kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

9月度ハイキング ⑤「 明治天皇 伏見桃山陵 と 230段の階段」

2024年11月26日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
 11月15日、101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さまは、昭和天皇の末弟の三笠宮 崇仁 ( たかひと ) 親王の妃で、上皇さまの叔母様でした。そして、明治以降の皇族で初めて101歳を越える最高齢でした。 ご冥福をお祈りいたします。


模擬天守だった「伏見桃山城」から

第122代 明治天皇 伏見桃山陵 へ向かいます。

明治天皇 伏見桃山陵には
高槻しろあと歴史館のボランティアだった時(2011年)
に行ったことがあり・・・その時のことは今も鮮明に覚えています。



道の右側に並べて置いてある石には
『 伏見城石垣に使用されていたと思われる石材 宮内庁 』
と書かれています。



第122代明治天皇は、明治45年7月30日に61歳(数え年)で崩御され、大正元年9月13日、東京青山(現在の神宮外苑のある場所)において御大葬が行われ、翌14日京都南郊の伏見桃山陵にお鎮まりになられました。

敷地は豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地で、京都に墓所が営まれたのは「明治天皇の遺言」によるものだといわれています。
(宮内庁の管理地)



上円下方式で墳丘に “さざれ石” が葺かれ
東方向に昭憲皇太后の「伏見桃山東陵 (ふしみももやまのひがしのみささぎ)」 があります。

2019年には上皇ご夫妻が
6月11~13日の日程で京都市を訪れ、孝明天皇陵と明治天皇陵にそれぞれ退位の報告をされました。



明治天皇陵正面から宇治方面を見ています。

これは、2011年のことですが
※宇治市を眺めていると、ボランティアの方から・・・
 階段の数について下記の説明をして下さいました。

天皇陵の正面にある階段は、1890年(明治23年)10月30日に、明治天皇の名で発表された「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」の日にちなみ、23段(明治23年)の階段が、10(10月)あって合計230段あります。

お話を聞かなければ、ただ長い階段だけでしたが・・・
教えて頂いて、意味のある230段の階段だと知りました。



前に来た時は、来た道を戻ったので良かったのですが・・・
この階段だけは降りたくないと思ってました。

でも今回はお世話さんが
この階段を降りて行きます・・・と言われたので (^_^;)



私を含めて数人は足が竦む思いで降りてきました。

普段から、駅などの階段は使うようにしていますが
この高さの階段は・・・恐怖です。



藤森神社→桓武天皇陵→伏見桃山城→明治天皇陵
そして、乃木神社もコースに入っていたのですが
時間の都合で・・・? JR桃山駅へ直行でした。



乃木神社を横目にして、JR桃山駅から帰りましたが
前に来た時は、乃木神社から「明治天皇陵」へ行きました。


2011年に行った時の「乃木神社」

明治天皇陵の麓に建つ「乃木神社 (のぎじんじゃ)」

何故、乃木神社が明治天皇陵の麓にあるのでしょう
それは乃木大将などの呼称で呼ばれる乃木 希典(のぎ まれすけ)が、明治天皇による勅命で学習院院長に就任したことや、明治天皇大葬が行われた1912年(大正元年)9月13日の午後8時ころ、妻・静子とともに自刃して亡くなっていたことなどがありました。

明治天皇陵へ行かれたら「乃木神社」はお勧めです。
長くなりましたが、9月度ハイキングはこれで終わります。
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9月度ハイキング ④模擬天守だった「伏見桃山城」

2024年11月24日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
「桓武天皇 柏原陵」から


秀吉が築き、家康が再建した名城「伏見桃山城」へ
向かいますが・・・



ここは「伏見桃山城運動公園」です。



左に見える「伏見桃山城御入口」があり



みんなの後について入って行きます。



「大手門・・・」が見えてきました。



大手門の前で、参加者16名で記念撮影したあと
伏見桃山城へ・・・



大手門は、1964年(昭和39年)伏見城「花畑曲輪」の跡で
「伏見桃山城キャスルランド」遊園地の入場門でした。



遊園地は、模擬天守の他にジェットコースターやプールなどがあり、賑わっていたそうですが2003年に閉園しました。



江戸幕府を支えた
尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の初代は
家康の子で、三人とも伏見生まれでした。


天守閣の石垣の下に樹霊碑


永遠とおもえる
ながき時のなか
樫立てり黄なる
あやくもの果て   引野收(ひきのおさむ)

引野収「樹霊碑」保存会の説明書によると
引野收氏は、伏見桃山城の北西桃山町正宗坂で40年間にわたり絶対安静の寝たきり生活を送りながら歌人である妻の濱田陽子とともにいのちや平和の尊さを歌い続けたそうです。

今、NHK放送の「坂の上の雲」で登場している正岡子規も、病床にありながら歌を詠み続けたので、引野收は「昭和の子規」と称えられたそうです。



この場所で、持参したお弁当を食べました。

ハイキングに参加するまでは
このような場所で食べることが無かったので
今でも、食べながら違和感が・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 伏見城は3度にわたって築城されました。
●指月山(しげつやま)伏見城
豊臣秀吉によって1592年に伏見の指月山に建設されたお城。
1596年の「慶長伏見大地震」で倒壊しました。

●木幡山(こはたやま)伏見城
1597(慶長2)年に近隣の「木幡山」に再建されたお城。
秀吉の死後、家康の部下、鳥居元忠が城将となったが
「関ケ原の戦い」の前哨戦で落城。

●伏見桃山城
1602(慶長7)年頃に徳川家康により再建されたが
1619年(元和5)年に廃城。この時、建物や部材は
二条城、淀城、福山城などに移築されました。

跡地に、桃の木が植えられて「桃山」と呼ばれ
「桃山城」「伏見桃山城」と呼ばれています。


慶長5年(1600)家康の家臣である鳥居元忠と約300名の武士が、伏見城で切腹した血糊の床板を養源院(京都市東山区)の天井に使われています。

関ヶ原の戦い後、血糊の床板を見た家康が鳥居元忠らの忠義に供養するため、徳川家にゆかりある寺院で血糊の床板を誰にも踏まれることのないようにするため天井板にしたのでした。


豊臣秀吉が築いたお城として有名な伏見城は、明治天皇桃山陵などがあるエリアで遺構調査ができないため、当時の姿には出来ない模擬天守ですが、行くことが出来て良かったです。

長くなりましたが、明治天皇陵へ続きます。
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9月度ハイキング ③794年に京都へ都を遷した「桓武天皇 柏原陵」

2024年11月17日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座

「勝運と馬の神様 藤森神社」を出て



「桓武天皇 柏原陵(かんむてんのう かしわばらのみささぎ)」へ向かっています。



左の道は「桓武天皇 柏原陵」へ
右の道は「伏見桃山城」にいきます・・・



「明治天皇 伏見桃山陵」「乃木神社」へは
2011年11月に行ったことはありますが
「桓武天皇 柏原陵」は初めです。



第50代「桓武天皇」(かんむてんのう)は



794年に平安京遷都を行った天皇です。



「鳴くよ(794)ウグイス平安京」という語呂合わせは



知らない人はいないと思いますが・・・



桓武天皇はなぜ平安京遷都したのでしょう?

それは第45代「聖武天皇(しょうむてんのう)」以降、仏教政策が中心となっていた奈良の都から、京都を開拓して新たな都を造営したのでした。


●向日市ホームページに
桓武天皇は、延暦3年(西暦784年)に平城京から乙訓郡(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部)に都を遷しました。それが長岡京で、東西4.3キロ、南北5.3キロで平城京よりも大きく、ほぼ平安京に匹敵する規模の都でした。

長岡京は京都盆地の南西部にあたる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、水陸交通の至便な地でした。

長岡京は、延暦13年(西暦794年)から
平安京に遷都されるまでの10年間は都だったそうです。
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9月度ハイキング・京都市伏見区②「藤森神社 」

2024年11月16日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
宝仏殿から拝殿に向かいます。

宝仏殿前の「力石(かへし石)」

昔、所司代の巡検の際に社の神人がこの石を拝殿より鳥居まで返しながらころがす行事があり、祭日には集まった人達が力試しをしたそうです。
写真はお借りしました。


拝殿

本殿と同時に御所より賜った「割拝殿」


本殿 

本殿は正徳2年、中御門天皇より賜ったものです。

平安期以前、神功皇后が軍旗を樹て兵具を納め塚を造り神まつりしたのが始まりで、桓武天皇も平安京遷都に際し弓兵政所だった所でした。


不二の水

本殿の右に見えたのは
伏見名水で「二つとない水」から名付けられたとか・・・

伏見には名水(地下水)が多く、江戸時代には「伏水」と書いて「ふしみ」と読まれていたころもあったそうです。水を汲みに来られていた女性から「ここのお水は美味しいですよ。」と声をかけて頂きました。


七福神

元禄時代に藤森祭に参加していた七福神行列を
神社創建千八百年祭に際し、復活の記念として奉納。


八幡宮社  重要文化財

本殿の北側の摂社で「応神天皇」を祭神。


神鎧像(かむよろいぞう)



神鎧像は、節句の五月人形の発祥となったそうです。


大将軍社  重要文化財

磐長姫命(イワナガヒメ)を祭神

桓武天皇平安遷都の時に王城守護のためとし
京都の四方に祀られたうちの南面の守護神です。
磐長姫は「岩のような永遠性」を象徴。



本殿西側を通って戻ります。


金太郎像

菖蒲の節句発祥の地を記念して奉納されました。


桓武天皇 柏原陵


藤森神社を出て「鳴くよウグイス平安京」で知られる
「桓武天皇 柏原陵」へと続きます。
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9月度ハイキング・京都市伏見区「勝運と馬の神様 藤森神社」

2024年11月15日 | 健康ハイキング・歴史クラブ・教養講座
7月度ハイキングは「比叡山延暦寺を散策して」でしたが、雨模様だったので私は参加しませんでした。でも出発時の心配した雨に遭うことも無く、いつもの半人数で行かれたそうです。

9月度ハイキング 9月26日(木)

JR京都駅から、奈良線でJR藤森駅へ向かいました。


JR藤森駅から西に向かって少し歩くと
藤森(ふじのもり)神社」の南門です。


南門を入った正面に見えるのは「拝殿」で
拝殿前に向かうこの道は「境内参道馬場」です。

明治より藤森神社の氏子に引継がれ、毎年5月5日の藤森祭(深草祭)に駈馬神事が行われ、昭和の初期までは街道で行っていましたが、交通事情等で今は境内参道馬場で行われているそうです。


右の方に「藤森神社宝物殿」が見えています。



宝物殿では、南北朝時代のもので、高貴な武将が用いた黒漆塗地盛上本小札を紫絲で威し、金具廻り、皮所は、紅地宝尽緞子包とし、八双金物は鍍銀地板付き鍍金透入菊座笠鋲の格調高い鎧が展示されているそうです。


藤森神社は平安遷都以前、神功皇后摂政3(203)年
この地に塚をつくり兵具を納め祀ったのが起こりと言われ


大鎧や刀、大筒など
戦いに因んだ社宝100点余りが展示されています。
        

その中には、重要文化財の
「紫絲威大鎧(ムラサキイトオドシオオヨロイ)」も
展示されているのですが、ここからは撮影禁止です。


馬の博物館には、日本各地の馬の郷土玩具や
世界各国の馬のミニチュア等が展示されています。


出口近くに、撮影可能になっている所があり
鶴丸グッズと国永キャストドールが展示されています。


鶴丸国永とは何だろうと思っていると
『刀剣乱舞ONLINE』に登場するキャラクターでした。

長くなりますが、宝仏殿を出て拝殿へ向かいます。
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TAKATSUKIランタン祭り「やっぱ好っきゃねん高槻~」

2024年11月14日 | 大阪


安満遺跡公園にて、高槻市で初めての
「TAKATSUKIランタン祭り~やっぱ好っきゃねん高槻~」が
高槻商工会議所 青年部主催で開催されました。


ボーネルンド Park Center 前です。

公園のインフォメーションやさまざまな
体験・活動ができる公園の中心的な施設です。



パークセンター前面の広場では
こんなに沢山の子供たちが楽しんでいました。



はにたんの可愛いイラスト入り!オリジナルLEDランタン
料金:1基3,000円 お一人につき1基(先着450基)



芝生で寛ぐ先には
高槻でお馴染みの飲食店などが並んでいます。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「神戸七夕スカイランタン祭り2019」


夜空に舞い上がったランタンが
星のように輝いていたのが思い出されます。



初めてのランタン祭は
息子の家族と一緒に行った、2019年7月7日(日)でした。
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高槻市・阿武山古墳は「藤原鎌足のお墓」

2024年11月13日 | 高槻しろあと歴史館と市民大学
2024年10月31日(木)の記事に
1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。

出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。

被葬者が脊椎(せきつい)を骨折し、下半身不随で数カ月間過ごした後に亡くなったとみられることが分かった。被葬者は弓を持つ左肘がスポーツ肘になるなど、弓矢に長じていたとみられ、薬としてヒ素を服用していたことなども分かった。さらに冠の縁は樹皮で、冠の生地の刺しゅうに金糸が使われたと推定できた。

日本書紀によると、鎌足は死の前日に天智天皇から藤原の姓と大織冠を贈られた。大織冠は羅(薄い絹地)で作られ、縁に刺しゅうがされたと伝わる。

今回、牟田口氏は多数の金糸が密集して織られている場所の画像を集中解析し、金糸の構造が綴織の特徴に一致すると結論づけた。生地も同じ綴織の羅であったと推定でき、大織冠とみられるという。


この記事を見て思い出したのが・・・
●2010年11月 高槻しろあと歴史館と市民大学に参加して
考古Gで 「阿武山古墳」 を探訪してきました。


発見して数十年も経ってから昭和58年8月に国の史跡に指定になった 「阿武山古墳」は7世紀後半に築造されたもので、京都大学地震観測所のすぐ北側にありました。

昭和9年の春に京都大学の地震観測施設建設の工事で偶然に発見され、地震観測所長で地球物理学者の「志田 順 (しだ とし)」博士によって墓室内部の調査が行われました。



古墳は墳丘をつくることもなく、高槻市と茨木市の境にある阿武山の中腹・標高約210mの自然の山丘を利用して、幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの周溝の中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルが組み上げられ、内側はしっくいで墓室がありました。そして南側には水抜き用の坑道がひかれていました。



墓室には木棺でも石棺でもなく
漆で麻布を何枚も貼り固めた 「夾紵棺 (きょうちょかん)」 が安置され、棺内には大小500個の青と緑のガラス玉を、8mの銀線で結び目が一つの高度な技術の 「玉枕 (たままくら)」 、60才ほどのきらびやかな錦をまとった身長164、59cmのミイラ化した男性が、あおむけにした状態で南枕に葬られていました。

発見後100日でほどで、遺骸は再び埋葬されたそうです。
※ 夾紵棺は、漆を貼り重ね固めてつくった棺。


当時に撮影されたX線写真などの分析から
男性は亡くなる数ヵ月前に事故(落馬)で骨折していたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)が授けられたのが、「余豊璋」との二人だけであったことから、葬られた人物は 『多武峰略記』の安威山に埋葬したと伝える大織冠・中臣(藤原鎌足)のお墓とする説が有力です。(昭和62年11月3日の朝日新聞にも掲載。)


2009年の11月に、茨木市開催の「鎌足ゆかりの地」の散策に参加した時から行きたいと思っていた「阿為神社」へ行きました。 
その時の「阿為神社の蹴鞠」もご覧ください。
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大動脈解離で「突然死」

2024年11月12日 | 思い出・覚え書
9月末に
従兄弟の長男(従甥=じゅうせい)40代が
「大動脈解離」で亡くなったと電話がありました。
突然死だったそうです。

ご仏壇に向かい、まだ信じられませんでしたが
母に、可愛がっていた従甥が亡くなった事を報告して
息子と一緒に、お通夜からお葬式に参列してきました。

私も、赤ちゃんの時から知っている可愛い子でした。
「何故、親や私たちより先に逝くの・・・」

亡くなった従甥には
奥さんと、可愛い子供が4人おります。
長女は医学生、長男は甲子園を目指す野球少年。
下の2人は、小学生の可愛い女の子です。

お通夜とお葬式が終わり
久しぶりに会った従兄弟は、一人っ子の私にとって姉弟のような存在でした。そして子供の時に2人だけの思い出が幾つもあり、話をしていて懐かしくなりました。

11月9日(土)が四十九日でした。
母が亡くなった時に、月命日に数年間お花が届きました。
届けてくれたのは、亡くなった従甥の母親からでした。
あの時に嬉しかったことが忘れられなくて・・・


私も、日比谷花壇さんからお供えのお花を送りました。
(送ったお供えのお花です。写真はお借りしました。)

私が撮っていた、従甥1歳のお誕生日の可愛い写真を
従弟と、亡くなった従甥の奥さんに手渡ししました。
涙顔でとても喜んでくれました。

10月には、叔父と叔母のお墓参りをして
お孫さんが亡くなった事を報告してきました。

従弟夫婦には
お元気で、従甥が残した大切な家族を見守って欲しいです。
若い人の死は、突然で本当に辛いです。
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