く~にゃん雑記帳

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<奈良県立美術館> 特別展「奈良礼賛~岡倉天心、フェノロサが愛した近代美術と奈良の美」

2015年04月19日 | 美術

【天心のひ孫・岡倉登志氏「美術教育では発想力や自主性を重んじた」】

 奈良県立美術館(奈良市)で特別展「奈良礼賛~岡倉天心、フェノロサが愛した近代美術と奈良の美」が始まった(5月24日まで)。古都奈良の文化財の価値を再発見し、近代日本美術の牽引役を務めたフェノロサと岡倉天心。同展ではこの2人とつながりが深い狩野芳崖や横山大観、下村観山、菱田春草らの作品を一堂に展示する。18日には天心のひ孫に当たる岡倉登志(たかし)氏を講師に迎え「岡倉天心と奈良」と題する講演会が開かれた。

 

 会場は第1展示室の「美の発見~見出された奈良の美」から第6展示室の「美の交流~フェノロサ、天心と奈良の美」まで6部で構成する。入ってすぐの所に掲げられているのが狩野芳崖の代表作『悲母観音』下図(重要文化財)。芳崖は明治19年(1886年)に天心が文部省から古社寺調査を命じられたときに同行、奈良の宝物類を多くスケッチした。「悲母観音」は芳崖の絶筆となった作品で、悲母観音が生まれたての幼子に温かい眼差しを向ける。この下図は4枚のうちの1枚で、制作時期は同行翌年の明治20年~21年頃とみられる(上の㊧がその下図、㊨は完成した作品=いずれも部分)。

 天心は東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の設立に尽力し明治23年(1890年)2代目の校長に就任、大観や観山、春草らを育てた。この3人は天心が学校辞職後設立した日本美術院でも活躍し〝院展三羽烏〟といわれた。模写も含め大観10点、春草7点、観山4点の作品が並ぶ。橋本雅邦も東京美術学校開設時に絵画科主任として大観や春草を指導した。橋本の作品は『唯摩居士(ゆいまこじ)』など4点。

 

 大観と春草は天心の勧めでインドに遊学した。大観の『観音』は岩上に座したサリー姿のインド女性を、春草の『弁才天』(上の作品㊧、部分)は蓮の花の上で細長い弦楽器を奏でる女性を描いている。観山の『仏誕』(同㊨)は文殊菩薩や普賢菩薩たちが取り囲んで釈迦の誕生を祝福する。他に大観・春草の共作『寒山・捨得』や竹内栖鳳・観山・大観作の『観音猿鶴図』も。

 寺崎廣業の大作『大仏開眼』(下の作品)も目を引く。天平勝宝4年(752年)の東大寺の大仏開眼会に取材した作品。内外の大勢の僧侶たちの前で繰り広げられる法会の模様を彩色鮮やかに再現している。画面左の上半分を占める大仏の蓮華座が大仏の威容を物語る。寺崎は天心率いる日本青年絵画協会の結成に参加し、後に日本美術院の創設にも加わった。

 絵画のほかには高村光雲の『観音像木型』や平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の『五浦釣人』『活人箭(かつじんせん』など木彫作品も展示中。平櫛は天心を会長として光雲門下を中心に結成された日本彫刻会に参加し、天心を生涯の師と仰いだ。『鮭』で有名な高橋由一の『写生帖Ⅶ』には宝物調査に同行した際の奈良の風物がスケッチされている。

 フェノロサは『美術真説』の中で洋画との比較から日本画の優位性を説いた。天心も英語の著作『The Book of Tea』で欧米の物質主義に対する東洋の精神主義を指摘し、平和的・内省的な茶道にこそ日本文化の神髄があると説いた。古美術保存が急務と天心が国に訴えた『美術品保存ニ付意見及び美術品目録(奈良・高野山・京都)』やフェノロサが「奈良の古物はひとり一地方の宝であるのみならず日本の宝」と話した浄教寺(奈良市)での歴史的講演の要旨も展示されている。天心が奈良での定宿としていた「対山楼」の控え帳には「岡倉覚三(天心の本名)」について相貌特徴の欄に「色黒顔丸キ方其他通常」と書き込まれていた。

 18日講演した天心が曽祖父に当たる岡倉登志氏は大東文化大学名誉教授で、天心研究会「鵬(おおとり)の会」代表も務める。登志氏によると、天心は奈良に合計17回訪れたという。天心は美術の教育者としては「発想力や自主性を重んじて、ヒントを与えずに考えさせた」。なかなか厳しかったらしく、「息子にもしっかり宿題をやるように言った。ただ娘には甘かったようだ」。このほか「『建築』という言葉を日本で広めたのが天心」「音楽ではワーグナーや(ピアノの)ルービンシュタインが好きだった」など天心の素顔について語った。

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