伊方町の豊かな学校給食を進められている栄養教員の先生から「いかた食育だより」が家庭に配布されました。
伊方町の食育の基本理念は、「食を通して、郷土を好きになる」。
学校給食でも地産地消を通して、食を支えるふるさと佐田岬半島の自然と伝統を大切にし、
郷土を愛する心を育むことを目指しています。
その取組として、地場産物や郷土料理を学校給食に取り入れていただいています。
25日のメニューは、鯛めし。とてもおいしかったです。
1月24日から30日の1週間は「全国学校給食週間」。
明治22(1889)年、山形県の私立忠愛小学校で日本初の学校給食が行われました。
その後、全国各地で給食が実施されました。
しかし、太平洋戦争で一時中断。
終戦後の昭和21(1946)年12月24日、アメリカの援助団体ララからの支援物資により再開し、
この日を「学校給食感謝の日」と定めました。
昭和25(1950)年、学校給食が戦後再出発した意義を考え、
1月24日から30日の1週間を「全国学校給食週間」としました。
昭和29(1954)年、学校給食法が制定され、学校給食を教育活動のひとつに位置づけられました。
さらに平成17(2005)年、食育基本法が制定され、学校給食も食育推進の中心的な役割を担っています。
太平洋戦争・日中戦争に負けた日本では、国民の困窮状態はたいへんなもので、餓死者まで出るありまさ。
「腹を空かせ、病に苦しむ日本の子どもたちを救おう」と死にものぐるいで動きまわったのが、
サンフランシスコ在住(日系人)のジャーナリスト浅野七之助氏。
浅野氏が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体に、多くのアメリカ人もまきこみ、
食料品、日用品等の救援物資が集められ「ララ物資」として日本へ届けられました。
これにより、戦後昭和21(1946)年、学校給食(コッペパンや脱脂粉乳ミルク)が始まり、
多くの日本人・子どもたちが救われました。
給食の意義も時代とともに変わってきました。
過去は、貧しい生活からくる栄養不足を解消するために。
そして、現在は、偏りがちな栄養バランスを整えるために。
また、地域の産物を取り入れたり、メニューができるまでに関わる人たちの仕事や思いを知るための学びとなったり。
伊方町の給食は、おいしいです。
地域でとれた食材と調理に関わる人たちの気持ちがつまっています。
私が育った旧三崎町(現伊方町)は、愛媛県内でも最後まで給食がない町の一つでした。
したがって、小・中、高校まで全て母が作ってくれた弁当を食べて育ちました。
隣の友だちのおいしそうなフライ物や肉・ハンバーグのおかず。
それに比べて、私の弁当はふたを開けると、たくあんの臭いがプーンと広がり、おかずは、ちくわやかまぼこ、じゃこてんや塩サバ、いも、だいこんなどが多かったです。
だから何か恥ずかしさを感じながら、さっさと食べたことも多くありました。
でも大人になった今なら、それがどれだけありがたいものかわかります。
心にぐっとくる思い出に変わります。
我が家は、4人兄弟姉妹で、母は毎日4つの弁当を朝食と併せて作ってくれました。
両親は忙しく農業をしていたので、みかん山に弁当を持って行くこともあります。
すると机の上には、6つの弁当箱が並びます。
それが、どれほどたいへんな家事なのか、今ならよくわかります。
まさに食べることを通して、心を育ててもらいました。
母の後ろ姿を見ながら、包丁の音を聞きながら、味噌汁の臭いを感じながら育ったのです。
食の豊かさとは、料理そのものだけではありません。
こんな昔話を我が子にしてあげると、いくらかは心に響くようです。
そして娘たちは、妻が作ってくれた弁当を食べて、充実した高校生活を送っています。