喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

佐田岬という呼び名の由来

2021-12-02 | 歴史・伝統・文化

 八幡浜市から豊後水道に突き出た約四〇㎞の、日本一細長いといわれる半島の名前は、当然「佐田岬半島」である。この名称は現在では定着しているが、昭和四〇年代までは、正式名称を「佐田岬半島」とするか「三崎半島」とするかで、役所や研究者の間で様々な議論があった。当時、愛媛県庁では企画部がこの半島の総合開発計画を立案していたが、計画書に出てくる半島名は「三崎半島」だった。県では、戦前から慣習として「三崎半島」を使用していたそうである。地元では「佐田岬半島」を用いることが多かったようだが、昭和四〇年の三崎町の町勢要覧をみると両方が記されており、その用法が混乱していたことがわかる。国土地理院作成の地図には「佐田岬半島」とあり、結局はこれに統一されていったという経緯があるbr>  さて、「佐田岬半島」は、全国で唯一、岬の名前をつけた半島名として珍しいものである。岬と半島は同様の意味なので、それを重ねることは稀なのだろう。それだけでなく、「佐田(サダ)」についても語源を調べてみると、佐田浦(現三崎町)から来ているものだが、柳田国男『石神問答』によると、もともとは岬を意味する言葉であると紹介されている(註1)。全国の岬の名称を見ても、鹿児島県佐多町に佐多岬という類似した名の岬があり、また、高知県の足摺岬についても、平安時代末期の史料に「蹉●御崎」とあり(註2)、古くは「サダミサキ」と呼ばれていたことがわかっている。
 つまり、「佐田岬半島」の「佐田」も「岬」も「半島」も、もともとは細長く海に突き出た地形をあらわす同じ意味の言葉であり、それが三重に重なっているのである。歴史と共に言葉が変わり、同じ意味の言葉が重なっていく。「佐田岬半島」の名称は、地名の変遷を重層的に体現していて面白い。
 なお、佐田岬に関しては、宝暦十三(一七六三)年に細田周英が描いた四国遍路の絵図である「四国 礼絵図」に「佐田ノ岬」とあり、江戸時代は「サダノミサキ」と呼ばれていたO崎町三崎の明治四〇年代生まれの老人に聞くと、戦前には「サダノミサキ」という呼称も残っていたらしい。
 「サダミサキハントウ」という呼び方は案外新しいものなのである。

註1 『定本柳田国男集』十二巻 筑摩書房刊
註2 『平安遺文』古文書編第七 三一八四

1999年10月21日掲載

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みんま

2021-12-02 | 歴史・伝統・文化

ミンマ(巳午)の行事

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌

 「ミンマ(巳午)」とは、「仏さんの正月」とも言われ、十二月の巳の日に、その年に亡くなった人のための正月を祝う行事である。意外と知られていないが、この行事は、四国以外では見ることのできない全国的に珍しいものである。四国内でも全域で行われているのではなく、愛媛県内では全市町村で行われるものの、香川では愛媛県寄りの西讃地域、徳島県、高知県でも愛媛寄りの四国山地や幡多郡にて行われているといった分布域がある(分布図参照)。名称については地域差があり、中・南予では「ミンマ」、東予では「タツミ」と呼んでいる。これらは、行事が行われるのが巳と午、辰と巳の日であることに起因するものである。また、越智郡では「ミショウガツ」といい、この行事が巳の日を中心に行われていることが理解できる。また、上浮穴郡や周桑郡では「カンニチ」ともいい、これは陰陽道でいう凶日である「坎日」からきているものである。十二月巳の日は坎日とされており、ミンマが陰陽道の知識から発生したと推測できるのである。
 ミンマの行事内容は、地区や家々によって異なるが、八幡浜地方の一般的な内容は次の通りである。①本来は十二月に行われるが、八幡浜地方では十二月が忙しいからといって、十一月に行うことが多い。②自宅に簡単な祭壇を設け、位牌を祀り、餅、注連飾り、菓子、果物などを供える。③家族、親族が墓参し、墓前に柿の木枝を二本立て、注連縄をはり、一升餅、みかんや干柿などを供える。注連縄は左ないのものを使う。④墓前にて、死者の身の近い者が餅を後手に持ち、鎌で切って、墓参者に配って食べる、⑤その餅を食べると病気をしないという俗信がある、といった内容である。なお、双岩では、仏さんが女性の場合は巳の日に、男性の場合は午の日にミンマを行うとされ、これは四国内でも確認できない珍しい事例である。
 ミンマは、仏さんの正月を祝うとされるものの、実際の正月とは異なる点が多い。門松ではなく、柿の木枝を用いること、注連縄は逆のない方であること、餅は塩あんの餅であること、餅は順手ではなく、肩越しに渡さなければいけないなど奇妙な作法があること等である。これは、正月の類似儀礼ではあるものの、あえて逆のことをして、死者のための儀礼であることをあらわしているのであろう。そして、ミンマを祝うことで死者のケガレと決別し、忌明けとするのである。この行事は家族、親族がその年の不幸を断ち切り、新たなる年を迎えるための知恵から生まれたものと言えるだろう。
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農業と宝について考える

2021-12-02 | 歴史・伝統・文化

正月に「宝」について考える

2007年01月01日 | 八幡浜民俗誌
 「宝」といえば人々にとって貴重な品物のことであるが、丁寧に「お」を付けて「お宝」と言ってしまえば、品物を金銭に換算してしまう印象を抱く。「お」を付けると、逆に「宝」の持つ高貴さのイメージが損なわれるような感じがするのは私だけだろうか。テレビ番組の「なんでも鑑定団」でも、歴史的資料の価値を金銭で換算して、一喜一憂しているが、「家宝」だと思って代々大事にしていた品物が、低価格で判断されて出品者が落胆するシーンは、視聴する分には面白い。しかし「宝」は金銭的価値だけで判断されるものではない。
 「タカラ」の語源を考えてみると、『大言海』という辞書によれば、タカは高貴の意味で、ラは接尾語という説を紹介し、また、江戸時代の辞書である『和訓栞』では、田力(タチカラ)つまり米の生産の意であることが説明されている。また、高崎正秀著『古典と民俗』によると、手に取り持った神がかりの依代の意で、タクラ(手座)の意味という説もある。これらは、「宝」が「高貴」・「田(米)」・「神」というキーワードで説明されている。必ずしも「お金」や「貨幣」には直接結びつくことはない。
 「宝」に関する有名な万葉集の和歌がある。山上憶良が詠んだものであるが、「銀(しろがね)も金(こがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも」、つまり、金銀も玉も、どうして子どもというすぐれた宝に及ぼうかという意味である。「子宝」という言葉もあるが、この「子宝」を金銭的価値で判断されてはたまったものではない。子どもは「宝」ではあっても、決して金銭的価値で判断される「お宝」ではないはずである。金銭では測ることのできない「宝」の価値を考えることは、子どものみならず人間の尊厳をも顧みるヒントになるのではないだろうか。
 さて、正月で宝といえば「宝船」を思い起こす。「宝船」は、宝物や米俵、七福神を船に乗せた一枚絵で、正月にこれを枕の下に敷いて寝ると吉夢を見ることができるという。この慣習は中世には既にあったとされ、江戸時代には、年末にこの宝船売りが町を売り歩いて、一般化したものである。様々な宝船の図像を見ても大判・小判(お金)がザックザック乗っているものは少なく、圧倒的に米俵が描かれている事例が多い。
 そもそも、大判・小判も米俵を模した形をしているように、日本では、お金は米をシンボル化したものであり、しかも、その米は、一年の稲作労働から生まれてきた生産物であり、言ってみれば「生産力の象徴」であった。
 これが、いつの頃からだろうか。お金のイメージから「生産力」の意味合いが薄れ、お金が「消費」を第一義としたものになってきている。これは高度経済成長期の出来事であろうか。いや、あえて時代を設定するならば、一九八〇年代ではないだろうか。高度経済成長期を生きてきた世代は、それ以前の自給自足とはいかないまでも、「生産」を基調とした日常生活(第一次産業中心の社会)を経験している。しかし高度経済成長期以降に生まれた世代は、日常生活の基調が「生産」ではなく「消費」へと変化した社会を生まれながらに過ごしてきた。この経験の有無による転換期こそが一九八〇年代であり、現在の高度消費社会、つまり日常生活では「生産」の感覚が薄れ、お金があれば何でもできると考えてしまうような「消費」第一の社会につながっているといえるのではないか。
 最後に、とても「宝」とは思えない「お金」・「貨幣」についての思考を述べておきたい。お金は触ると汚いもの、触ると後で手を洗いたくなるという感覚は多くの人が持っている。この点は『お金の不思議―貨幣の歴史学―』(山川出版社)によると、貨幣にはケガレが宿るといい、神社でお賽銭を投げる行為も、よくよく考えるとお金を投げつける行為は神様に失礼にあたるが、なぜかそれが許されてしまう。これは、実はお金・貨幣に自分の災禍・罪穢を移し託して、お賽銭として神社に投げ入れることで祈願行為となるというのである。江戸時代の国学者本居宣長も『古事記伝』の中で「お金を払う」の「払う」と神社での「御祓い」の「祓う」は同じ意味だとし、「今俗に、物を買たる直(アタヒ)を出すを、払ふとも払をするとも云は、祓除の意にあたれり、又これを済(スマ)すと云も、令清(スマス)の意にて、祓の義に通へり」と述べ、「決済」の「済」と「清」も、ハラった後に、スム(清らかな)状態を指すという。お金のない状態が清らかとは、おかしな気もするが、貨幣を手放すことで、災禍・罪穢が清まるのであれば、それにも一理ありそうだ。
 人、物、そして心も含めて、世の中のすべてのものを金銭的価値のみで判断していくことは、実は我々が自らが「宝」の持つ価値を放棄することにつながり、結局のところ、お金という単純な価値基準(拠り所)しか持てない脆い構造の社会になってしまうのではないかと、正月早々、要らない心配をしている。

(南海日日新聞2007年1月1日掲載原稿)
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春を迎えるお伊勢踊り ~二名津編~

2021-02-07 | 歴史・伝統・文化

 2月3日立春を過ぎ、暖かい日が続いている。
そして雨が多くなっている。

 地域では、それにちなんだ催しがされる。
その一つが、二名津のお伊勢踊り。
 写真は、10数年前のものだろう。

 

 毎年2月11日に二名津の氏神である二名神社の春祭りです。
集会所や新築の家、除厄を願う家で行われます。
 扮装・構成は、金地の烏帽子に約1メートルの御幣(ボンデン)を持つ口上人1人に、
黒地に日月模様の立烏帽子をかぶり扇子を持つ舞人1人、
平服に青の法被を着た歌い手多数、大太鼓、小太鼓各1人の囃子方となっています。

 歌詞には「見さいな見さいな 嬉しき舞は見さいな」、
「嬉しきものと囃され 当年の年貢をすっきりちゃんと払うて御蔵へとんと納めたは何よりもって嬉しきな」、
「あらおもしろの神踊り」、
「参り下向のめでたさや」、
「お伊勢踊りのめでたさや」などがあります。

 天明元(1781)年(約230年前)、地区に大火があり「火鎮め」のために踊りが始まったと伝えられています。 

※1月15日には、三崎地区でもおこなわれます。 『出典 KITONARU』

「伊勢踊り」は慶長19(1614)年に伊勢地方で流行した風流踊が全国に広がったとものといわれる。
伊予国には寛永年間に土佐国(高知県)から宇和郡に伝わり、宇和島初代藩主伊達秀宗が保護し、
各地に伊勢神を祀る神明社が建立された。
このため、伊勢踊りは愛媛県内でも旧宇和島領内に多く伝わっている。
 伊勢踊りには除災の力があるとされ、各地の神社で病人祈祷や厄払いの際に奉納されていた。
現在でも伊方町二名津では春祭に厄年の者の厄除けのために伊勢踊りが演じられる。
 奉納目的は様々となっているが、江戸時代初期〜中期にまで遡る歴史のある民俗芸能といえる。
                  『参照 文化遺産オンライン』

 

 ふるさと佐田岬では、春の足音が着実に大きくなっている。

              岬人(はなんちゅう)

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令和3年 ふるさと平礒の正月

2021-01-24 | 歴史・伝統・文化

 今では、随分と簡素化されてきた年末年始の正月に関すること。

伝統や文化を大切にする父の考えで、我が家ではそういうわけにはいかない。

したがってかなりの手間がかかる。

 

 最近父は、孫娘に頼ったり、引き継いでいくことも多い。

それを自分の役目のように担っている娘。

 

 

 〈神々へのお供え〉

 【年神様】 

 

 【屋敷の神様】

 

 【床の間 天照大御神様】

 

 【左:お大師様 右:お不動様 】

 

 【恵比須様】

 

 【荒神様】

 

 【左:鍾馗様 右:地神様】

 

 【鳥居】

 

 これら全てに手を合わし、感謝する。

双子の姉は、一人暮らしでも毎日手を合わしているようで、様になっている。

 

 そしてようやく、お下がりのお餅で、お雑煮をいただく。

とりたてて、珍しいお雑煮でもないが、薄味で食べやすい。

 

 庭に咲く椿に、初春を感じた。

 

 未来に残していきたい我が家の風景だ。

 

         岬人(はなんちゅう)

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戦後75回目の「終戦の日」 

2020-08-15 | 歴史・伝統・文化

 2020(令和2)年8月15日。
大戦後75回目の「終戦の日」。

 祖父「金太郎」が亡くなって75年目でもある。
父は、80歳。
長いようで、忘れられない短い年月。

 

 ※クリック

https://misaki-j.esnet.ed.jp/blogs/blog_entries/view/8/2382475a777ce743b8441c493a68592a?frame_id=8

 

           岬人(はなんちゅう)

 

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コロナ禍 令和2(2020)年 平礒のモウリョウ

2020-08-14 | 歴史・伝統・文化

 コロナ禍、お盆の帰省を自粛する人が多かった。
岡山に住む娘も郷帰りしなかった。

 気になっていた盆踊りも他地域と同様、中止。

 ところが、先祖を迎えるお盆行事のモウリョウは、帰省者が少なかったが、いつものように行われた。

 

 重要な鉦叩きは、父が任された。
お世話になった梶原道忠さんの供養だ。

 

 皆さんが持っていた笹を集め、海へ流すのも鉦叩きの役割。
息子が手伝った。
こうして、地域の風習は引き継がれていく。

 

 最後は、生目様に自分の歳と同じ石を拾い、お供えする。
 
 こうして今年もふるさとのお盆行事は終わった。
田舎という場所は、文化や風習を残していくことに大きな役割がある。
時代とともに、なくなっていくものもあるが、大切なものだけが残されている。

 

 

 今は石垣だけとなった我が家の舟倉。
にぎわっていた頃の様子を父から聞いておきたい。

       岬人(はなんちゅう)

 

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即位の日 ~令和の時代始まる~

2019-05-01 | 歴史・伝統・文化
 5月1日(水)、即位の日。
 朝は、小雨が降っていましたが、9時過ぎにはおさまり、
四国最西端の伊方町立三崎中学校でも国旗を掲揚しました。



 いよいよ令和の時代が始まりました。
令和という名称のもととなった万葉集。
中学校では、国語や社会科で学びます。

  ―万葉集「梅花の歌」―

   初春の令月にして、
  気淑(よ)く風和ぎ、
  梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、
  蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。


 どんな意味かというと、
 時は初春のめでたい月(令月)、空気は柔らかく、風は和やか。
そして梅の花は、「鏡の前に立つ白粉(おしろい)をまとった美女」
のように咲き誇り、蘭の花は、「その身を飾る衣にしみこむ香」
のようによい薫りがただよっている。


 つまり、令和とは、
 何を始めるにもよい、とてもおめでたい、和やかな時代になりますように

という願いがこめられています。

 五月という季節ともあいなり、やる気が満ちあふれてくるようです。
 
 地域では、5月3日は、三崎で「はなはな祭り」。
5月5日は、二名津で「こいのぼり祭り」が開かれます。
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平礒のお精霊棚

2018-08-16 | 歴史・伝統・文化
 お盆の13日、昼下がり。
わが家では、おしょろい様を迎えるためのおしょろい棚、
つまり精霊棚(しょうろうだな)が作られる。
 
「精霊棚」とは、日本のお盆の時に先祖や精霊を迎えるのに必要な棚で盆棚とも呼ばれており、
一般的にお盆の間は精霊棚の上に真菰のゴザを敷いて仏壇から位牌と三具足を飾り、
お供え物を置く棚として使われる。

 精霊棚は地域や宗派によって形態が異なる。
 精霊棚の上に真菰を敷いた台の四隅には、葉っぱのついた青竹を立ててその青竹の上部にはしめ縄を張り、
このしめ縄の中に位牌、お盆のための供物や故人の好物を供えることになる。

 
 平礒のわが家の精霊棚。


 地域、家によって少しずつ違っている。


 
 13日の夕方、祖先の霊が迷わず帰ってくることができるように「迎え火」を焚く。
これを「迎え盆」と言う。

 15日は、お盆の間にすごした祖先の霊を送り出す「精霊送り」を行う。
このときには「送り火」を焚くことが一般的でこれを「送り盆」と呼ぶ。
 京都の「大文字焼き」も送り火の1つとなる。

 
 こんな小さな集落にも、伝統と文化が残されている。
しっかりと受け継ぎ、残していきたい。



            岬人(はなんちゅう)
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息子とにごり酒(桜うづまき)を呑む

2018-01-08 | 歴史・伝統・文化
 日本という国は本当すばらしい。
歳とともにそれを感じる。
 生活に欠かせない「衣・食・住」のどれをとっても逸品ばかり。
長い歴史と伝統に培われ、人々はそれを引き継ぎ、新たに工夫を加えてきた。

 先日、平礒の親分こと恒あんちゃんからにごり酒をもらった。
弟は呑まないので、日本酒好きの息子が帰っているわが家へプレゼント。

 ふだんあまり呑むことのないにごり酒ってどんな酒なのだろうか?
 もちろんお酒(日本酒)は、もともと神様と関係の深い飲み物ということが、
他のビールやウイスキーなどの海外から伝わったアルコールと違うところ。

 濁り酒(にごり酒)を調べてみた。
「普通、日本酒を造るときは発酵されてドロドロになっているお米を酒袋に入れてギュッとしぼって液体を抽出します。
その液体を寝かせてそこに溜まっている澱(おり)を取り除き、さらにろ過します。
なので、澄み切った色をしているのですね。

にごり酒は、発酵したお米をしぼる時、酒袋の目をわざと荒くして澱を残したままにされたもののことなのです。
なので、名前にあるにごりとは、澱のことを指します。

 にごり酒の味を一言で言うと「お米そのものの味が生きている」につきます。
日本酒がすっきりとしたさわやかな飲み口なのに対して、にごり酒はどっしりと濃厚で飲み口がとろりとしています。
 また、種類によってクセや特徴が大きく異なるのもにごり酒の味わいの一つ。

 にごり酒の飲み方をご紹介します。
にごり酒は冷か常温でいただくのが一般的な美味しい飲み方です。
上澄みと白濁した下層部の二層になっている時は、入れる前に瓶をゆっくりと振って澱を絡めていきましょう。
澱と絡まることで、お酒のクリーミーな口当たりと味わいが楽しめます。

また、注いでからしばらく時間をおいて再び二層に分かれさせ、
まずはさっぱりとした上澄み部分を楽しんだあと、
再度まぜてトロリとした味わいのメリハリを楽しむのもオススメです。

 有名なにごり酒としては、
もちろん安倍総理もお勧めの山口県の獺祭(だっさい)。
獺祭は、スパークリングのにごり酒です。シャンパンのようなきめ細やかな発泡性は、
にごり酒が初心者の方でもすいすいと飲めるやさしい口当たりとまろやかさです。
 日にちがたって炭酸が抜けても、にごり酒として、また違った楽しみ方が出来るユニークなお酒です。

 獺祭と同じような物として、有名な八海山。
 古き良き日本古来のにごり酒を楽しみたい方に断然オススメなのが菊水。
 息子と呑んだのは、桜うづまき


 

 旨いと言って呑む息子だが、お腹がすいていたのか、何と娘が作ったハヤシライスに、しかもトンカツまでのせて食べながら、
にごり酒を呑むという考えられないような組み合わせ。

 私は枝豆をつまみながら呑んだ。
ところが調べてみると、以外にも

「基本的に、にごり酒はいわゆる日本酒の酒のつまみのような食材と一緒に飲むよりは、
シャンパンなどに合う料理といただくのがオススメとされています。

おつまみ系ではチーズや、パテなど口当たりがクリーミーなものを選ぶのがポイントです。
料理は発泡していないにごり酒は、お肉料理や中華料理など、味が濃い目のがっつりした料理がオススメです。
スパークリングタイプは素材の味を生かした料理や魚料理が良く合います。」


とのこと。
つまり、息子のトンカツをのせた牛肉入りハヤシライスは相性ピッタリの食べ物だった。
何事も試してみないとわからないということだろうか。

 働いた後の父と息子で呑むにごり酒。
田舎暮らしは、いいものだ。
 こうして楽しい時間は、ほろ酔いとともに過ぎっていった。


            岬人(はなんちゅう)

 
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