【植村善博氏「日本および東アジアの禹王遺跡と地名」の演題で講演】
約4000年前の古代中国で夏王朝を開いたといわれる禹王(うおう)。黄河で治水事業に取り組んだ禹王は「四書」や「史記」「論語」などで聖人君子、治水神として崇められてきた。その禹王の遺跡が日本各地の河川堤防などで相次いで確認されている。その数、今年2月末現在で93件。京都地名研究会の集会(26日、龍谷大学大宮学舎で)で「日本および東アジアの禹王遺跡と地名」と題し講演した植村善博氏(佛教大学歴史学部教授)によると「年内には100件を超えるのではないか」という。
禹王が治水神として日本でも広く信仰されていた事実を掘り起こすきっかけとなったのは、2006年に大脇良夫氏(全国禹王の碑探求家)が立ち上げた神奈川県の市民グループ「足柄歴史再発見クラブ」の活動。その後、各地の河川周辺や寺社、学校などで禹王の遺跡(禹王碑や禹を祀る廟、祭壇、彫像など)の報告が相次ぎ、2010年には同県開成町で第1回禹王まつり(禹王サミット)が開かれるまでに。今年9月12~13日には大分県臼杵市で第5回が開かれる。
これまでに確認された禹王の遺跡93件は北海道から沖縄まで全国に広がる。多いのは関東31件、中部23件、近畿15件、九州・沖縄12件の順。とりわけ関東平野の利根川水系、濃尾平野の木曽三川流域、大阪~京都を流れる淀川流域に集中する。また神奈川県酒匂川流域には禹王の名である「文命」を付した碑や橋、用水、隧道、中学校名などが12件も分布する。これらの地域はいずれも水害常襲地域で、古くから治水事業が繰り返されてきたという共通点を持つ。(写真は㊧から「香川県栗林公園の大禹謨碑」「群馬県片品川の禹王の碑」「神奈川県南足柄市の文命東堤碑」)
日本最古のものは京都・鴨川にかつてあった禹廟で、安貞2年(1228年)建立との伝承を持つ。ただ禹王遺跡が急増するのは約400年後の江戸時代に入ってから。その背景には徳川家光の時代に確立された儒学を中心とする文治政策や儒学者の強い影響があった。植村氏は「藩校や寺子屋などで中国の四書五経などが講読される中で、聖人・治水の神として禹王の名前が全国津々浦々に広まった」と話す。
東アジアではどうか。朝鮮半島では東海岸の三陟市に禹王遺跡があり、群馬県片品村の「大禹皇帝碑」の碑文に酷似しているという。ただ国王賛辞の碑とみなされることから、朝鮮半島に治水神として禹王信仰が存在した事実は確認できなかった。台湾には航海や貿易、漁業従事者の間で海王神として大禹を主神とする「水仙尊王信仰」が存在するが、やはり日本のような河川を治める治水神としての禹王信仰は見られない。中国では19~20世紀の内乱や日本の侵略、文化大革命などで禹王廟や禹王信仰は否定され、破壊と迫害を受け続けてきた。
日本では明治以降、合理的・技術至上主義的な河川行政の中で、治水神信仰は無視された。ただ、政治家や地元名士の貢献を顕彰する碑文の中で賞賛の比喩として禹王の名前が使われるケースが今なお多い。最新の遺跡は三重県伊賀市の正崇寺の「大禹謨碑(だいうぼひ)」で、10年ほど前の2004年に建立された。植村氏は「禹王はなお日本人の心の中で生き続けている。(長い歴史を持つ)日中の交流をこれからもしっかりと続けていかなければならない」と結んだ。