対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

対話の流儀のちがい?

2005-06-05 | 弁証法
 長谷川宏は『新しいヘーゲル』のなかで、弁証法(Dialektik)と対話(Dialog)は近接したことばだが、日本人にはその近さが見えにくいと述べています。
 わたし自身、弁証法と対話の関係を説くヘーゲルの文言を、どこか釈然としない思いをだきつつ読むうち、洋の東西における対話の社会的な位置のちがいに思いあたって、違和感がものの見事に解消された経験をもつものだ。

 違和感が解消したのは、談論風発、和気藹々の「東洋の対話」に対して、相手との対立点をきわだたせることに力をこめるのが「西洋の対話」だと考えたことだったようです。対話の流儀のちがいに気づくことよって、弁証法と対話の関係に納得がいくようになったと述べているように思われます。すなわち、「東洋の対話」と弁証法は遠い関係にあるように見えるのに対して、「西洋の対話」と弁証法は近い関係にあると考えたように思われます。

 わたしは、弁証法(Dialektik)と対話(Dialog)は洋の東西を問わず、近接したことばだが、その近さが見えにくいと考えています。この立場を明確にするために、長谷川宏が想定している弁証法と対話の関係を検討してみることにします。かれが想定した「ヘーゲルの弁証法と深く通いあう西洋ふうの対話」は次のようなものです。

 なにより、むかいあう二人ないし数人の人びとのあいだに、明確な対立と、対立ゆえの緊張が存在しなければならない。というか、個の自由と自立の原理からして、何人かの人間がおのれの信念を開陳するベくむきあうとき、そこに意見の相違があるのは当然の前提であって、その相違を自他にたいしてあきらかにしていくのが対話の重要な課題なのだ。むきあう相手とのあいだになんらかの一致点を見いだすのが対話の目的ではなく、当然あってしかるべき相違点を明確な表現にもたらし、対立する見解のいずれが理にかなっているかを問う、というかたちで思索を深めるのが西洋の対話の基本型なのである。

 明確な対立と緊張の存在を前提にして、意見の相違を自他に対して明らかにしていくのが、対話の重要な課題というのは、妥当な指摘だと思われます。ただ、なぜ、これが西洋の対話だけに限定して想定しているのかには疑問が残ります。なぜなら、東洋の対話にもこの関係は、存在すると思われるからです。

 一方、西洋では、相手とのあいだに一致点を見いだすのは対話の目的ではないと強調しているのは、奇妙な「対話」の理解といわざるをえません。西洋では、ほんとうに、対立する見解のいずれが理にかなっているかを問う、というかたちで思索を深めているのでしょうか。西洋では、どうして相手とのあいだに一致点を見いだすのは対話の目的ではないのでしょうか。対話の目的に、洋の東西で違いなどないと思われます。

 長谷川宏の表現を使って、わたしなりに「対話」の基本型(洋の東西を問わない)をまとめれば、次のように要約できると思います。

   1  はじめに明確な対立と緊張が存在する。
   2  意見の相違を自他に対して明らかにする。  
   3  対話の目的は一致点を見いだすことである。

 わたしには、長谷川宏が弁証法と対話の関係を理解しようとしたとき、「対話」の内容を歪曲したのではないかと思われます。それは、「弁証法」を「否定と対立と矛盾の方法」であると考えると同時に、この方法をそのまま「対話」と対応させたからだと思われます。強調していえば、ヘーゲル弁証法にあわせて、「西洋の対話」の基本型を想定したのだと思います。こうして弁証法と対話の関係を、かれは次のように納得しました。

 相手との対立点をきわだたせることに力をこめるのが西洋の対話の流儀だとすれば、その流儀を哲学の方法として応用しようとする弁証法がまとまりや和のみを強調するものであるはずはない。

 この立場から、弁証法が「なにより否定と対立と矛盾の方法」であることの確認として、「論理的なものの三側面」の第二側面(弁証法的側面、否定的理性的側面)が紹介されています。これが、対話の目的から相手との一致点を見いだす局面が切り捨てられた根拠だと思われます。

 しかし、むしろ、弁証法は「まとまりや和のみを強調するもの」ものとして、「論理的なものの三側面」の第三側面(思弁的側面、肯定的理性的側面)を紹介するほうが、弁証法と対話の関係を把握できる可能性が高いと思われます。
 
 弁証法(Dialektik)と対話(Dialog)が、日本人にとって遠く思われるのは、対話の流儀が西洋と違うからではありません。弁証法と対話の関係は、日本人にも、また、例えばドイツ人にも、どこか釈然としない思いがすると考えられます。

 なぜなら、そもそも、ヘーゲル弁証法は「対話」と対応する構造をもっていないないからです。

 ヘーゲル弁証法は、「論理的なものの三側面」に集約的表現されていますが、その最初の段階は「抽象的側面あるいは悟性的側面」です。それは次のように規定されています。「悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている」。この最初の局面に、「明確な対立と、対立ゆえの緊張」は存在しているのでしょうか。対立と緊張は、長谷川宏が想定する「西洋の対話」にも、また、わたしが想定する「対話」にも、共通に含まれている契機です。

 ヘーゲル弁証法を「否定と対立と矛盾の方法」と特徴づけるのは、妥当な考えだと思います。しかし、これをそのまま「対話」(Dialog)と関連づけるのは、そもそも無理があると考えられます。

 弁証法(Dialektik)は、「対話」(Dialog)と密接な関係にあります。わたしの考えは、弁証法と対話の関係を理解しようとするとき、長谷川宏とはまったく反対になります。つまり、かれが「ヘーゲル弁証法」を絶対化して、「対話」の構造を変更するのに対して、わたしは「対話」の構造を絶対化して、「ヘーゲル弁証法」の構造を変更するのです。「対話」(Dialog)の構造をモデルにして弁証法(Dialektik)を構築しようと考えるのです。「対話」が保存されるべきで、ヘーゲル弁証法は捨てられるべきだと考えるのです。

 弁証法(Dialog)は「否定と対立と矛盾の方法」ではありません。それは「対話と止揚の方法」というべきなのです。これまでに提出された弁証法の理論は「対話」の構造と対応していません。わたしは、「対話」と対応する「弁証法」の理論を、「論理的なものの三側面」の規定を解体することによって、実現しようと試みているのです。

   
 『弁証法試論』を参照してください。とくに、ヘーゲル弁証法と対話の関係については、第5章 対立の統一と対話を参照してください。中埜肇『弁証法』を検討しています。

参考文献

 長谷川宏 『新しいヘーゲル』 講談社現代新書 1997年




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