2024年10月31日(木)の記事に
1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。
出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。
被葬者が脊椎(せきつい)を骨折し、下半身不随で数カ月間過ごした後に亡くなったとみられることが分かった。被葬者は弓を持つ左肘がスポーツ肘になるなど、弓矢に長じていたとみられ、薬としてヒ素を服用していたことなども分かった。さらに冠の縁は樹皮で、冠の生地の刺しゅうに金糸が使われたと推定できた。
日本書紀によると、鎌足は死の前日に天智天皇から藤原の姓と大織冠を贈られた。大織冠は羅(薄い絹地)で作られ、縁に刺しゅうがされたと伝わる。
今回、牟田口氏は多数の金糸が密集して織られている場所の画像を集中解析し、金糸の構造が綴織の特徴に一致すると結論づけた。生地も同じ綴織の羅であったと推定でき、大織冠とみられるという。
この記事を見て思い出したのが・・・
●2010年11月 高槻しろあと歴史館と市民大学に参加して
考古Gで 「阿武山古墳」 を探訪してきました。
発見して数十年も経ってから昭和58年8月に国の史跡に指定になった 「阿武山古墳」は7世紀後半に築造されたもので、京都大学地震観測所のすぐ北側にありました。
昭和9年の春に京都大学の地震観測施設建設の工事で偶然に発見され、地震観測所長で地球物理学者の「志田 順 (しだ とし)」博士によって墓室内部の調査が行われました。
古墳は墳丘をつくることもなく、高槻市と茨木市の境にある阿武山の中腹・標高約210mの自然の山丘を利用して、幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの周溝の中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルが組み上げられ、内側はしっくいで墓室がありました。そして南側には水抜き用の坑道がひかれていました。
墓室には木棺でも石棺でもなく
漆で麻布を何枚も貼り固めた 「夾紵棺 (きょうちょかん)」 が安置され、棺内には大小500個の青と緑のガラス玉を、8mの銀線で結び目が一つの高度な技術の 「玉枕 (たままくら)」 、60才ほどのきらびやかな錦をまとった身長164、59cmのミイラ化した男性が、あおむけにした状態で南枕に葬られていました。
発見後100日でほどで、遺骸は再び埋葬されたそうです。
※ 夾紵棺は、漆を貼り重ね固めてつくった棺。
当時に撮影されたX線写真などの分析から
男性は亡くなる数ヵ月前に事故(落馬)で骨折していたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)が授けられたのが、「余豊璋」との二人だけであったことから、葬られた人物は 『多武峰略記』の安威山に埋葬したと伝える大織冠・中臣(藤原鎌足)のお墓とする説が有力です。(昭和62年11月3日の朝日新聞にも掲載。)
2009年の11月に、茨木市開催の「鎌足ゆかりの地」の散策に参加した時から行きたいと思っていた「阿為神社」へ行きました。
その時の「阿為神社の蹴鞠」もご覧ください。
1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。
出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。
被葬者が脊椎(せきつい)を骨折し、下半身不随で数カ月間過ごした後に亡くなったとみられることが分かった。被葬者は弓を持つ左肘がスポーツ肘になるなど、弓矢に長じていたとみられ、薬としてヒ素を服用していたことなども分かった。さらに冠の縁は樹皮で、冠の生地の刺しゅうに金糸が使われたと推定できた。
日本書紀によると、鎌足は死の前日に天智天皇から藤原の姓と大織冠を贈られた。大織冠は羅(薄い絹地)で作られ、縁に刺しゅうがされたと伝わる。
今回、牟田口氏は多数の金糸が密集して織られている場所の画像を集中解析し、金糸の構造が綴織の特徴に一致すると結論づけた。生地も同じ綴織の羅であったと推定でき、大織冠とみられるという。
この記事を見て思い出したのが・・・
●2010年11月 高槻しろあと歴史館と市民大学に参加して
考古Gで 「阿武山古墳」 を探訪してきました。
発見して数十年も経ってから昭和58年8月に国の史跡に指定になった 「阿武山古墳」は7世紀後半に築造されたもので、京都大学地震観測所のすぐ北側にありました。
昭和9年の春に京都大学の地震観測施設建設の工事で偶然に発見され、地震観測所長で地球物理学者の「志田 順 (しだ とし)」博士によって墓室内部の調査が行われました。
古墳は墳丘をつくることもなく、高槻市と茨木市の境にある阿武山の中腹・標高約210mの自然の山丘を利用して、幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの周溝の中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルが組み上げられ、内側はしっくいで墓室がありました。そして南側には水抜き用の坑道がひかれていました。
墓室には木棺でも石棺でもなく
漆で麻布を何枚も貼り固めた 「夾紵棺 (きょうちょかん)」 が安置され、棺内には大小500個の青と緑のガラス玉を、8mの銀線で結び目が一つの高度な技術の 「玉枕 (たままくら)」 、60才ほどのきらびやかな錦をまとった身長164、59cmのミイラ化した男性が、あおむけにした状態で南枕に葬られていました。
発見後100日でほどで、遺骸は再び埋葬されたそうです。
※ 夾紵棺は、漆を貼り重ね固めてつくった棺。
当時に撮影されたX線写真などの分析から
男性は亡くなる数ヵ月前に事故(落馬)で骨折していたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)が授けられたのが、「余豊璋」との二人だけであったことから、葬られた人物は 『多武峰略記』の安威山に埋葬したと伝える大織冠・中臣(藤原鎌足)のお墓とする説が有力です。(昭和62年11月3日の朝日新聞にも掲載。)
2009年の11月に、茨木市開催の「鎌足ゆかりの地」の散策に参加した時から行きたいと思っていた「阿為神社」へ行きました。
その時の「阿為神社の蹴鞠」もご覧ください。