く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良県立民俗博物館> 春季企画展「なに?なぜ? 昔の道具を知ろう」

2014年06月12日 | メモ

 【ハエ取りなどレトロな生活用具を展示】

 奈良県立民俗博物館(大和郡山市)で春季企画展「なに?なぜ? 昔の道具を知ろう」(15日まで)が開かれている。会場入り口に「これはなに?」の張り紙。その下に写真のような5種類のガラス製品や木箱などが並ぶ。「使い方に違いはあるが、使用目的は共通している」というヒントがあるものの、全く想像がつかない。会場をぐるっと回ったところで、どれもハエを取るためのレトロな道具だということがようやく分かった。

 

 写真左のフラスコのようなものは「ハエ取り瓶」。容器の底の輪状の溝に塩水や米のとぎ汁を入れ、底の穴の下にハエが好む餌を置いておく。おびき寄せられ穴から容器の中に入ったハエは外に出ることができず、やがて溝に落ちて溺れ死ぬというわけだ。昭和初期ごろには一般家庭でも使われていたという。写真右は天井に止まったハエを取るための「ハエ取り棒」。長さは優に1m以上ある。丸底に水を入れ、逆側のラッパ状の口を天井のハエにあてがうと、水平飛行しかできないハエは細い菅の中で飛べず丸底まで落ちていく。

   

 上の写真左は「ハエ取り器」。明治時代発明の「ハイトリック」という商品で、筒状の部分に砂糖水などを塗り、ゼンマイを巻いてゆっくり回転させると、止まったハエがそのまま内部に巻き込まれ、取り付けられた網の中に入るという仕組み。写真中央は「ハエ取り籠」。中にハエの餌を入れておくと、下の穴からハエが入り込んで出られなくなる。写真右は「ハエ取り紙」。紙筒からリボン状の粘着シートを引き出して天井などに吊るす。これは一昔前によく目にした。この吊り下げタイプはカモ井加工紙(岡山県倉敷市)が約70年前に発明したという。

 いずれもハエを取るためのさまざまな工夫が詰まった道具ばかり。ただ衛生環境の改善でハエを見かけることも少なくなった。だから、これらのレトロな商品も今や過去のものとばかり思っていた。ところが、さにあらず。ハエ取り紙は殺虫剤の成分が入っていないなど安全面から、食品を扱うところでは今も使われているという。アジアなど海外にも輸出されているそうだ。ハエ取り瓶も岩手県のガラス工芸品メーカーから〝復刻版〟がネット通販されている。その歌い文句は「おしゃれなインテリアにも!」。

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<テイカカズラ(定家葛)> その名は歌人の藤原定家に由来!

2014年06月10日 | 花の四季

【芳香を放つ風車状の白花、「ツルクチナシ」とも】

 キョウチクトウ科の常緑つる性植物で、本州から九州にかけて広く山野に自生する。花期は5~6月ごろ。風車状に花びらが5つに裂けた直径2~3cmの小花を多数付ける。咲き始めは真っ白だが、やがて淡い黄色に変化し、ジャスミンに似た芳香を放つ。

 名前の由来には諸説あるが、広く流布しているのは鎌倉時代の歌人藤原定家にちなむという説。謡曲「定家」によると、雨宿りしていた旅の僧の前に1人の女性が現れ、定家が愛していた式子(しょくし)内親王(後白河上皇の皇女)の墓前に案内される。そこで女性は内親王の没後も忘れられない定家の情念がツタとなって墓に絡みつき成仏できないので読経してほしいとお願いする。その女性は実は内親王の亡霊だった――。以来、そのツタは「定家葛」と呼ばれるようになった。

 テイカカズラは付着根を出して周りの木や石垣などによじ登る。江戸中期に編纂された百科事典「和漢三才図会」(寺島良安著)には「絡石」として登場し、「黄門定家卿の古墳の石に生ず」ことから「定家葛」の名前が付いたと記されている。古くは「イワツタ(石綱)」や「イワツナ(石綱)」「マサキカズラ(真折葛)」などと呼ばれた。万葉集にも「イワツナ」を詠み込んだ歌が1首。「石綱のまたをちかへりあおによし 奈良の都をまた見むかも」(作者不詳)。恭仁京への遷都で荒廃していく平城京を偲んで、イワツナのようにまた若返って栄える奈良の都の姿を見たいものだと詠んだ。

 テイカカズラは香りがいいことから「ツルクチナシ」とも呼ばれる。蕾の形から「チョウジカズラ」という異名も持つ。数日前「爆報!THEフライデー」というテレビ番組で、女優茅島成美が自営アパートの庭の垣根に咲き誇るつる性の花を「これ、においがいいのよ」と自慢していた。花の名は言わなかったが、テイカカズラのように見えた。「虚空より定家葛の花かをる」(長谷川櫂)。

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<斑鳩文化財センター> 春季企画展「中宮寺跡―聖徳太子建立の尼寺」

2014年06月09日 | 考古・歴史

【「難波津の歌」が刻まれた文字瓦など約100点展示】

 奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで春季企画展「中宮寺跡―聖徳太子建立の尼寺」(24日まで)が開かれている。約50年前の1963年から14次にわたる発掘調査の成果を一堂に披露するもので、総展示数は参考出品の周辺寺院の出土瓦も含め約100点。その中には和歌「難波津の歌」の一部が刻まれた〝文字瓦〟なども含まれている。

 中宮寺は法隆寺の東側、夢殿の北東にあるが、創建時は東へ約400mの所にあった。室町末期までに現在地に移ったとみられている。中宮寺の「中宮」については聖徳太子の母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后を指すという説のほか、斑鳩宮(法隆寺東院)、岡本宮(法起寺)、葦墻宮(あしがきのみや、成福寺)の真ん中に位置することを示すものという説もある。

 創建時の中宮寺跡の中央には金堂と塔の基壇が土壇状の高まりとなって残っている。金堂は東西5間(13.5m)、南北4間(10.8m)の四面庇(しめんびさし)建物。これは再建時だが、創建当時もほぼ同規模だったようだ。塔の規模は不明だが、基壇は推定一辺14m程度で、塔を支える心柱は直径が80cm程度だったとみられる。心礎の西側からは心柱を立ち上げるための櫓(やぐら)の柱穴とみられる遺構が見つかった。金堂と塔の創建時期は出土した瓦の年代から7世紀前半の620年ごろとみられる。

 企画展では中宮寺跡からの出土瓦を、飛鳥から室町まで時代を追って並べ、比較するために飛鳥寺(明日香村)や奥山廃寺(同)、平隆寺(三郷町)などの出土瓦も併せて展示している。7世紀前半から中ごろにかけ斑鳩の各寺院は独自の文様の軒丸瓦を用いたが、後半になると法隆寺式に統一された。ただ中宮寺の軒丸瓦は花弁と外側の鋸歯文との間に小さな点を連ねた文様帯(珠文帯)が巡らされていた。同センターは「中宮寺としてのこだわりがそこに込められたのではないか」とみている。

   ☆ ☆ ☆    ☆ ☆ ☆    ☆ ☆ ☆

 「難波津の歌」は7世紀中ごろ~後半のものとみられる平瓦の側面に万葉仮名でヘラ書きされていた。「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」(伝・王仁作)のうち、前半の下線部の「津に咲くやこ」の部分が「ツ尓佐久移(?)己」と刻まれていた(写真左端)。この歌は平安時代に紀貫之が書いた「古今和歌集」の仮名序に登場するもので、和歌を習う人が最初に学ぶ歌として紹介されている。

       

 解読したのは奈良大学文学部の東野治之教授。斑鳩町中央公民館で8日開かれた歴史講演会で、東野教授は「飛鳥時代の文字は6世紀以前の中国の書き方が朝鮮半島を経由して入ってきたため、(この文字瓦の「佐」のように)偏と旁のバランスが悪いなどくせがあって分かりづらいものが多い」と話した。「移」とみられる文字については中宮寺に伝わる国宝「天寿国繍帳」の銘文などを例に挙げ、飛鳥時代には「や」と読ませていたと指摘した。

 「難波津の歌」を記したものは木簡にも多く見られ、飛鳥時代の石神遺跡(明日香村、写真左から2番目)や観音寺遺跡(徳島市、その右隣)、宮町遺跡(甲賀市)、平城宮跡(奈良市)などから出土している。瓦に書かれたものは山田寺跡(桜井市)からも見つかっている。東野教授は「当時の瓦職人は先進技術を身に付けた知識人だった」と話す。さらに法隆寺五重塔の初層天井からもこの歌の一部の落書き(写真右端)が見つかっている。

 東野教授が平城宮から出土した土師器にこの和歌が墨書されていることを発見したのは今から約30年前。当時は木簡も含め、この歌が書かれたものは5点だったが、その後発見が相次いで、中宮寺跡の瓦で36点目という。「最初、この歌は万葉仮名を習得するためのお手本だったが、やがて和歌のお手本として広がっていったのだろう。この歌に関する遺物はこれからも各地で見つかっていくに違いない」。東野教授はこう話していた。

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<BOOK> 「京都 まちかど遺産めぐり なにげない風景から歴史を読み取る」

2014年06月08日 | BOOK

【編著=千田稔(代表)、本多健一、飯塚隆藤、鈴木耕太郎】

 編者代表の千田稔氏は現在、奈良県立図書情報館館長や帝塚山大学特別客員教授などを務める。本書はかつて立命館大学大学院の客員教授として日本文化論を担当した千田氏と、現在各方面で活躍している当時の院生ら3人との共作。京都市内と周辺で計38の〝街角遺産〟を取り上げて、それぞれの歴史的背景などを探っている。

    

 梅小路蒸気機関車館はSLを動態保存していることで人気だが、ここが戦時中の70年前、米軍の一大目標になっていたという。原爆投下目標に当初、京都が挙がっていたことは広く知られているが、その標的が梅小路機関車庫(1914年建設、重要文化財)だったというのだ。扇形の車庫は上空から見ても目立つ存在で格好の標的だった。原爆投下が避けられたのは「戦後処理において日本との和解が長期間不可能となり、逆にソ連の接近を可能にする」という判断からだったという。

 京都には円山公園や船岡山公園など8カ所に「ラジオ塔」が残っている。初のラジオ塔は1930年に大阪の天王寺公園に設置された。以来、40年前後を中心に爆発的に全国に広がった。その目的は大きく分けてラジオ体操の普及とスポーツの実況の2つ。現在、全国では約20基が確認されている。京都に多く残っている理由は不明だが、「すべて公園という比較的、改修などの手が入りにくい場所に設置され」「市民の間に歴史的資産として認知する向きが広がっているからでは」と推測する。

 他にも、平城京の正門である羅城門が930年に強風で倒壊してから、京の南の入り口は東寺南大門となり、長く日本全国の距離原標として位置づけられた▽嵐山と愛宕神社の間には愛宕山鉄道が走っていたが、1944年、線路の金属類回収を目的とする〝不要不急線〟指定で休業に追い込まれ、戦後、叡山線や鞍馬線が再開する中でそのまま廃線になった▽京都御苑の東南にあるグラウンド富小路広場は明治時代、常設の博覧会の会場だった――など興味深い話題を満載している。

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<ハクチョウソウ(白蝶草)> 蝶が羽を広げヒラヒラ舞うような可憐な白花

2014年06月06日 | 花の四季

【北米原産、属名から「ガウラ」や「ヤマモモソウ」とも】

 北米原産のアカバナ科の宿根草で、日本には明治中期の1890年ごろ観賞用として渡来した。日当たりと水はけのいい場所を好む。花径は2cm前後、草丈は0.8~1.2mほど。朝開いて夕方萎れる1日花だが、開花期は晩春の5月ごろから秋口までと長く、茎の下部から次々に咲き上がる。外来種だが、和風の趣も漂う繊細で可憐な草花だ。

 米国南部からメキシコにかけて20種ほど分布するガウラ属の1種で、和名で「ハクチョウソウ」と呼ばれるのは正確には「ガウラ・リンドハイメリ種」のこと。この種小名はドイツの植物学者フェルディナンド・リンドハイマー(1801~79)にちなむ。渡米後「テキサスの植物学の父」といわれたそうで、リンドハイマーの名前はキク科の1年草「リンドヘイメラ・テクサーナ」などにも残っている。

 ただ日本では単に「ガウラ」といえばハクチョウソウを指す。「ハクチョウ」はサギソウやトキソウの連想から「白鳥」と思いがちだが、その名前はモンシロチョウのような白い蝶から。細い花茎が風になびくたびに、4枚の白い花弁がまるでヒラヒラ舞う蝶のように見える。その花姿から「白蝶草」の名前が付いた。

 ハクチョウソウは中心から突き出た長い8本の雄しべも印象的。雌しべは1本で、柱頭が4つに裂ける。ハクチョウソウには「ヤマモモソウ(山桃草)」という別名もある。これは淡いピンクがかった花色からの命名。食用にもなる赤い実を付けるヤマモモとは全く関係がない。濃いピンク色や白・ピンクの2色咲き、斑入り葉などの園芸品種も流通している。

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<BOOK> 岩波新書「唐物の文化史―舶来品からみた日本」

2014年06月05日 | BOOK

【河添房江著、岩波書店発行】

 著者は1953年生まれ。小学生の頃から歴史小説に読みふけっていただけに〝歴女のはしり〟を自任する。文学博士。現在、東京学芸大学教授、一橋大学大学院連携教授を務める。専攻は「源氏物語」を中心とする平安文学。異国からの舶来品全般を総称する「唐物」というテーマに目覚めたのも、「源氏物語」の梅枝巻に出てくる唐物に着目したことが発端という。国文学、歴史学、美術史など学際的なテーマとあって、各方面から多角的に掘り下げており読み応え十分。

    

 表紙をめくると、きらびやかな舶来品のカラー写真が8ページを飾る。正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶や香木の蘭奢侍(らんじゃたい)、中国・南宋時代の曜変天目、珠光青磁茶碗、ペルシャのタペストリーを使った豊臣秀吉着用の鳥獣紋様綴織陣羽織……。本書はこうした唐物が時の政治的権力や日本文化史の上で果たした役割を、各時代のキーパーソンにスポットを当てながら紹介する。キーパーソンとして聖武天皇や嵯峨天皇、藤原道長、平清盛、足利義満・義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・吉宗を取り上げた。

 聖武天皇の遺品に舶来品が多いのは「積極的に唐の文物を採用した国際派の天皇であった」ことに加え「舶来趣味の人物」だったことを理由に挙げる。正倉院の五弦琵琶は遣唐使・吉備真備がもたらしたという説があるそうだ。嵯峨天皇はその五弦琵琶も含め正倉院の楽器や屏風を借りたり買い取ったりした。それらの文物を「唐風の文化国家としての威厳を国際的に示すため」、渤海国使の歓待の場などで活用したのではないかとみる。

 「藤原道長の為政者としての権力も文化的権威も、朝廷を凌駕する質量ともに充実した舶載品によって支えられた」。平清盛は日宋貿易を独占し平氏に巨万の富をもたらした。「平家一族にとって、日宋貿易で得た唐物の富は、経済的安定基盤であったばかりか、旧貴族層や上皇をおさえて平家政権を樹立し、文化的覇者となるための必須の糧だった」。ただ当時の唐物ブームを冷ややかに見る人物もいた。吉田兼好は「徒然草」に「唐の物は薬の外はなくとも事欠くまじ」(百二十段)と記した。

 信長は唐物の茶入「つくも茄子」など秘蔵の名物茶器をふんだんに使って茶会を開き、自らの権力を誇示した。同時に功績を上げた家臣には茶器を惜しげもなく与えて恭順を求めた。秀吉の名物茶器は〝信長御物〟の量を上回り、秀吉の死後、〝太閤御物〟は家康の元に吸収される。ただ「秀吉ほど名物茶道具に執着しなかった家康は、名物を贈与財として惜しげもなく政治的に活用していく」。

 名物茶器の持ち主の変遷を辿ると――。「つくも茄子」足利義満→義政→村田珠光→越前大名・朝倉宗滴→小袖屋山本宗左衛門→松永久秀→信長→秀吉…、「初花肩衝(はつはなかたつき)」足利義政→信長→嫡子信忠→家康→秀吉→宇喜多秀家→家康→松平忠直…、「投頭巾(なげずきん)肩衝」村田珠光→娘婿宗珠→奈良屋又七→千利休→秀吉→家康→秀忠…。その変遷は主従の関係や様々な思惑を垣間見せてくれる。

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<サワオグルマ(沢小車)> 沢に生え、放射状に広がる花を小さな車輪に見立て

2014年06月03日 | 花の四季

【仲間の「オカオグルマ」は乾いた草原に自生】

 キク科キオン属の多年草。日本固有種で、北海道を除き本州から沖縄にかけて広く分布する。日当たりのいい山間の湿地を好む。花期は4~6月ごろ。属名のキオン(黄苑)が示すように、高さ50~80cmの直立した茎の上部に直径3~5cmほどの黄色の花をいくつも付ける。

 名前は「沢に生えるオグルマ」から。オグルマはキク科オグルマ属の湿地性多年草で、縁を切りそろえたように花びらが放射状に広がることから「小車」と名付けられた。花はタンポポに似ており、サワオグルマに比べると少し小さく草丈もやや低い。こちらの開花時期は7~10月と夏から秋口にかけて。

 サワオグルマの葉や茎はヨモギのように細くて白いくも毛で覆われる。学名「セネシオ」はラテン語で「老人」を意味する「セネクス」に由来する。ということは、学名もくも毛からの連想による命名だろう。若葉や茎、つぼみなどは食用として、てんぷらや和え物、炒め物に。同じキオン属の近縁種「オカオグルマ(丘小車)」は名前の通り乾いた草原に自生し、葉や茎にくも毛がない。分布域も日本のほか朝鮮半島や中国、台湾など広い。

 サワオグルマの群生地では福井県敦賀市の中池見湿地や滋賀県の余呉湖東岸、長野県大町市の居谷里(いやり)湿原、白馬村の親海(およみ)湿原などが有名。中池見湿地は100種を超える絶滅危惧種を含め約3000種に上る動植物が生息、その生物多様性から2012年、ラムサール条約の登録湿地となった。サワオグルマも全国的には湿地の開発などで自生地は減少傾向。東京では既に絶滅したとみられ、愛知や高知など11県でも絶滅危惧または準絶滅危惧種に指定されている。

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<大和文華館> 企画展「社寺の風景―宮曼荼羅から祭礼図へ」

2014年06月02日 | 美術

【厳かな社寺の景観や祭りのにぎわいを描いた作品など約40点】

 大和文華館(奈良市)で特別企画展「社寺の風景―宮曼荼羅から祭礼図へ」(29日まで)が開かれている。厳かな社寺を描いた宮曼荼羅や祭りの活気を生き生きと伝える祭礼図など約40点(前後期で一部展示替え)。同館はこれらの社寺の風景を通して〝聖と俗のあわいの世界〟を垣間見ていただければ、としている。

     

 『笠置曼荼羅』(写真㊧)は笠置寺を描いた仏画で、弥勒如来を囲むように礼堂と十三重塔が描かれている。色鮮やかなボタンの花と塔のそばに描かれた2人の参詣者の姿も印象的。これらの伽藍は鎌倉末期、倒幕を目指す後醍醐天皇方と幕府方の戦いで焼失しており、それ以前の姿を示す貴重なもの。『柿本宮曼荼羅』(写真㊨=部分)は治道社(天理市の和爾下神社)の景観を描いたもの。画面の一部に柿本寺跡とみられる礎石や人麻呂の墓とみられる築山も描かれている。いずれも鎌倉時代の作で国の重要文化財。

   

 『竹生島祭礼図』(江戸前期、上の写真)は琵琶湖北端に浮かぶ竹生島の都久夫須麻神社の蓮華会の情景を描いたもの。蓮華会は新しく造った弁財天の像を船に乗せて湖上を渡り神社に奉納する竹生島最大の祭礼。画面左端の先頭の船は金翅(きんし)の作り物を掲げ、後尾の船はハスの造花を散華している。描かれた社殿は現存の慶長8年(1603年)に再建されたもの。『祇園祭礼図屏風』(江戸前期)は大阪歴史博物館蔵で六曲一双。右隻に前祭(さきまつり)の山鉾巡行、左隻に後祭の神輿渡御が華やかに描かれている。

 同展では「物語に描かれた風景」として『源氏物語図屏風』(江戸前期)など9点も展示中。この屏風(六曲一隻)に描かれているのは「明石」「絵合」など6場面で、岩佐又兵衛(1578~1650)の作と伝わっている。岩佐は織田信長に一族を滅ぼされた戦国大名荒木村重の子(岩佐は母方姓)で、風俗画を得意とし浮世絵の開祖ともいわれた。他に仇討ちで有名な『曽我物語図屏風』(江戸中期)や安珍・清姫の悲恋で知られる『道成寺縁起絵巻』(江戸後期)など。さらに「名所の風景」として宋紫石筆『富嶽図』、谷文晁筆『神奈川風景図』、扇面60枚から成る『京奈名所図扇面冊子』なども出品されている。

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<コウホネ(河骨)> 名前は不気味だが、花は控えめで愛らしい黄花

2014年06月01日 | 花の四季

【その名は太く長く白い根茎を骨に見立てて!】

 日本原産のスイレン科の多年草で、全国各地の池や沼、小川の浅瀬などに自生する。5~9月ごろ、光沢のある葉の間から茎を伸ばし小花を上向きに1つ付ける。スイレン科の植物には大きく目立つ花を咲かせるものが多いが、コウホネは径4~5cmほどで葉の大きさに比べ小さくて愛らしいのが特徴。5枚の花びらのように見えるのは花弁状の萼片。その色は黄色から緑色に変化していく。本来の花弁は雄しべの回りをくるりと囲む。

 根茎(地下茎)は横に這って、白く太く長い。その形が白骨のように見えることから「河骨」の名前が付けられ、「カワホネ」の音便で「コウホネ」(または「コオホネ」)になったといわれる。英名は「イエロー・ポンド・リリー」。コウホネは淡水魚飼育水槽の水生植物として人気があるが、光が弱いと水中葉(沈水葉)だけ生えて、水上葉(浮葉)が出ない。根茎にはレンコンと同じようにいくつも穴があり、これを乾燥したものは漢方で「川骨(せんこつ)」と呼ばれて強壮薬や婦人薬として用いられる。

 同じ仲間にヒメコウホネ、オグラコウホネ、ネムロコウホネ、オゼコウホネなど。ヒメは姫で全体に小型。オグラは京都の小椋池にちなんで命名された。福岡県八女市の麻生池がオグラコウホネの群生地として知られ、県の天然記念物にも指定されている。ネムロは最初に採集されたのが北海道の根室だったことにちなむ。オゼは尾瀬で、主に尾瀬ケ原以北の東北地方に分布する。花の中央部分の柱頭盤が紅色なのが特徴。ただ、この4種はいずれも「絶滅の危機に瀕している」として環境省のレッドデータブックに「絶滅危惧Ⅱ類」として掲載されている。コウホネ自体は未掲載だが、都道府県レベルでは26都府県で絶滅危惧または準絶滅危惧種に指定されている。

 コウホネは生け花で古くから夏の水物を代表する花材として珍重されてきた。花や葉を図案化したものは「三つ河骨」など家紋としても用いられてきた。河骨紋は一見葵紋に似ているが、それは江戸時代、徳川家が葵紋の使用を制限したため、よく似た河骨紋が作られたことによる、ともいわれる。控えめで上品な花姿からか、コウホネは一時期、封書用の慶弔切手にも採用された(1995~2011年)。「河骨の影ゆく青き小魚かな」(泉鏡花)。

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