7月5・6日、四国地区人権教育研究大会に参加。
夕方5時前、研修が終わり近くの高知城を散策。
見知らぬ土地を散策するのは楽しい。
特に高知(土佐藩)は、江戸時代の歴史によく登場する。
坂本龍馬が有名だが、彼は武士の中でも身分の低い武士だった。
江戸時代には、百姓・町人・武士という大きく3つの身分に別れていた。
ただ、それぞれの身分はさらに細かく別れていた。
したがって龍馬は、武士の身分ではあるが、低く、上位の武士には足げにされていた。
なぜ土佐藩がきびしい身分制度をしいたかというと、
土佐藩主の山内家が1600年にあった関ヶ原の戦いの功績により移転してきたよそ者だから。
山内家が土佐に来るまでは長宗我部家が土佐を支配していた。
しかし、この長宗我部家は関ヶ原で西軍石田三成に味方したため、戦後改易される。
改易とは、江戸時代に大名などが屋敷や領地などの資産を没収され地位を剥奪される処罰で、切腹の次に重い罰。
そして代わりに山内家が土佐に入ってくるが、この山内家を元長宗我部家臣は歓迎しなかった。
元家臣たちは山内家に対し、
「長宗我部盛親(元領主)に領地の一部(土佐半国とも言われる)を与えよ。」
と要求して城にたてこもったり、一揆を起こしたりした。
山内家としては当然放ってはおけないし、長引けはそれを理由に徳川幕府から改易になりかねないので、
武力による鎮圧を行った。
しかし反抗した連中を皆殺しにもできないので、
その代わりに厳しい身分制度をつくり、彼らを押さえつける方法を取った。
山内家の武士を上士。
破れた長宗我部家の武士を下士。
そしてそれぞれの中もさらに細かく身分が別れていた。
坂本龍馬は、下士の中の中より上の郷士だった。
ちなみに龍馬が生きた時代の大名は、あの有名な山内豊信(容堂)(NHK大河ドラマ 龍馬伝)。
山内家の初代藩主は、山内一豊。(NHK大河ドラマ 功名が辻)
そんなことを考えながら、この高知城を上り、
高知城からまちを眺めた。