kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

高槻市・阿武山古墳は「藤原鎌足のお墓」

2024年11月13日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
2024年10月31日(木)の記事に
1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。

出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。

被葬者が脊椎(せきつい)を骨折し、下半身不随で数カ月間過ごした後に亡くなったとみられることが分かった。被葬者は弓を持つ左肘がスポーツ肘になるなど、弓矢に長じていたとみられ、薬としてヒ素を服用していたことなども分かった。さらに冠の縁は樹皮で、冠の生地の刺しゅうに金糸が使われたと推定できた。

日本書紀によると、鎌足は死の前日に天智天皇から藤原の姓と大織冠を贈られた。大織冠は羅(薄い絹地)で作られ、縁に刺しゅうがされたと伝わる。

今回、牟田口氏は多数の金糸が密集して織られている場所の画像を集中解析し、金糸の構造が綴織の特徴に一致すると結論づけた。生地も同じ綴織の羅であったと推定でき、大織冠とみられるという。


この記事を見て思い出したのが・・・
●2010年11月 高槻しろあと歴史館と市民大学に参加して
考古Gで 「阿武山古墳」 を探訪してきました。


発見して数十年も経ってから昭和58年8月に国の史跡に指定になった 「阿武山古墳」は7世紀後半に築造されたもので、京都大学地震観測所のすぐ北側にありました。

昭和9年の春に京都大学の地震観測施設建設の工事で偶然に発見され、地震観測所長で地球物理学者の「志田 順 (しだ とし)」博士によって墓室内部の調査が行われました。



古墳は墳丘をつくることもなく、高槻市と茨木市の境にある阿武山の中腹・標高約210mの自然の山丘を利用して、幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの周溝の中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルが組み上げられ、内側はしっくいで墓室がありました。そして南側には水抜き用の坑道がひかれていました。



墓室には木棺でも石棺でもなく
漆で麻布を何枚も貼り固めた 「夾紵棺 (きょうちょかん)」 が安置され、棺内には大小500個の青と緑のガラス玉を、8mの銀線で結び目が一つの高度な技術の 「玉枕 (たままくら)」 、60才ほどのきらびやかな錦をまとった身長164、59cmのミイラ化した男性が、あおむけにした状態で南枕に葬られていました。

発見後100日でほどで、遺骸は再び埋葬されたそうです。
※ 夾紵棺は、漆を貼り重ね固めてつくった棺。


当時に撮影されたX線写真などの分析から
男性は亡くなる数ヵ月前に事故(落馬)で骨折していたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)が授けられたのが、「余豊璋」との二人だけであったことから、葬られた人物は 『多武峰略記』の安威山に埋葬したと伝える大織冠・中臣(藤原鎌足)のお墓とする説が有力です。(昭和62年11月3日の朝日新聞にも掲載。)


2009年の11月に、茨木市開催の「鎌足ゆかりの地」の散策に参加した時から行きたいと思っていた「阿為神社」へ行きました。 
その時の「阿為神社の蹴鞠」もご覧ください。
コメント (3)
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高槻市立しろあと歴史館「第51回企画展 平安歌人のおもかげ」

2024年09月07日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
高槻城三の丸跡の一角に建つ「高槻市立しろあと歴史館」で
開催された「平安歌人のおもかげ」に行ってきました。


開催:令和6年7月13日(土曜日)~9月8日(日曜日)

 右 :伊勢寺に隠棲したと伝わる歌人・伊勢姫の肖像
中央上:王朝物語絵貼交屏風
中央下:古曽部焼き 柿本人麻呂像(当館蔵)
左 上:三十六歌仙額(上宮天満宮蔵)
 左 :能因法師像(伊勢寺蔵)



伊勢・能因と歌枕の地

右上:伊勢 能因ゆかりの地を描いた古曽部焼の皿
                 (伊勢寺蔵)
右中:和歌と共に名所を紹介する絵図
右下:在原業平(左) 小野道風(右)の土人形


左上:伊勢のものと伝えられる織物の断片と硯(伊勢寺蔵)
左中:㊧ 人をとく 芥川てふ津の国の
      名にはたがわぬ ものにぞありける(芥川)
   ㊨ 三島江の玉江の薦(こも)を しめしより
      おのがとぞ思ふ いまだ狩らねど
                  (三島江の妙見灯篭)
左下:名高い歌人が集う様子を描いた「六歌仙頭」

同時開催 トピックス展示は
一番下の左:発掘された平安時代の「木沓 (きくつ)」


王朝文化に思いをはせる和歌をはじめとする王朝文化が発展した平安時代、高槻は京都から西国へと向かう交通の要地でした。

都に近い風趣ある地として和歌に詠まれ
伊勢や能因といった歌人が移り住んだと伝えられています。

高槻ゆかりの平安歌人にまつわる品と、古くから和歌に詠まれた名所(歌枕)など、王朝文化をモチーフにした絵画や工芸品を展示されていましたが、残念ながら撮影は禁止でした。
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しろあと歴史館 「龍の郷土人形・能面・凧・龍頭観音・大職冠の物語」

2024年01月15日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
「藤井聡太王将と羽生善治九段 揮毫入り扇子」の続きです。

令和6年の干支は

十二支でいえば「辰(たつ)・龍(りゅう)」の年です。



しろあと歴史館では
年の初めにその年の干支郷土玩具などを展示しています。



今年も、龍をモチーフにした
張り子や土人形などが展示されていました。


能面

上:埼玉県 五関張り子 能面
下:福島県 三春張り子 能面


京都府 伏見人形 「富士腰龍(ふじこしりゅう)」

富士山と龍(辰)は「不時(不幸)を絶つ」との語呂合わせと、天高く昇る勢いのある姿から、吉祥のモチーフとされました。


鹿児島県  薩摩紙塑(さつましそ) 十二支首人形

「紙塑」は和紙を溶かした紙粘土を材料にしたものです。


山梨県  甲斐の福龍「合点の龍王」

甲斐の国造りのために湖を明け渡した龍神の縁起物で
人々の願いをかなえる「合点の龍王」と称されます。


京都府 伏見人形 「龍頭観音(りゅうずかんのん)」

観音菩薩はさまざまな姿で現れ人々を救うとされ、経典には33の姿がつたえられます。 龍に乗る「龍頭観音」もその一つです。


長崎県 龍の婆羅門凧(ばらもんだこ)

武者の兜に鬼がかみつく絵柄のほか
龍も古くから描かれ、男児の初節句などに贈られました。


香川県 「玉取姫(たまとりひめ)」大職冠の物語 

龍王に奪われた宝珠を取り返すため、藤原鎌足は海女に海底の龍宮へと潜ってくれるようたのみます。海女は息子・房前(ふささき)を嫡子とすることを条件に承諾。龍王に追われながらも宝珠は取り返し、切り裂いた胸に隠して持ち帰りますが、命を失います。
 
写真の図版は
「大職冠図屛風」(当館蔵)より、命綱で曳き上げられる海女と、それを追う龍の姿を描いた部分です。


こんな機会でなければ見ることができない
貴重な郷土人形ばかりでした。
令和6年2月4日(日曜日)まで展示されています。
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高槻しろあと歴史館「藤井聡太王将と羽生善治九段 揮毫入り扇子」

2024年01月14日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
昨日の記事に掲載しましたが、つるの剛士さんが高槻小学校に在籍されていたことは知りませんでしたので驚きました。

毎年「えべっさん」の後に行く
2023年の高槻しろあと歴史館が展示していたのは



高槻は将棋のまち「第72期ALSOK杯 王将戦 七番勝負第2局」
令和5年1月21日(土)と22日(日)に
「摂津峡花の里温泉 山水館」で開催の記事でした。

~~~~~~

日本将棋連盟は
大阪市福島区から大阪府大阪府高槻市に移転が決まり
新しい関西将棋会館が2024年秋にオープンします。

そして藤井聡太王将と羽生善治九段が、2023年1月21日から始まる対局場のある高槻市に来られたのは「第72期ALSOK杯 王将戦 七番勝負第2局」が行われる前日でした。


高槻しろあと歴史館  2024年1月11日(木)

しろあと歴史館のエントラスに展示されていたのは



藤井聡太王将さん達の「揮毫(きごう)」です。


藤井聡太竜王と、渡辺明名人  揮毫

右:藤井聡太 竜王 「飛翔」
左:渡辺明  名人 「新慶」


藤井聡太王将と、羽生善治九段  

右:藤井聡太 王将 「飛翔」
左:羽生善治 九段 「玲瓏(れいろう)」



右:藤井聡太王将 「雲外蒼天(うんがいそうてん)」
 雲外蒼天とは、雲のような壁や困難を乗り越えた左記には
 青い大空のようなはれやかな景色や未来がまっている。

左:羽生善治九段 「克己復礼(こっきふくれい)」
 克己復礼とは、過度の自己主張を抑制し礼儀にのっとった
 行動をする。
 孔子が「仁」について弟子に答えた言葉がもとになっています。



藤井聡太さんと、羽生善治さんが1文字ずつ書かれた
「記念の扇子」です。
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高槻しろあと歴史館「高槻小学校創立150周年展」

2024年01月13日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
1月11日は「残りえびす」へ行った後に
毎年行くところがあります・・・そこは野見神社の東側にある



高槻城三の丸跡の一角に建つ「高槻市立しろあと歴史館」です。



エントラスでは
「高槻小学校創立150周年展」が開催されていました。

高槻小学校は、今から150年前1873年(明治6年)3月7日に「第九大区第二小区大一番小学校(だいきゅうだいくだいにしょうくだいいちばんしょうがっこう)」という名前で誕生しました。

最初は校舎がなく、京口町の円成寺で勉強していました。
その後、江戸時代の高槻藩の建物を使って授業していました。



1947年(昭和22年)「高槻小学校」という名前になり
2023年(令和5年)3月7日に150周年を迎えました。



高槻小学校に在籍していた「つるの剛士さん」が
150周年記念事業の一環として、本校を訪れ6年生児童との交流会が行われたそうです。(写真はお借りしました。)
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高槻しろあと歴史館「刀・火縄銃」と「江戸時代の地震予知機」

2023年02月08日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
高槻しろあと歴史館 2023年1月

しろあと歴史館で、刀・火縄銃を見てきました。


●刀 銘  河内守国助(二代)

重さ0.71kg  江戸時代(17世紀) 
当館蔵 (川口コレクション)

河内守国助は数代続きましたが、初代から三代までが名工と評価されています。二代国助は、初代と三代の間という意味で「中河内(なかかわち)」と俗称されています。

この刀は、整った地鉄に華やかな刃文という大坂新刀の一典型です。刃文には、所々に、二代が得意とした「拳丁子(こぶしちょうじ)」がみえます。乱れの様子が、拳の指の並びににていることからこの名が付きました。


●刀 銘  河内守藤原国助(初代)

重さ0.67㎏  江戸時代(17世紀)
当館蔵 (川口コレクション)

新刀期(桃山~江戸時代)の大坂は全国有数の刀剣産地で、その刀工や作品を「大坂新刀」と呼びます。その先駆けが、京都の堀川国弘門下の初代和泉守国貞と初代河内守国助です。共に元和(げんな)年間(615~24)に大阪へ移住しました。

この刀は、互(ぐ)の目乱れに、丁子乱れが交じった刃文に、初代国助の特徴が表れています。


●火縄銃 銘  江州国友左兵衛証寿(さひょうえしょうじゅ)

重さ3.51㎏ 口径1.0㎝ 江戸時代
当館蔵 (川口コレクション)

火縄銃は、近江国坂田郡国友村(滋賀県長浜市)と、摂津国堺(大阪府堺市)が二大生産地でした。また、両地出身の鉄砲鍛冶が諸大名に抱えられ、全国各地で活躍しました。

この銃は国友製です。銃床(銃身を支える木製部分)には真鍮の地板に牡丹と獅子を銀象嵌(ぞうがん)し、銃身には「牡丹露」の文字が銀象嵌されていて、装飾的です。


●澤田平(さわだ たいら)氏の講座から  2011年

江戸時代に、佐久間象山 が考えて作られた「地震予知機」

何度か「しろあと歴史館講座」に参加させて頂きましたが
その時の講師「澤田平氏(2011年当時76歳)です。
数年前にテレビで拝見しましたが、今もお若いので驚きました。

日本に初めて機械時計が伝来した時期と、鉄砲が伝来した時期は同じくします。鉄砲と時計の材料は同じものが使われており、鉄砲を作る人が時計を作られていたそうです。

この時代に地震の2時間前に磁力の変化が分かるようになっているので、地震の予知ができるそうです。
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高槻しろあと歴史館・今年の干支「昔話 兎と狸」と「兎と月の伝説」

2023年02月02日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
高槻しろあと歴史館

しろあと歴史館では、毎年その年の「干支」に関する展示があります。今年は「兎」に関する展示を楽しみにして行ってきました。

●昔話「兎と狸」

 兎は、野山でみかける身近な存在であったためか、民話や童話に多く登場し、その姿が郷土玩具にも表現されています。


 いたずら狸をこらしめる「かちかち山」では、泥舟を狸に勧めて沖に漕ぎ出す場面から、舟に乗る兎の姿が表現されました。


右端


中央


左端

私の時代は、両親から「昔ばなし」を聞かせて貰いましたが、テレビや漫画の世界にいる今の子供たちは知ってるのかな・・・?


●兎と月の伝説

上右:中国では、古来、月には「玉兎(ぎょくと)と呼ばれる兎が棲み、不老長寿の霊薬を作るとされていました。 臼(うす)で薬をつく兎の姿は、日本では餅をつく姿と考えられ、月の陰影の見立てとして「餅つき兎」の意匠が親しまれました。

上左:平安時代後期の武将・坂田金時の幼少期とされる「金太郎」の物語では、熊や猿とともに兎も子分の一員です。まさかりを持つ姿や土俵入りに付き添う姿が見られます。

 また、謡曲「竹生島(ちくぶしま)」では、湖面に映る月の情景を、「月の兎も水面を走るようだ」と表現し、「波兎(なみうさぎ)」の意匠が生まれました。


 月岡芳年・画
月にまつわる日本と中国の物語を題材にした連作

右:「月百姿 玉兎(ぎょくと)孫悟空」 明治22年(1889)
  中国の物語「西遊記」の主人公孫悟空と「玉兎」との戦い
  王女と称して誘惑しようとした「玉兎」が正体を現した場面

左:「月百姿 金時山の月」 明治23年(1890)
  坂田金時の幼少期の伝説「金太郎」が動物たちと過ごす場面

「玉兎が月に棲み、不老長寿の霊薬を作る」物語は
中国ならではの物語ですね・・・。
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江戸時代を当時の眼で見る「錦絵と瓦版」 

2020年04月21日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
高槻市教育会館で「しろあと歴史館 西本幸嗣 学芸員」さんの
『描かれた幕末を読むー錦絵と瓦版ー』を受講したことがあります。(2010-11)

●錦絵と瓦版は、浮世絵で(当世・世間・その時代)を描いた絵画資料
  江戸時代を当時の眼で見る材料です。「一枚物」

錦絵
 もともと肉質画と単色刷り(墨摺絵)、その後丹絵、紅絵、青絵など墨摺りに色を加える刷り物が登場。1800年ごろ(明和・文化)に多色刷りの「錦絵」が生れる。

瓦版
 単色から多色摺りのものまで多種多様。「土瓦を彫ったように粗末な版木で摺られて出版物」という意味から由来するという。1650~1700年頃(寛文・貞享)から登場し、幕末には政治的な事件を取り上げるようになる。
※江戸時代の情報文化の成熟をインパクトな絵と文章で伝える。(講座資料より)

瓦版 「時世のぼり凧 (いか)」

凧揚げが禁止された時に、凧と描いて“いか”と読んでいたそうです。
凧の字の横に“いか”とフリガナを描いてあります。

凧には物の名前が描かれており、高く揚がっているほど物価が高く
慶応2年(1866)には、米・酒・綿・麦・油・武具・金相場の凧が高く揚がってます。

瓦版 「末代記録 二編」

この瓦版は 「ええじゃないか騒動」 で
空から神仏の御札が降ってきた場所と、御札の種類や数などが描かれています。

錦絵 「諸神諸仏富士山江集会」 右は高槻に降った御札です。

高槻では、慶応3年11月の城下に伊勢神宮の御札をはじめ
大黒・エビスの様々な御札が降り、着飾った人びとが踊ったといわれています。

御札は富商・豪農など経済的に豊かな家に降ることが多く、降札のあった家々では
御札を祭るとともに大勢の人々に酒食を提供し騒ぎはさらに輪を広げたそうです。

錦絵 「豊饒御蔭参之図 (ほうねんおかげまいりのず) 」

慶応3年(1867)秋

三枚つづきの画面に、天から降り下るお札とその下で乱舞する民衆の躍動的な姿が描かれています。諸神のお礼や御祓・御幣をはじめ、仏像・掛け軸・小判などが乱れ降るなか、画面手前から右にかけて 「天照皇太神宮」 の幟をかかげて伊勢神宮に集団参宮する旅姿です。

瓦版 「平安大火末代噺」

元治元甲子七月十九日暁かわら町二条下る辺より出火、同四ツ時堺町御門辺より出火、益火はげしくして所々へ飛火又同日に伏見出火、山崎辺出火、嵯峨天竜寺へ飛火・・・「けが人 数多あるよし」や、左の地図には焼けた場所が分かるように描かれていました。

※ 瓦版などは数多く出版されたが、このように残っているのは僅かのようです。
  いま新型コロナウイルスなどの情報は、TV・WEB・新聞などで得ていますが
  幕末の情報は「瓦版と錦絵」で描かれていました。
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「ざるかぶり犬」は竹を被せて‟笑”の文字

2019年06月06日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
追記
下書き保存中のタイトル名でしたので、タイトル名を変更します。m(__)m

安産祈願の「わら天神宮」から思い出したのは「ざるかぶり犬」です。


張子の犬が竹で編んだ笊(ざる)をかぶった、浅草観音仲見世のお人形です。

犬は古くから人々の身近な動物として、時には外敵から身を守ります。
お産が軽い事から安産祈願の戌の日参りなど、生活の中で重宝されてきました。

「ざるかぶり犬」は、ざる=竹、犬の字に竹を被せて「笑」の文字になります。

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江戸時代のおもちゃ「倉入り(くらいり)・猫と鼠(ねずみ)」

2017年07月04日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学

今宮戎神社(大阪市)の十日戎の縁起物として売られていた「倉入り」

張り子でできた俵の中に重りを入れ
割竹の傾斜面を起き上がりながら転がる様子を楽しむ玩具です。


猫と鼠

箱の上に猫が乗っており、蓋を引くと猫が後ずさりしたように見え
箱の中から鼠が顔を出します。蓋を戻して猫が近づくと鼠は隠れる
猫と鼠の追いかけっこを表したからくり玩具です。

● どちらも江戸時代のおもちゃ絵本「江都二色(えどにしき)」
安永2年・1773年にも紹介されています。

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