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kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

京都・鷹峯が源流の「何度も出会った 紙屋川」

2025年03月15日 | 京都
鷹峯という地名の由来は
古代には猟遊の地とされた 栗栖野 (くるすの) 郷の西北にあたる。 伝承は、毎年鷹がきて雛を産んだので、その山を鷹ヶ峰と称したというが、「山州名跡志」には「鷹峯 在 千束西北 、此所西南ニ双デ三峯アリ、第一天峯、第二鷲峯、第三鷹峯、由来未 考、鷹峯今地ノ名トス」とあります。


●しょうざんリゾート京都 

鷹峯が源流の「紙屋川」で
昔タスキ掛けの職人が紙を漉いたといわれています。

 

“わかどり” への道に流れる「紙屋川」


●北野天満宮 

紙屋川に架かる鶯橋



橋の上から見た、鶯橋方向の紙屋川



悪水抜き(あくすいぬき)の説明板に「紙屋川」



豊臣秀吉公が築いた「御土居」の説明板にも



紅葉の季節には・・・



紙屋川の水鏡に映る紅葉が美しいです。


●大将軍八神社からJR円町駅に向かう「紙屋川」

今は民家の間を流れ水流も少なくなっていますが
昔は荒れ川だったようです。



西ノ京円町を経て太秦東南で御室川と合流して
南区吉祥院で桂川に合流します。



平安期には
禁裡御用の紙を漉いた紙座があったそうです。


朝廷の重要な祭儀の前に
この川の上流で潔斎をおこなったために荒見(あらみ)川といいました。荒見とは散斎(あらいみ)のことで,今も衣笠に荒見町や大祓町の地名が残されています。


紙屋川は鷹峰山中に源を発し、北野天満宮西付近から
上流を紙屋川、下流を天神川と呼び、西ノ京円町を経て
太秦東南で御室川と合流して、南区吉祥院で桂川に合流。

京都で何度も出会った「紙屋川」は
行きたいと思っていた「源光庵・光悦寺」のある
鷹がきて雛を産んだ「鷹峯」が源流でした。(^^♪
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2014年 京の夏の旅・しょうざん庭園「酒樽茶室と聴松庵」

2025年02月12日 | 京都
しょうざん庭園「紙屋川別館 湧泉閣で京料理」のつづきです。

紙屋川

昔タスキ掛けの職人が紙を漉いたという「紙屋川」を渡ると


酒樽茶室

景色は一変してました。
酒樽に茅葺をのせた酒樽茶室です。



こちらが入口のようです。



お茶室に近いところに門があります。



特別公開の峰玉亭が見えてます。



ここにも、酒樽のお茶室があります。


聴松庵(ちょうしょうあん)

案内板がありました。

裏千家11代・玄々斎(げんげんさい)自らの設計による茶室で
「下座床(しもざどこ)」の様式を用い、突き上げ式の窓です。

明治維新、廃藩置県の際に大徳寺から何度も場所を変えて
移築を繰り返しながら、しょうざん庭園に落ち着いたそうです。

私が見てきた「しょうざん京都」の、ほんの一部ですが
自然美豊かな京都の洛北・鷹峯にたたずむ穴場庭園でした。
2014年 京の夏の旅・しょうざん京都は終わります。
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2014年 京の夏の旅・しょうざん庭園「紙屋川別館 湧泉閣で京料理」

2025年02月10日 | 京都
しょうざんの迎賓館「文化財時別公開 峰玉亭」のつづきです。

2014年 第39回京の夏の旅 特別公開の峰玉亭を出たあと
同じ庭園内にある「紙屋川別館 湧泉閣」に向かいました。


ここは、今日のお昼を頂く「紙屋川別館 湧泉閣」です。



屋根を見ると・・・



冷製の炊き合わせに、冷やし茶碗蒸しがあります。

「梅干しだと思ったらトマトだわ」の声が聞こえたので
私も炊き合わせの赤いのを食べると、それはプチトマトでした。
品数も多く美味しかったので満足のお昼でした。(^з^)-☆


紙屋川

昔タスキ掛けの職人が紙を漉いたという「紙屋川」。



紙屋川は
天神川の上流部の呼び名で、古くは「西堀河」でした。

「天神川」の名は
中流で北野天満宮の西を流れているからだそうです。


「京料理 紙屋川」で見たお花

「金水引 (きんみずひき)」
一番上の黄色い花は、黄色の5弁花が咲き
葉っぱは3つに裂けギザギザで服にひっつきます。

金箔(きんぱく)色の水引や元結(もとゆい)のことを「金水引」といいますが、この花の形がこの「金水引」に似ていることから命名。

その下の白い実は 「ヤブミョウガ(藪茗荷)」
ツユクサ科ヤブミョウガ属の多年草で、日本では関東以西に分布する在来種。名前の由来 は、藪に生えていて葉が茗荷に似ている事から命名。

一番下の花は、ご存じの方も多い 「ホトトギス」
茎が湾曲や下垂して花を咲かせる姿は風情があり、山野草として 人気の植物で斑点のある花びらが、ホトトギス(鳥)のお腹にある模様と似ていること命名。

再投稿ですが「酒樽茶室と裏千家設計の聴松庵」へ続きます。
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2014年 京の夏の旅・しょうざんの迎賓館「文化財時別公開 峰玉亭」

2025年02月09日 | 京都
2014年 京の夏の旅・洛北にひろがる「しょうざんリゾート京都」再投稿の続きです。

普段は非公開の「峰玉亭(ほうぎょくてい)」

峰玉亭の玄関
北山台杉や紀州青石で造られた、約3万5000坪の広大な「しょうざん庭園の中に建つ峰玉亭」は、創始者 松山政雄氏が昭和30年代に建てた数寄屋造です。

約3年の歳月をかけた峰玉亭の完成(1965)を見ずに
松山政雄氏は亡くなられたそうです。


栖鳳(せいほう)の間

初めに案内された部屋は
竹内栖鳳の掛軸がかけられ、部屋の名前になっています。

一枚板の床に南天の床柱、家にも南天はありますが・・・
こんなに太い南天は初めて見ました。



そして狩野派の襖絵です。



廊下の床財は「とちの木」です。
(肌触りが良くて裸足で歩きたいほど)



廊下の天井部分も、各地から集められた竹で凝っています。
(すべての天井に、凝った竹が使われていました。)



こんなお部屋も・・・



ここは、金箔の襖のお部屋です。



いま通ってきた廊下の端に鶏の襖絵が・・・
これは伊藤若冲が描いたものです。


商談に使われた部屋「吉井勇の間」

「吉井勇の間」は、部屋の片側が書院棚のようになっていて
棚に商品(着物)を並べ、お客さんに品定めをして貰います。

※吉井 勇氏は、大正期・昭和期の日本の歌人・劇作家・小説家。



「吉井勇の間」に名付けられた部屋には
吉井勇の直筆がかけられています。



振り返えると、すぐ後ろに「円山応挙」の襖絵が・・・



応拳の名前があります。
こんなに近くで見ていいの? と思うほど近くです。



最後に案内された部屋です。
床柱は最初の部屋にあったナンテンと同じ木の下半分。



富岡鉄斎の作品があります。(富岡鉄斎の間?)



窓の外に見えるのは
坂東妻三郎邸にあった梅ノ木が移植されたものだそうです。
※坂東妻三郎は、昭和の大スターで田村亮・正和等の父親。


峰玉亭は
南天の床柱や欅の一枚板の床板など、全国から選りすぐりの材を集めて建てられ、江戸期の狩野派の襖絵や、竹内栖鳳の掛軸が掛けられた迎賓館でした。

再投稿ですが「紙屋川別館 湧泉閣」へと続きます。
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2014年 京の夏の旅・洛北にひろがる「しょうざんリゾート京都」

2025年02月08日 | 京都
1月度ハイキングで「しょうざんリゾート京都」へ行った時に、
「2014年 京の夏の旅」で9月7日(日)に、10年ぶりに特別公開されていた「しょうざんリゾート京都の 迎賓館 峰玉亭」へ行ったことを思い出していました。 

「しょうざん」という名前は、戦後ウール織物で財をなし三万五千坪の 四季折々に表情を変える庭園に、戦後消失の運命にあった美しい日本の建造物(点在する茶室など)を移築された創業者は「松山政雄」氏です。
その苗字「松山」を音読みして「しょうざん」に・・・。



しょうざん北庭の門 (福徳門)は
大文字山の麓で金閣寺に隣接する場所にありました。



門を入ると、目の前に北山台杉が見えます。



台杉は、北山杉の「取り木」と呼ばれる台をつくり
そこから枝を垂直に伸ばし「立ち木」にした杉の事です。



北山杉は、桂離宮などに使われた朝廷御用木で
「京都府の木」に指定され庭園内の杉はすべて
北山から移植された樹齢が350年~500年だそうです。



苔がとてもきれいです。

数寄屋造りの迎賓館「峰玉亭(ほうぎょくてい)」が
左手に見えてきました。

「しょうざんリゾート京都」は忘れられない所の一つです。
2014年9月の記事ですが、ええとこなので続いて再投稿します。
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今は琥珀色の「幽霊子育て飴」

2025年01月14日 | 京都
1月5日投稿の「京都・六道の辻 地蔵尊 と 幽霊子育飴」


私も飴を買って
家に帰り飴の写真を撮っていましたが・・・



投稿するときに、撮っていた「幽霊子育飴」の
写真が何度探しても見つからなかったのですが
見つかったのでアップしておきます。(^^ゞ



昔話に出てくるお店の飴は「水飴」でしたが
今は琥珀色の固形飴で、原材料は麦芽糖とザラメ糖でした。
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京都・小野篁が冥土通いした「六道の辻 六道珍皇寺」

2025年01月06日 | 京都
今日は、朝から冷たい雨が降っています。

2024年11月4日(月)

「みなとや幽霊子育飴本舗」で飴を買った後


六道の辻 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」

建仁寺さんの塔頭寺院へ
六道珍皇寺周辺は古くからの葬送地でした。

今は「六道さん」の名で親しまれ
お盆の精霊迎えに参詣する寺として知られています。



11月4日(月)は「秋の特別公開」で
小野篁が冥土に通ったという伝説の井戸を見てきました。


正面に見えたのは「三界萬霊供養塔」

三界とは、仏教でいう「過去・現在・未来」の事で
全ての霊の供養を目的として建立。


右側に見えるのは、冥土までひびく「迎え鐘」

この鐘は、当寺の開基である慶俊僧都が造らせたもので
僧都が唐国に赴いた時に、この鐘を3年のあいだ地中に埋めておくようにと寺僧に命じていました。

しかし留守を守る寺僧は待ちきれず、1年半ばかりたって掘り出して鐘をついたところ・・・このような唐土にまでひびく鐘なら、おそらく冥土までも届くだろうと信じられ「迎え鐘」となったと伝えられています。


閻魔堂(篁堂)

右手に笏(しゃく)を持った等身大の衣冠束帯姿の小野篁立像(江戸時代)・閻魔大王坐像(小野篁作)・弘法大師(空海)坐像などが合祀されています。

小野篁 (おののたかむら )は
参議小野岑守の子(802年〜852年)で、嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で武芸にも秀でた学者・詩人・歌人でした。

文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともありました。


左に「水子地蔵尊」




特別拝観で「冥途通いの井戸」を見ることができるので
六波羅蜜寺のあとから来られる人が多いようです。



縁側の横に水琴窟が見えます。



奥の方に向かっていきます。



この建物に入っていくと


篁卿六道遊行絵図屏風

「だるま商店」というアーティストが製作して
寺院に奉納されたそうです。


熊野歓心十界図

仏教の宇宙をえがいた曼荼羅で
輪廻(りんね)と悟りの世界を表現しています。


冥土通いの井戸

閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し
夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある
小野篁が使った「冥土通いの井戸」があります。



あれ~庭の奥の方から出てこられた人がいます。



私も行ってみることに・・・(^^ゞ


黄泉がえりの井戸

冥府に通った井戸は一つだと思っていたのですが
冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」でした。



六波羅蜜寺から、六道 地蔵尊、みなとや幽霊子育飴本舗
そして六道珍皇寺は、こんなに近くでした。



小野 篁は亡き母に会いたい一心で、伝説の井戸から冥土へ足を踏み入れました。しかし母の霊は餓鬼道に堕ち、もがき苦しんでいました。篁は母の霊を救うため閻魔大王に直談判をし、それをきっかけに冥官となりました。

以来、篁は現世と冥界を行き来して、昼は朝廷に出仕、夜は閻魔庁で閻魔大王の補佐として、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったり、裁きの助言をしていたと伝わります。


六道珍皇寺へ行って、堀川通北大路下る西側の堀川通に面した所に紫式部と小野篁の墓所があることも分かりました。
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京都・六道の辻 地蔵尊 と 幽霊子育飴(ゆうれいこそだてあめ)

2025年01月05日 | 京都
2024年11月4日(月) 京都・六道の辻

左の道に位置する「六波羅蜜寺」から・・・六道の辻へ

六道の辻は
六道へ通じる道の分かれる所で、珍皇寺の門前で「松原通の轆轤町(ろくろちょう)」と「新シ町」の間を南に至る丁字路の事で

「六道」は仏語で
衆生が生前に業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界
地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上のことです。



六道 地蔵尊  西福寺の、正式な名前は「桂光山敬信院」です。

お寺の入り口にいらっしゃる布袋様。
境内に入ると、「子育地蔵尊」がおられます。

御本尊は阿弥陀如来だが
沢山のお地蔵さんと不動明王さまも祀られています。



その『六道の辻』にある『西福寺』は、弘法大師空海(774~835)さんが、鳥辺野の無常所の入口にあたる地に「地蔵堂」を建てたことからと伝わります。

空海が自作の地蔵尊を祀った地蔵堂を建てたのが始まりという伝承で、檀林皇后が子供の正親親王の病気平癒を祈願したので子育て地蔵と呼ばれるようになったそうです。


「みなとや幽霊子育飴本舗」

斜め前には「幽霊子育飴」で知られるお店があります。



~幽霊子育飴の伝説~

昔、六道の辻に一件の飴屋がありました。
ある夜のこと、表の戸をたたく音がするので主人が外へ声をかけると、かすかな声で「飴をいただきにまいりました」という返事があった。

主人がさっそく戸を開けると、髪を長く垂らし
肩を落とした一人の女が立っていました。

ご主人が茶碗にもった水飴を渡すと
女は三文をおいて立ち去っていきました。

あくる日、主人が銭箱を見ると
昨晩の女から貰った三文は木の葉三枚に変わっていました。

昨晩の女が再び現れ、やはり水飴を買っていきました。
女が置いていった三文はやはり木の葉の三文でした。

こういう日が五日も六日も続き
ついに主人は寝込んでしまいました。

それを聞きつけた近所の若者たちが
飴屋で女の来るのを待ちあとをつけると
女は京の都の墓場といわれた
鳥辺野へと入り姿を消しました。

その事を寺の和尚に聞かせると
10日程前に若い女を葬ったという。

その墓を確かめに行くと、若い女の死骸の上で
水飴を嘗めながら泣いている赤ん坊がいました。

この赤ん坊は女が死んだあとに生まれたため
女は赤ん坊のために毎夜水飴を買いに行っていたのでした。

その後、赤ん坊は和尚に預けられ高僧になったといわれ
飴屋は「幽霊飴」と呼ばれ大繁盛したのだそうです。



昔話に基づく飴を販売しているお店の飴は「水飴」でしたが
今は琥珀色の固形飴で、原材料は麦芽糖とザラメ糖でした。

亡くなった母の魂が、わが子のために飴を届け、大切な命を
守りぬいたというお話ですが・・・

生まれたばかりの赤ちゃんを遺棄、虐待の記事を見る度に
「幽霊子育飴」のことが思い出されます。
赤ちゃん、子供たちにとっても良い年になって欲しいですね。
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京都・六波羅蜜寺「秘仏本尊 十一面観音立像の御開帳」

2024年12月29日 | 京都
11月4日(月)

10代の頃に行ったことがある六波羅蜜寺
「秘仏本尊 十一面観音立像の御開帳」があると知り



懐かしくなり行ってきましたが、凄い行列です!



あの時は、スッと入れた記憶しかないのですが
私も並ぶことに・・・



アッ! 何かあったのでしょうか?



そして救急車も・・・長い行列の後ろのようですが


本堂

境内は人人で写真が撮れない状態でした。
やっとお参りをして本堂を出た時の1枚です。



もう一枚撮りましたが、本堂入口の上部分です。



六波羅蜜寺といえば「空也上人立像」ですが
ここは・・・? きれいになってます。


令和館(文化財収蔵庫)

空也上人立像を見た時のことは
今でも、しっかりと憶えています。



でも、館内は撮影禁止なので
左:地蔵菩薩坐像(重要文化財)
中:平清盛座像  鎌倉時代(重要文化財)
右:空也上人立像 鎌倉時代(重要文化財)

平安時代から鎌倉時代の重要文化財と
12年に一度の 御開帳 国宝「秘仏十一面観音像」



令和館から出て、本堂を後にしますが



帰る時も、まだまだ行列が・・・



数十年ぶりに来た「六波羅蜜寺」

今日は一人で来ましたが、あの時は誰かと一緒に来た記憶はあるのですが、何故か思い出せません。誰だったのでしょう?
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京の冬の旅・仁和寺 金堂(裏堂)「国宝 五大明王壁画」2月24日(火)

2024年03月07日 | 京都
「春に三日の晴れなし」と言われますが
この日は雨の心配がないので、出かけることにしました。

仁和寺 金堂(裏堂)「国宝 五大明王壁画」

2018年秋まで370年以上非公開でしたが
2024年1月6日(土)~3月18日(月)は2度目の公開です。



健康ハイキングで「仁和寺(にんなじ)」へ行った帰りに
嵐電「御室仁和寺」→阪急電車「西院(さいいん)駅」へ
行けることを知ったので、今回は嵐電で行くことにしました。



嵐電の「西院駅」です。
駅舎は無くて、直接ホームに行き電車に乗ります。

西院駅は
阪急電鉄:「さいいん えき」と言い
嵐電本線:「さい えき」と言います。



帷子ノ辻󠄀駅で、北野線に乗り換えて「御室仁和寺駅」へ

「御室仁和寺駅」に着くと
電車を降りる前に、車内で乗車料金を支払います。
ICカードなどは、降車時にタッチすればいいので
大阪のチンチン電車と同じでした。



帷子ノ辻󠄀駅から、北野白梅町駅ヘ向かう線のホームには
駅舎はありましたが、改札口はありませんでした。



御室仁和寺駅を出ると
正面に、世界遺産「仁和寺の仁王門」が見えます。



そして門前の左に見えるのは、仁和寺門前ホテル計画&相国寺北ホテル計画の【特例許可】の取消を求められている高級ホテルの建設工事場です。



仁和寺の「仁王門」です。



仁王門を入ると
正面に見える「中門」が修理中のようです。



拝観券を購入して
五大明王壁画の「金堂(裏堂)」へ向かいます。



中門(ちゅうもん)の修理は
屋根瓦の葺き替え、塗装の塗り直しを主とする保存工事。



修理中の中門を通り抜けると
左一面に、樹高が3mほどの低い御室桜の庭園です。



右側に、五重塔(国重文)が見えます。
この五重塔は、1644年(寛永21年)徳川三代将軍家光の寄進によって建立されました。 塔身32.7m、総高36.18m。



そして正面に見えるのは「金堂」

代々皇室から住職を迎えた門跡寺院で、特別公開される金堂(国宝)は、御所の紫宸殿を移築したもの。



「京の冬の旅」では、初めての特別公開です。



金堂の正面ですが・・・
ここからは入れないようです。



金堂の後ろへ行くと
履物を置く場所が設けられていました。



建物の横から金堂へ入ります。



撮影は禁止です!



堂内の須弥壇には
阿弥陀三尊像や四天王像などが安置されています。



金堂(裏堂)の「五大明王」は向かって左から
1.金剛薬叉明王 (こんごうやくしゃ みょうおう)
2.降三世明王  (こうざんぜ みょうおう)
3.不動明王   (ふどう みょうおう)
4.軍荼利明王  (ぐんだり みょうおう)
5.大威徳明王  (だいいとく みょうおう)
※5躰の明王の姿が色鮮やかなまま残されていました。



仁和寺では、他にもいっぱい撮ってきましたが
長くなりますので、後日にアップしたいと思います。



仁和寺 金堂(裏堂)「五大明王壁画」でした。
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