kikoがスタート

2005年8月にスタートしました。
私が観た(見た)、感じた、覚書き、気になることを書いてます。(^^ゞ

京都・修学院離宮参観③「上御茶屋(かみのおちゃや)」2017年 完

2021年07月10日 | 京都・修学院離宮 参観
早朝に、鹿児島県薩摩地方、宮崎県、熊本県の一部で
警戒レベル5にあたる大雨特別警報が発表されていました。

雨雲レーダーでみる真っ赤な雨雲、もう昔の梅雨では無いですね。
鹿児島県に線状降水帯の情報が発表されるのは、今日2回目でした。
被害がこれ以上にならないように祈ります。


京都・修学院離宮 参観②「下御茶屋→中御茶屋」のつづき・・・
上御茶屋へ向かう道  2017年4月30日 日曜日

上御茶屋へ向かうには、下御茶屋東門を出たところに戻り
東方向(正面)の松並木の連絡路を進みます。


連絡路から見える、横一直線に延びる三段の高生垣と大かりこみは
丘陵をつないでいるように見えます。

上御茶屋表門

上御茶屋表門(御成門 ごせいもん)の手前に電気さくがあります。
田畑の農作物を守るための電気さくでしょうか?

上御茶屋表門

下御茶屋の御幸門とよく似た簡素なつくりの門ですが
欄間には大きい花菱模様の透かし彫りが施されています。


表門から隣雲亭に向かう石段からの眺望です。

正面近景には山端(やまはな)・松ヶ崎・宝ヶ池・深泥池が、右手に岩倉から鞍馬・貴船の山々が北山につづき、左手には京都市街を一望して、遠く愛宕山から西山の峰々が見渡せます。

隣雲亭(りんうんてい)

海抜149メートルあまりの高所に建っています。

赤と黒の小さい鴨川石「一二三石 (ひふみいし)」

隣雲亭の西側と南側には深い土廂(どびさし)をめぐらし、土廂の下は葛石(かずらいし)で縁取りをした叩きの土間に埋め込められています。

六畳の「一の間」

隣雲亭の亭内は北側から四畳ほどの洗詩台(せんしだい)と呼ばれる板間、六畳の一の間、三畳の二の間で構成され、壁が、床、棚もなく、外回りも間仕切りすべて明障子(あかりしょうじ)を建て込んだだけの景観眺望のための亭です。

万松塢(ばんしょうう)

千歳橋と呼ばれる石橋が、窮邃亭(きゅうすいてい)のある
中島万松塢をつないで架けられています。

千歳橋

切り石を組んだ橋脚二基に一枚いしを渡し、二つの橋脚に宝形造りと寄棟造りの四阿風(あずまやふう)なものを建ててこれをつないでいます。
中国的な感じです。

宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものです。

楓橋



楓橋を渡って中島にある窮邃亭(きゅうすいてい) へ

窮邃亭の上段の間

後水尾上皇の宸筆「窮邃」は、それぞれの文字を八角形で囲み、まん中を水引結んだ対称な意匠の扁額です。その下には、四角いくつぬぎ石が据えられています。


窮邃亭の内部は十八畳の一間で、床も飾り棚も簡素なつくりですが、西から北に鉤(かぎ)の手に曲がった台目畳六畳の上段がしつらえています。

浴龍池北岸の舟着

現在つながれている舟は小舟ですが
かつては屋形船等が使われていたようです。


舟着から千歳橋を見る。


西浜から、窮邃亭より渡った橋が見えます。


西浜苑路から見える西側の眼下。


西浜の苑路より隣雲亭を望む。

雌滝

雌滝が見える池の南岸東隅は
表門近くの苑池にあり修学院離宮参観の終点でもありました。

浴龍池(よくりゅうち)

島の形を泳ぐ龍の姿に見立てたものといわれ
池を巡って苑路があります。

下御茶屋東門

下御茶屋東門へ戻ってきました。

下御茶屋東門は、中御茶屋と上御茶屋に通ずる門です。
上御茶屋を出てから北側の道を通り、御幸門まで戻りました。

修学院離宮は、谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園でした。
上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となり、中御茶屋は同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入されました。

修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられ、宮内庁が管理となりました。
京都・桂離宮、仙洞御所、修学院離宮参観は、これで終わります。

事前に宮内庁京都事務所に申し込んで参観してきました。
宮内庁のホームページは こちらでご覧ください。
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京都・修学院離宮参観 ②「中御茶屋(なかのおちゃや)」2017年4月

2021年07月09日 | 京都・修学院離宮 参観
東京都の緊急事態宣言再発令と、3県のまん延防止等重点措置の延長決定で、東京五輪の首都圏会場、東京、神奈川、千葉、埼玉の、1都3県が全て無観客になることが決まりました。

2021年7月8日 新型コロナウイルス新規感染者は
東京896人、神奈川県322人、千葉県200人、埼玉県155人、大阪府125人。


京都・修学院離宮 参観①「下御茶屋(しものおちゃや)」のつづき・・・
中御茶屋(なかのおちゃや)

下御茶屋裏門の「下御茶屋東門」


下御茶屋東門を出ると視界が180度開いています。

比叡山を中心にして左手に北山、右手に東山の山々が連なり、正面にはなだらかな御茶屋山です。御茶屋山の斜面に向かって延びる松並木は上御茶屋につづく連絡路で、手前右方向に分岐する松並木は中御茶屋への連絡路です。


中御茶屋に向かって延びる連絡路の左右に田畑が広がっています。
※ 上・中・下の各離宮の間に8万㎡に及ぶ農地です。

中御茶屋表門

表門の右端から入っていきます。


階段を上がっていくと・・・

中御茶屋の中門



中御茶屋表門は通らず右横から入ります。


楽只軒が見えてきました。

楽只軒(らくしけん)

左の建物が楽只軒で、右の建物が客殿です。

前庭にある小さな苑池は創建当初よりあったことが古図により知られており、客殿前からの遣水(やりみず)が小さい滝となって落ち込んでいます。


楽只軒はみなみがわの庭に面して廂の深い広縁を設け
雨や強い日差しを避けるように工夫されています。


楽只軒の二の間は八畳の座敷で、西側の壁に狩野深い信が描いた金地に、龍田川の紅葉の絵が貼付されていることから龍田の間とも呼ばれています。


池のくびれたところに架けられた石肌が野面の石橋です。


客殿杉戸・山鉾

客殿一の間

一の間は十二畳半で、北側に一間の床の間と一間半の飾り棚があります。床の間の貼付には雲形に金の砂子を散らし和歌とそれに因んだ絵の色紙をつらね、腰貼に金と群青の菱形つなぎ模様をあしらっています。


客殿一の間の杉戸に金色の網で覆われた親子の鯉
二の間には大鯉が一匹描かれています。

言い伝えによると
鯉が夜毎に杉戸を抜け出て池で遊ぶので金色の網を伏せたそうです。

修学院離宮参観③「上御茶屋(かみのおちゃや)」へ続きます。
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京都・修学院離宮 参観①「下御茶屋(しものおちゃや)」2017年4月

2021年07月08日 | 京都・修学院離宮 参観
7月7日、エンゼルスの大谷翔平投手が32号ソロを放ちメジャーでの
日本人シーズン最多本塁打記録を更新しました。(^^♪

大雨警報が継続中で、孫の小学校が臨時休校になりました。
でも、予定にあった三者面談は行われるそうです。


内庁が管理されている、京都の「京都御所、京都迎賓館、桂離宮、仙洞御所」へは行きましたが「修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)」には行ってなかったので行ってきました。(2017年4月30日 日曜日)

修学院離宮

修学院離宮は、17世紀中頃に後水尾上皇(ごみずのおてんのう)によって造営された離宮です。

上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼ばれる3ヶ所の離宮があります。

表総門

桂離宮でも外国から来られたグループらしい参観者の姿を見ましたが
修学院離宮でも、フランスから来られたご夫婦の姿がありました。


修学院離宮は、京都市左京区修学院の比叡山麓にあります。

下御茶屋御幸門

修学院離宮 参観は、下御茶屋→中御茶屋→上御茶屋へと進みます。

下御茶屋 中門(ちゅうもん)

御幸門を入ると正面に高い石垣があり
右手奥の中門をくぐって寿月館へ・・・

寿月館 一の間

一の間に掛けられた「寿月館」の扁額は、後水尾上皇の宸筆です。

寿月館には、一の間・二の間・三の間があり
●一の間は
 十五畳で三畳の上段が設け、一間半の床と琵琶床と飾り棚。

●二の間は
 十二畳で東側の庭に面する南半分。
 奥に一の間の床裏に当たるところに
 四畳半の空間に高窓を明かり取りした配慮がある。

●三の間は
 六畳敷きの茶室で女院の御座の間であったと言われ
 化粧棚や水屋があり西側に開かれた肘掛け窓からは
 苑池が見渡せるそうです。


一の間の四枚の襖は、岸駒が描いた「虎渓三笑(こけいさんしょう)」
※ 岸駒(がんく)は、江戸時代中期から後期の絵師。

白糸の滝

寿月館の東にある小さな滝は上御茶屋から引かれたものです。

後世に付け加えられたもので、滝の落口に据えられた三角形の石を富士山に見立て、水の細く分かれて落ちる様子が白糸を引いたように見えることから「白糸の滝」と呼ばれています。

「修学院」の名称は、10世紀後半ここに修学院というお寺が建立されたのが始まりで、南北朝時代以後このお寺は廃絶したが地名は修学院村として残ったそうです。

京都の近くにいても、この時まで行く機会がなかった修学院離宮です。
修学院離宮参観 「中御茶屋(なかのおちゃや)」へ続きます。
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