベートーヴェンの交響曲第3番第2楽章がかかった。第3番といえば通称「英雄」、その第2楽章「葬送行進曲」である。筆者によると、その時「身の程知らずといった批判が起こった」そうだ。ベートーヴェンとブルックナーを得意とした指揮者朝比奈隆でさえ「これはナポレオンみたいな、えらい人のためのもので、私のようなものは云々」と言っていたそうだ。

 その朝比奈が生前「私が死んだらかけてくれ」と希望していたのはベートーヴェンの第7番第2楽章。お別れの会ではその遺志通り、息子千足さんの指揮でその曲が演奏された。筆者自身が考えているのはもちろんシベリウスの曲で、シベリウス自作自演の「アンダンテ・フェスティーヴォ」という。2001年発売のCD「シベリウス名演集」に収められている1曲で「聴くうちに胸に強く迫るものがあり、涙がにじんできてしまった」そうだ。さて、クラシックファンのあなたが選ぶお別れの曲は?

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