kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

京都・壇林皇后九想図で知られる「第52代 嵯峨天皇后の嵯峨陵」

2017年06月29日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
六丁峠から嵐山方面に下っていくと・・・


「檀林皇后九相図」で知られる、第52代 嵯峨天皇后の 嵯峨陵さがのみささぎ でしょうか?
九相図とは、遺骸が朽ちていくさまを9段階に描いた仏教画のことです。


ここで通行止めでした。



● 京都の西福寺にある「檀林皇后九相図(だんりんこうごうくそうず)」
嵯峨天皇の皇后:檀林皇后(橘嘉智子)は、仏教に深く帰依し、自らが餌となって飢えた生き物たちを救うため、また、この世のあらゆるものは移り変わり永遠であるものは何一つ無いという教えを示すため、自らの遺骸は路傍に放置し、動物に食い荒らされてても哀れと思うな、と遺言したと伝わっている。美女として名高かったゆえに、死は身分や容姿にかかわらず必ず訪れるという教えとなり、どれほど美しくとも、死後は醜く腐り骨となり土に還る、と、僧の情欲を断ち切らせるために描かれたといわれる。死の瞬間のまだ美しい姿から、腐敗ガスで遺骸が膨らむ→腐る→虫がわく→鳥獣が食べる→ほとんど骨になる→完全な白骨になる→骨が散乱する→塚が建つ、の9場面に描き分けられた1枚の図です。(作者不詳)


いま、この奥の人の目も届かない静かな所で安らかに眠っておられるのです。
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京都・勾配の急な「六丁峠」は京都府道50号線

2017年06月26日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
落合でお昼を済ませて六丁峠の頂上へ・・・


落合を出発すると勾配の急な坂道が続きます。


六丁峠の名前は、愛宕神社 の「一の鳥居」から「六丁峠」へ
上り詰めるのに要する下六 丁側の距離(約654m)が由来のようです。
(今まで一丁は約90mだと思ってましたが、一丁は 約109mでした。)


鉄橋がこんなに小さく見える所まで上がってきました。


峠の合間から、清滝川の美しい風景が・・・


六丁峠の頂上に着きました。
ハイキングに慣れている皆さんも、この坂はきつかったようで小休止。


「西山4」は落合で見ましたが、峠の頂上は「西山6」です。
「西山5」はどこにあったのでしょう? (^_^;)))


六丁峠の真上に嵐山高雄パークウェイが通っています。
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東国原 英夫氏「ピンチをチャンスに」の講演会に行ってきました!

2017年06月25日 | 観戦・鑑賞・参観・見学ほか

大昭工業(株)さん主催、東国原さんの講演会にいってきました。
(撮影・録音など禁止なので講演が始まる前に撮りました。6月23日 金曜日)

これは講演会での話しの一つです。
東国原さんが、ビートたけしさんの弟子にして貰いたくて
直接関係者以外に入れない所に、頭も体も使ってやっと会えると・・・

ビートたけしさん
「お前 誰だ!」

東国原さん
「弟子にして下さい!」

その時、ちょうど人が要るので探していたところでした。

ビートたけしさん
「車に乗れるか?」

東国原さん
「ハイ乗れます!」

と、答えました・・・
免許証は持っているので乗れるのですが
いままで運転はした事がなかったのです。

ビートたけしさん
「じゃあ~もうすぐ車が入るので、お前が運転しろ。」

その車は、新車のポルシェで左ハンドルです。
さぁ~東国原さんが「ピンチをチャンスに」にしたのは・・・?
たけしさんと東国原さんから、私は想像出来ましたよ!
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京都・落合は「米買道」と呼ばれた水尾と落合から嵯峨への道

2017年06月23日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
トロッコ保津峡駅のつづき・・・


落合トンネルの中へと進むのですが、手前を右に折れて小休止。


落合トンネルに戻って進んで行くと、その先に落合橋が見えます。


落合橋の上から、右手に朽ち果てた料理茶屋跡のような建物が・・・


落合トンネルを抜けて落合橋を渡ってきたところです。
廃墟跡は、この写真の左側にありました。


先ほどの廃屋へ通じる道(右に下りる坂道)に「芭蕉翁の句碑」の石柱が

気になったので帰ってから調べると、そこには大きな歌碑があり
芭蕉が最後に詠んだ「清滝や波に散り込む青松葉 」の句があるそうです。


現在地です。


案内板の横から下りる坂道があって清滝川へと


清滝川に架かる潜没橋を渡って右の道に行くと


米買道は、丹波と京を結ぶ村人の生活物資を運ぶ大切な道だったのです。
重いお米を運ぶのには大変な道だったのでしょう。


非常時に「西山4」だと言えば、この場所が分かるようになっています。


自然に囲まれたこの場所で、お弁当をいただきました。


皆さんもビールなどの飲物は忘れないで持ってきています。(^_^;)))


潜没橋を左に行くと(お弁当を食べた場所は右の道)落合橋の下へと流れ
そこは廃墟跡のあった方向でもあり、清滝川が保津川と合流する所です。


お弁当を食べている時に「ピーヒョロヒョロ ピーヒョロヒョロ」と
鳥の鳴き声は聞こえても姿はなく、やっと見つけたのがこの一羽の鳥でした。
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嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線 「トロッコ保津峡駅」

2017年06月20日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座



JR保津峡駅から約1キロ先の「トロッコ保津峡駅」に向かっています。


短いトンネルを入った所に案内板が


眼下に保津峡にかかる鵜飼橋(つり橋)が見えます。


時刻表をみていて・・・
トロッコ車が通るのを見れるのではと期待する。(^_^;)))


2013年(平成25年)9月16日 - 台風18号による保津川の増水により
鵜飼橋が損傷して通行止めとなったため、営業が休止されました。


保津川にかかるつり橋を渡ったところにあるのがトロッコ保津峡駅です。


トロッコ保津峡駅は
京都府京都市西京区嵐山北松尾山にある嵯峨野観光鉄道の駅です。


2014年(平成26年)6月27日 - 鵜飼橋(つり橋)が復旧し営業が再開しました。





あっ!ホームにある鐘が鳴り始めました・・・


すると、亀岡の方向からトロッコ列車が入ってきました!


嵯峨野トロッコ列車は、 JR嵯峨嵐山駅下車すぐのトロッコ嵯峨駅から
トロッコ亀岡駅まで の約7.3kmを約25分で結ぶ観光列車です。


保津川下りをしている、修学旅行生のような制服姿の人達が・・・


トロッコ保津峡駅は「近畿の駅百選」に認定されています。
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保津川に架かる鉄橋が、プラットホームになっている「JR保津峡駅」

2017年06月19日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
5月に初めて「旧国鉄廃線跡のハイキング」に参加して楽しかったこともあり
6月の「JR保津峡から阪急嵐山駅」にも参加させて頂き京都駅を出発しました。
(6月16日 金曜日)


JR西日本の山陰本線(嵯峨野線)・保津峡(ほづきょう)駅に着きました。


プラットフォームを囲む柵の隙間から見える渓谷

保津川に架かる鉄橋の上が、プラットホームだと聞いていたので
駅に着いたら忘れずに覗こうと思ってました。(^_^;)))


改札口へ行くのには、階段をおりて鉄橋をくぐります。


自動券売機と簡易改札機を備えた「無人駅」です。


あっ!私たちが乗った次の電車が着いたようです。


秘境駅の一つと数えられる「保津峡駅」の駅舎です。


保津川に架かるこの鉄橋の上がプラットホームです。


駅の前には、数台の車が置かれている駐車場や小さなバス停があり
その先に見える赤い橋を通って、トロッコ保津峡駅へ向かいます。


駅から見えていた「保津峡橋」を渡ってきました。
車が通れるようになっている幅の広い立派な橋です。


鉄橋の上がほとんどプラットホームになっているのが見えてます。
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幕末の大阪城本丸東側の三重櫓館群の写真

2017年06月15日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
麻雀教室は月に数回あるのですが、先月から月に一日だけお勉強を始めました。
今日はその麻雀教室の日で、楽しくて嵌まりそうで心配になるほどですが (^_^;)))
月に一度だけなので、嵌まることもないだろうと思いっきり楽しんできました。


この写真は、幕末の大阪城本丸の東側です。

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代
(江戸時代)の末期を指していいます。

幕末の写真は、ペリー来航の1853年(嘉永6年)から1868年 (慶応4年・明治元年)まで活躍していた、土方歳三、坂本 龍馬、西郷隆盛などは見たことはありますが・・・そんな時代の貴重な大阪城本丸東側の写真でした。
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江戸時代の「面頬(めんぽお)」

2017年06月14日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学

銘:土州住明珍紀宗口 江戸時代


無名 伝明珍 江戸時代


汗を流すための穴や管、呼吸が苦しい時の鼻部分の取り外しなどの工夫は
されていますが、鉄製なので面頬は重くて息苦しかったでしょうね。
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大坂新刀の祖「河内の守 国助」と、備州住宗久の「片手打ちの打刀」

2017年06月13日 | 観戦・鑑賞・参観・見学ほか





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土橋町とは高槻城跡の南側すぐの所で、今もその町名は残っていますが
この場所に高槻城の土橋があったのでしょうか?
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奥村寛純氏の伏見人形3「腹帯をした神馬・ 子猫がいっぱいの招き猫」

2017年06月12日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学

右側の大きな腹帯をしているのが「神馬(しんめ)」です。
かわいい腹帯をしたお馬さんは初めて見ました。!(^_^;)))


またげる大きい置物と言えば象の置物が思い浮かびますが・・・
この時代には、大きなお馬さんがあったのですね。

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親猫の頭・前足・横からかわいい子猫がいっぱいの縁起猫です。
(この子猫たちは以前にも登場しましたが、かわいいので再登場です。)
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