kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

神戸のお嬢様「旦旦(タンタン)」の思い出

2024年05月13日 | 兵庫・神戸市ほか
王子動物園のジャイアントパンダ「タンタン追悼式」の
ニュースで思い出すのは、可愛い表情のタンタンです。


この写真は、2015年10月に「神戸市立王子動物園」へ
Yと、孫のAちゃんと行った時に撮ったタンタンです。



神戸のお嬢様と言われているタンタンが、23歳のお誕生日を迎えたときには、好物のフルーツと笹の葉で飾られた特製のケーキが贈られました。(写真はニュースより)

タンタンがやってきたのは2000年。
「阪神・淡路大震災で被災した子どもたちの心を癒してあげたい」と、神戸市が中国側に要望し、オスのコウコウ(興興)とペアで中国から貸し出されました。

そして2008年には待望の赤ちゃんが誕生したのですが、24時間体制で飼育員さんが見守るなか、赤ちゃんは生後4日目に死んでしまいました。わが子をなくしたタンタンに不幸が続き、2010年9月に2代目のオス「コウコウ」が急死しました。

2024年3月31日に28歳で亡くなるまで、タンタンはひとりぼっちでした。パンダの28歳は人間でいえば100歳近いそうです・・・

ジャイアントパンダは
中国へ行った時と、白浜へ行った時に見てますが
タンタンの表情が優しくて、とても可愛いかったので
パンダといえば、私にはタンタンが思い出されます。
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神戸・三ノ宮の老舗洋食店 「グリル十字屋」

2023年03月14日 | 兵庫・神戸市ほか
三ノ宮へ来た時に、行きたいと思っていたお店があります。


楽しみにして、神戸市立博物館からの帰りに行くと


営業時間が変更になったようで、準備中になっています。

次の機会に行きたいと思ってますが
「グリル十字屋」さんは、こんなお店です・・・。


● 2013年3月30日(土)撮

JR三ノ宮地下センターです。

今日は、神戸市立博物館で開催の 「中国 王朝の至宝」 に行くのが目的ですが、先ずはお昼を頂くことになり神戸っ子が案内してくれたお店に向かいました


そのお店は、神戸市役所近くにある老舗洋食店
「グリル 十字屋」さん です。

お店に入ると
目の前には下りる階段だけが見えて店内を見下ろす感じです。雰囲気のある高い天井の店内は、2011年5月劇場公開の山下敦弘監督作品「マイ・バック・ページ」で、主演の妻夫木聡さんと忽那汐里さんの食事風景が撮影されたそうです。


昭和8年創業以来、3代に渡り変わらぬ味を守り続けている「 グリル十字屋」の基本のデミグラスソースは、3日かけて仕上げる逸品で手間ひまかけています。

人気のオムライスがとても美味しそうだったので迷いましたが・・・案内してくれた神戸っ子と同じビフテキに決めて、先ずソースを味見をすると 「アッ!美味しい」


食事をしている時は見えなかったのですが
階段の上で数組が待っているのが分かったので、食後のおしゃべりを切り上げて早々にお店を出るとお店の前にも列が出来ていましたが、いつもはもっと長い列なので今日は少ない方だとか。

# # # # # # # # # # # # # # #

三宮・三ノ宮 (さんのみや)
神戸市には多くの鉄道駅がありますが、JRだけが「三ノ宮」で「ノ」が入っています。阪神と阪急は「神戸三宮」、神戸市営地下鉄の西神・山手線は「三宮」、海岸線は「三宮・花時計前」、神戸新交通ポートライナーは「三宮」です。

明確にはわかりませんが
1874(明治7)年、国鉄開業時から「ノ」が入っていたそうです。

グリル 十字屋
住所:兵庫県神戸市中央区江戸町96ストロングビル 1F
電話 078-331-5455
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神戸旧居留地・京町沿いの「68」は住居前に建てられた番地の門柱

2022年10月26日 | 兵庫・神戸市ほか
神戸旧居留地68番地の門柱

この地域一帯は、兵庫開港によって設けられた外国人居留地の跡で、神戸の旧居留地68番地にレンガ造りの倉庫があり2m弱柱に68の数字が刻まれていました。

「68番地の門柱」は、神戸旧居留地の京町筋沿いにあります。
所在地:神戸市中央区京町68-2



     外人居留地68番館の門柱

 この地域一帯は慶応3年(1868年)12月7日の兵庫開港によって設けられた外国人居留地の跡である。

 京町68番地は明治2年(1869年)に競売されオランダ人、ハルトマン・ヘルツが 百坪あたり二百一円二銭五厘で落札した地所である明治4年頃には早くも煉瓦作りの倉庫が建てられていた。

 この門柱は明治15年頃、この地に住んだエッチショニングの住居前に建てられたものと推定される。

 開港当時の外国商館の面影をしのばせる貴重な文化遺産としてここに保存するものである。

 昭和46年8月   神戸市長  宮崎辰雄


 
旧居留地38番館  2022年8月2日に投稿

神戸市中央区の旧居留地にある歴史的建造物です。

ナショナルシティ銀行神戸支店として1929年に建てられた建物。
旧居留地ならではの重厚感のある建物や38番館という名称はそのままに、大丸百貨店の別館として生まれ変わったのです。


館内中央は吹き抜けになっています。
女神の銅像があり足元から水が湧き出ていました。
神戸大丸は「旧居留地 40番地」です。

旧居留地は、いつも神戸市立博物館の帰りに寄るだけですが
いつか・・・ゆっくりと散策したいと思っています。
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神戸・須磨の赤灯台と呼ばれる「現存最古の鉄造灯台 旧和田岬灯台」

2022年07月31日 | 兵庫・神戸市ほか
今年の1月17日に、6434人が亡くなられた阪神・淡路大震災が
発生から27年を迎えました。阪神・淡路大震災を機に受け継いだ「ホテルに建つ公式灯台」の一般公開に行きました。

そして、須磨に行くなら見ておきたいと思っていた「須磨寺」と
現存最古の鉄造灯台「旧和田岬灯台」を見てきました。



「赤灯台(あかとうだい)」の愛称で親しまれている
旧和田岬灯台は(写真左)、砂浜からすぐに分かりました。

旧和田岬灯台(わだみさきとうだい) 登録有形文化財

1867年(慶応3年)4月、英国と締結した大坂条約で兵庫の開港に備え、航路安全を図るために建設を約した5基の灯台の1つが、この和田岬灯台は兵庫の開港を前に設置されたものでした。


現存最古の鉄造灯台は、3層構造で、高さが15.76メートル。
1層は倉庫とホール、2層は螺旋階段、3層は広い空間を確保し
最上部に灯篭を設置しています。


上を見れば、東・西・南・北の方角が分かります。


「日本の灯台の父」と言われるR.ブラントン氏の設計で初点時(明治5年)は木造でしたが、明治17年に鉄造に改築されました。


この2代目灯台は、和田岬(兵庫区)にあったものですが、1963(昭和38)年に廃灯になったあと永久保存するため、昭和39年に現在の須磨海浜公園の西端に移設されました。


歴史的文化財的価値が高く、1998年(平成10年)に「旧和田岬灯台」の名称で国の登録有形文化財に登録。近代化産業遺産に指定され後に続く鉄造灯台のモデルになっています。


入口の上には・・・全然読めないのですが探してみると
「明治五年一月二九日初点燈於舊臺一七年三月一日再点燈於新臺」
改築の経緯が示されているそうです。


須磨海岸と赤灯台にお別れして・・・


ラッシュ時間と重ならないようにと
早めの時間に「月見山駅」から帰りました。
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神戸・海開き一ヶ月前の「須磨海岸」6月17日

2022年07月30日 | 兵庫・神戸市ほか
29日、新型コロナウイルス感染による全国の自宅療養者数が
109万8671人(27日現在)でした。(*_*;

須磨寺の宝物館を出た後、須磨海岸に向かっています。
7月18日は海の日ですが、私たちは海開きの一ヶ月前に
リクエストした「須磨海岸」を歩いてきました。


ここ、何処かに似てません・・・?
踏切の向こうに見えるのは「須磨海岸」です。


私が踏切の前に立って思い出したのは
関東の駅百選に選ばれた「鎌倉高校前駅」からの江ノ電の踏切と、湘南の海が望めるアニメなどでも有名な景色でした。(^^ゞ


ここは山陽本線です。
見えているのは「須磨駅」だと思います。


歩きたかった砂浜です!


あっ!歩いたことがある「明石海峡大橋」がみえています。
子供たちの姿はありますが


海の中に入っている人の姿はありません。
でもヨットと、山の中腹には山崩れのような跡が見えてます。


きれいな海岸がつづいています。


砂浜に人が寝転がっている人たちの姿はありますが
ゴミは一つもありませんでした。(^^♪


貝が見えたので近寄って


触ってみると、わぁ~生きているので動いてました。


靴を脱いで海に入りたい気分でしたが
我慢して手を入れるだけにしました。


友人が、海藻の中を見ていたので聞くと
「色んな物が流れてくるので・・・」と言ってましたが

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

須磨海岸の記事がありました。2022 . 6 . 30 ( 木 )

須磨海岸に突如現れた危険生物、それはカツオノエボシでした。

須磨海岸では毎年2~3個体のカツオノエボシが確認されているそうですが、今年は7月初めに1週間で6個も確認されたそうです。

●昨日の7月29日、福井県福井市浜住町の鷹巣海水浴場で複数の海水浴客がイルカにかまれ、けがを負ったニュースがありました。海水浴場を運営する鷹巣観光協会は、同日午後2時ごろから遊泳は禁止されました。

●『Hawaii News Now』
ハワイ州オアフ島ワイキキの中心部から近いカイマナビーチで今月24日、子連れのハワイモンクアザラシが遊泳中の女性に襲いかかりました。母アザラシは2週間前に赤ちゃんを出産した場所の近くだったので、子を守ろうとしていたそうです。

母アザラシが、子供を守るために襲いかかったそうですが
人間にはアザラシにも劣る人たちがいるので残念です。



須磨海岸には、日本最古の鉄製灯台で登録有形文化財に登録された灯台があり、地元周辺では「赤灯台」の愛称で親しまれています。

「赤灯台」と呼ばれる灯台にも行きたいので向かいます。
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神戸・須磨寺⑦宝物館「青葉の笛・弁慶の釣鐘・鰐口・扁額・鬼面・馬盥の額」

2022年07月27日 | 兵庫・神戸市ほか
「大阪府の高齢者の行動制限してください。」と言われますが
下記のような投稿があり、私も同じことを言いたいです。
素直に従うような高齢者は、自己判断ですでに自粛しています。
何言われても好き勝手する人は、どうにもできないのだと思います。



⑥「親子地蔵・一畑薬師・六地蔵菩薩・敦盛首塚・三重塔」のつづきです。

三重塔

三重塔の右横に見えるのは「出世稲荷」です。


須磨の仇浪(すまのあだなみ)→親子地蔵→きんぽとん童子→一畑薬師(いちばたやくし)・六地蔵菩薩→敦盛首塚→三重塔→現在地

宝物館前 「ぶじかえる」

ボクは目玉と首がまわる蛙です。
ビックリしたい人は目玉を、借金で困っている人は
首をまわして下さい。

宝物館前 「七福神マニコロ」

七福神をまわしながら拝んでください。
亀の背中に乗ってもかまいません。
七福神の上には乗らないで下さい。バチが当たります。

宝物館内「光源氏を彩る人々」

光源氏を中央に、紫式部・桐壺更衣・夕顔・葵の上・葵の下・・・

須磨寺小石人形舎

アートデザイナーの故木島武雄氏が須磨や各地の小石を集めて、自然の造型をそのまま利用して作り上げた珍しい独特の小石人形が、平家の人々、福原京、源平合戦の様子が再現されていました。

宝物館


青葉の笛

熊谷直実に討たれた平敦盛が身に着けていた竹笛。

唱歌『青葉の笛』 
 一の谷の 軍破れ 討たれし平家の 公達あわれ
 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか



『青葉の笛』は、弘法大師が唐に留学していた時に作ったもので、帰国後に嵯峨天皇に献上されて『青葉の笛』と名付けられ、その後、敦盛の祖父・忠盛が鳥羽院に賜ったのだと伝えられています。

弁慶のつり鐘

一ノ谷の戦いで、弁慶が長刀の端にかけ、もう一方の端には提灯を吊るして陣鐘の代わりにしたという伝説から「弁慶のつり鐘」と呼ばれています。
※「提灯に釣り鐘」という諺は、この伝説から生まれたのだとか。


三井寺で「弁慶の引き摺り鐘」を見たことがあります。2013年8月
山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると
『いの~・いの~』(関西弁で “帰る~”の意味) と響いたので、弁慶は
「そんなに三井寺に帰りたいのか!」 と怒って、鐘を谷底へ投げ捨て
鐘にはその時のものと思われる引き摺った痕やヒビが残っています。

この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象があり
良くないことがあるときには、鐘が汗をかき撞いても鳴らなかったそうですが、良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。

馬盥(うまたらい)の額

宝物館の中門に懸かっていた「馬盥の額」
今、中門はありません。

鰐口(わにぐち)

仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種で
金口、金鼓とも呼ばれる打ち鳴らす仏具。

扁額の福祥寺と鬼面


福祥寺(ふくしょうじ)

須磨寺と呼ばれていますが
正しくは、真言宗須磨寺派の本山「上野山 福祥寺」です。

平安時代初期、兵庫県和田沖で引き上げられた聖観世音菩薩像を886年(仁和2年)光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が本尊とし奉祀したのが始まりとされています。

鬼面

運慶作(伝) 正月6日 追儺式に使用

鬼追いにつながる護法が須磨寺に永正元年(1504)、三木市蓮花寺より伝授されたとの記録が南北朝時代より歴代住職が記録したといわれる須磨寺の「当山歴代」に掲載されているそうです。

わらべじぞう

宝物館前の「わらべじぞう」に見送られて須磨寺を後にします。


須磨寺の名前が全国的に知られるようになったのは
寿永3年(1184)源平一の谷合戦の舞台になったことからでした。

一の谷合戦が行われた時
須磨寺は源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています。海と山がせまった地形を利用し、海側に陣を構えた平家の裏をかき、義経は山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけます。不意を突かれた平家は、海へと逃げることしかできず、源氏の歴史的な勝利となりました。

「青葉の笛・弁慶の釣鐘」を見ることが出来ましたので
砂浜を歩きたい!から始まった「須磨海岸」へ向かいます。
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神戸・須磨寺⑥「親子地蔵・一畑薬師・六地蔵菩薩・敦盛首塚・三重塔」

2022年07月22日 | 兵庫・神戸市ほか
コロナ感染者が19万人超になり、人身事故が多くなってホームの人にも被害が出ています。遅くなった孫のランドセルを見に行く約束をしているのですが、電車に乗る時にも気を付けないといけませんね。

須磨寺⑤「本堂・大師堂・八角堂・石五仏・出世稲荷」の続きです。

出世稲荷から奥ノ院へ向かう参道の「敦盛塚」へ向かいます。

須磨の仇浪(すまのあだなみ)年譜

大正四年、須磨沖で起きた母子心中事件をもとにした悲劇は
「須磨の仇波」として芝居や映画にもなったそうです。

須磨の仇浪「親子地蔵」

芝居、映画等で当時の家庭悲劇『須磨の仇波』の実際の主人公、川上愛子(母親)と、初音(子供)を地蔵に祀った御堂です。永く世の家庭不和に泣く人のないことを願って、建立されたお地蔵様でした。

きんぽとん童子

亀に乗る童子は前掛けを着け、笛を吹いています。


きん=金太郎のように健康で、ぽ=浦島太郎のように夢をもって、とん=敦盛のように心優しく音楽を愛して欲しい。と願いを込め3人の名称から付けられた、子供を守ってくれる童子さまです。

一畑薬師(いちばたやくし)

薬師如来をお祀りした「一畑寺(島根県出雲市)」ですが、須磨寺にも目のお薬師さまがありました。

六地蔵菩薩

六地蔵は、檀陀・宝珠・宝印・持地・除蓋障・日光菩薩の総称で、地蔵菩薩さまが「地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道」六つの世界に導いてくださいます。

あつもり首塚

須磨寺の名前が全国的に知られるのは、寿永3年(1184)源平一の谷合戦の舞台になったことからでした。


この首塚(五輪塔)は一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立されたものです。須磨浦公園の『敦盛塚』には胴体が祀られています。


参道の両側に、たくさんの塚などが並んでいます。

魚鳥塚

手前に「魚鳥塚」があります。


魚鳥塚には魚と鳥が・・・

三重塔

弘法大師千百五十年御遠忌、当山開創千百年、平敦盛卿八百年遠忌を記念して昭和五十九年に再建されました。(旧塔は四百年前の文禄大地震の際に倒壊。)室町時代様式を基調とし、内部には大日如来を祀っています。


三重塔敷地の周囲には四国八十八カ所お砂踏み霊場があり、各札所の砂をガラス越しに踏んでお詣りが出来るそうですが「三重塔」は工事中でした。


奥ノ院へ向かう参道のスタート地点に戻ってきました。

平敦盛が身につけていた「青葉の笛」のある宝物館へ続きます。
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神戸・須磨寺⑤「本堂・大師堂・八角堂・石五仏・出世稲荷」

2022年07月18日 | 兵庫・神戸市ほか
神戸・須磨寺④「写経輪堂・福禄寿尊・弁慶の鐘」の続きです。
本堂は石段を上がり、唐門をくぐった正面にあります。

本堂

須磨寺の本堂は、とても立派ですが
仁和2年(886年)創建の寺にしては新しい建物なのは、火災などにより何回も焼失し再建をしてきたからで、現在の本堂は慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が再建したものだそうです。

本堂「大悲殿」

須磨寺では、常に8種類の御朱印が準備されています。
紙面の中央に太い線で「大悲殿」の文字が墨書きされるのは、新西国霊場、十八本山霊場、神仏霊場、摂津八十八・摂津西国福原西国の御朱印です。他にも数種類あり、御詠歌が記される御朱印もあります。



御本尊は、聖観音菩薩さまです
この奥にある内陣は「宮殿」と呼ばれているという。この中には御本尊の聖観世音菩薩が脇侍と共に祀られています。
お堂の中央に御本尊の聖観世音菩薩像、向かって右に不動明王像、左に毘沙門天像がありました。

須磨のお大師さん

本堂の左側に建つ


『須磨のお大師さん』として親しまれています。


お大師さんです。

八角堂 経木(きょうぎ)供養所

旧納骨堂から経木供養所として使用していた古いお堂を
老朽化に伴い解体し、新築されたそうです。


水子地蔵大菩薩さま。


本堂と八角堂の前にあるのは、唐門と寺務所・納経所


お近くの人でしょうか・・・

弁財天女


石五仏(五智如来)

八角堂から西に向かう坂の上に
五智如来と呼ばれる「石五仏」があります。


五智如来は、金剛界曼荼羅の中央に描かれる如来の石像です。

密教で5つの知恵
法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智
を5体の如来にあてはめた金剛界五仏のことでした。

写真右から、阿閦(あしゅく)如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来、大日如来、阿弥陀如来、宝生(ほうしょう)如来です。

出世稲荷



五智如来像の隣に
平清盛が創建したとされる出世稲荷が建っています。


出世稲荷は、元々清盛が福原に遷都した時に
都の守り神として湊川のほとりに建てたもので
立身出世、事業成功の神様です。

明治中期に、湊川の改修に伴い
平家にゆかりの深い須磨寺境内に移されたそうです。


本堂から西に位置する「出世稲荷」でした。

長くなりますので「三重塔・敦盛首塚」へ続きます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ネットなどで「コラ・ネトウヨ」などを見ますが
何の事か分からないので、気になり調べました。(^^ゞ

※「コラだと思った。」とか「コラ画像かと思った。」の
 コラは、コラージュ「collage (フランス語)」 の略で
 絵画の技法の1つで「糊付け」を意味する、合成写真のこと。

※「ネトウヨ」は、ネット上で右翼的な言動をする人々のこと。
 インターネットの「ネット」と「右翼」を合わせた造語でした。
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神戸・須磨寺 ④「写経輪堂・福禄寿尊・弁慶の鐘」6月17日(金)

2022年07月16日 | 兵庫・神戸市ほか
神戸市須磨区・大本山 須磨寺は広大な敷地なので
須磨寺の記事タイトルに、歩いてきた順番を入れました。


③の「源平の庭」から「経塚」→「植桜記碑」を通り
ここは唐門へ上がる階段の下です。


階段を上がって行きます「合掌」。


振り返ると、右下に「蓮生院」が見えています。


唐門の前まで上がってきました。


「合掌」です。


唐門を入ると右側に、鐘楼とお堂が見えます。

文殊菩薩 写経輪堂

お堂は「写経輪堂」でした。


写経輪堂は←方向に回転します。


一周させると一回写経したことになるそうです。

神戸七福神霊場「福禄寿尊」

写経輪堂の後ろにあるのは「福禄寿尊」

「福」は幸せ、「禄」はお金、「寿」は長生き。
私達の願いを名前で示す福の神が、福禄寿尊です。福も禄も寿も頭を使わなければ、と長い頭が示し、笑う門には福来る、とにこやかなお顔でさとされます。笑いながらこの福禄寿尊の頭をなでるとボケ封じに、又、福禄寿尊の体をなでるとガン封じになるといわれる有難い”撫で仏様”でした!

弁慶の鐘

須磨寺の銅鐘は、銘文から安養寺(神戸市北区山田町原野)にあったもので、1460年(長禄4年)に丹治直則が鋳造したものです。


時代は異なるが、一ノ谷の戦いで、弁慶が長刀の端にかけ、もう一方の端には提灯を吊るして陣鐘の代わりにしたという伝説から「弁慶のつり鐘」と呼ばれ親しまれてきました。


私も撞かせて頂きましたが、ゴ~~~ンとええ音でした。

「提灯に釣り鐘」という諺は、この伝説から生まれたのだとか・・・現在、鐘楼に吊るされているのは複製で実物は宝物館に展示されています。


この後は、本堂から大師堂へとつづきます。
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神戸・須磨寺③「源平ゆかりの名刹 源平の庭」6月17日(金)

2022年07月12日 | 兵庫・神戸市ほか
2022年6月28日(火)に「九州北部・四国・中国・近畿・北陸が梅雨明けしたとみられる」と気象庁の発表がありました。 でも、梅雨明けの数日後から今朝も梅雨のような雨の日が続いています。


手水処「弘法岩五鈷水」のつづきです。


正面の山は一の谷に繋がる山です。
「源平の庭」は、この道の左にあります。


左の道に入ると、蕪村の句碑がありました。
「笛の音に 波もよみくる 須磨の秋    蕪村」

須磨寺には、句碑・歌碑 他など合わせて24の碑があるそうです。
左に見える建物は、通り過ぎてきた「楼寿院」です。

源平の庭

句碑のすぐ右に見えるのが「源平の庭」でした。

源平の庭は、一の谷の戦いでの
平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現した庭です。

源平合戦は、1180年の以仁王の反乱から1185年の壇ノ浦の戦いまでの5年間の源氏と平氏の争いのことです。

平 敦盛(たいら の あつもり)

笛の名手「平 敦盛」は
平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。

平家一門として、一ノ谷の合戦に出陣しましたが
16歳の若さで命を散らした悲劇の貴公子です。

熊谷 直実(くまがい なおざね)

一の谷の戦い(1184年)で、自分の息子と同年代の平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を見せなくなり、出家して名を「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と改め、法然上人の門に入り修行に励みました。


直実は法然上人の勧めによって、建久元1190年に高野山で敦盛の七回忌法要を執り行い、青葉の笛は須磨寺に奉納され宝物館で保管されています。

多くの人に歌われた「青葉の笛」は
熊谷直実に討たれた平敦盛が身に着けていた竹笛のことです。
宝物館で「青葉の笛」を見ることが出来るので楽しみです。

経塚

宝物殿の近くにある経塚です。
濱田篤三郎(竹坡)翁が、明治39年(1906)に建立しました。

濱田篤三郎氏は
東の渋沢栄一、西の濱田篤三郎と言われるほど
大物の実業家だったそうです。

植桜記碑

「花千母登 むかし稚木の さくら哉   神田松雲」


写真左の「源平の庭」から「経塚」→「植桜記碑」を通り


唐門へ上がる階段の下に出てきました。

この後も長くなるので、次へとつづきます。
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