喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

携帯電話のない1日

2013-10-31 | ブログ
 今日は、松山に出張。
伊方町のメロディーラインから長浜・双海の夕焼けこやけラインを気持ちよくドライブ。

 途中長浜で、お気に入りの「まことや」のパン屋さんにより、
ランチを調達。
 久しぶりに若だんなと若奥さまと温かい話をかわす。

 全てがさわやかな1日。

 途中、仕事のことを思い出し、職場に連絡を入れようと携帯を。
と思いきや、どこを探してもない。
 家に置き忘れた。
その後、公衆電話を探すが、こんな時にかぎってなかなか見つからない。
こんなにも公衆電話はなくなっていたということを実感。
 
 お昼に公衆電話から職場へようやく連絡を入れた。
ずいぶんと迷惑をかけた。

 携帯電話を初めて持ったとき。
気が進まなかったが、入院していた祖母のこともあり、ずいぶんと遅れてもつこととなった。
 世の中では、10人中8人くらいは持っていた。

 それからというもの、確かに便利。
携帯電話がなくてはいけないような生活になっているような。
ただ逆も言える。
いつでもどこでも連絡が入ってくる。
 自分の静かな時間がなくなってきた気がする。

 携帯電話のない1日もなかなかよかった。
便利さとひきかえにもしかしたらなくしているものも大きいのかも。

 ノー携帯デーでもつくろうか。




  写真は、本文とは全く関係なし。10年前にいたアメリカコロラド州の州議事堂。
 


                          岬人(はなんちゅう)
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最後に見たふるさとの風景と愛するわが子

2013-10-24 | ブログ


 一昨日の愛媛県原子力防災訓練。
第2次避難として、船に乗り大分県へ。

 岸壁を離れ、船に乗り少しずつ小さくなっていく港。
そしてある女の子の心の内。
「とても悲しくなりました。原発事故で船に乗って港を離れるということは、もう2度とふるさとには戻れないかもしれないんですよね。」

 この言葉を聞いて、脳裏にうかんだことがある。
70年前の太平洋戦争への出征の光景。
 私の亡き祖父金太郎は、この港から出征した。
見送る家族。見送られる祖父。
 祖父は、2度と見ることがないかもしれないふるさとの風景と、
そして2度と会えないかもしれない愛する家族を船の上からどんな思いで見たのだろう。


『父武久は、祖父金太郎と祖母ミチエの長男として昭和15年に生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
 翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
 
 祖父金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父、妻(ミチエ)そして体の弱い鶴松をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
 
 当時3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はほとんどないそうです。
ところが、出征の日の記憶が、断片的にあるというのです。

 出征の日、平礒の村をあげて高台にあるお墓の四辻(よっつじ)まで見送られました。
 親族や親交の深かった人たちは、さらに峠を越えて、
三崎の港まで行きます。
 幼き父は、肩車をされて三崎港まで見送りに連れて行ってもらったそうです。

 沖には、八幡浜から九州別府行きの繁久丸が止まっており、
そこまでは、はしけという小舟に乗って行くのです。



 ほとんどの人は、港の岸壁から見送るところを、
父は、「いっしょに行く。いっしょに行く。」
と言ってきかず、はしけに乗らせてもらい、繁久丸まで連れて行ってもらったそうです。
 父の記憶には、この時のはしけから繁久丸に乗りこむ金太郎の姿がやきついているそうです。
 


 これが、親子の最後の別れとなりました。

 この当時の日本には、同じような別れがたくさんあったことでしょう。
それから70年が過ぎました。
 亡くなった人の数だけ、さまざまな物語があったことを、
決して忘れてはなりません。』


                  岬人(はなんちゅう)

       
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愛媛県原子力防災訓練よりふるさとを思う

2013-10-24 | ブログ


 一昨日10月22日(火)、原子力防災訓練が行われた。
「伊方原子力発電所において福島第一原子力発電所と同様の事故が発生した場合にそなえ、
発電所から30㎞圏内の住民の安全を確保するため、防災訓練が行われた。」

 三崎地域は、伊方原発から約20㎞。
 住民の2次避難として、船に乗り大分県へ避難することになっている。
三崎中学生たちも港に到着した宇和島海保巡視船たかつきに次々と乗りこむ。



 中学1・2年生と教員4名を乗せた船は、ロープをほどき港を離れた。



 沖には、海上自衛隊練習艦せとゆきが停泊。
沖へ沖へとしだいに小さくなっていくたかつき。



 20分ほど沖を航行し、帰ってきた子どもたちに感想を聞いてみた。
海保巡視船に乗ったことをドキドキしながら話す子ども、海からの景色をうれしそうに話す子ども。

 そんな中に次のような感想を言った子どもがいた。

「何だか、とても悲しくなりました。
もしこれが本当なら、この船に乗るということは、ふるさとにはもう帰れないということかもしれないんですよね。」


 この子の感性にぐっときた。
福島の悲しみを絶対にくり返してはいけない。

 ふるさとは守らなければならない。

                    岬人(はなんちゅう)
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佐田岬のおいしい秋 被災地大谷中学校に届け

2013-10-19 | ブログ
 昨日、三崎中学校は三崎地域にあるガラン山でさつまいもの収穫をした。
そのことが今日10月19日の愛媛新聞にのった。



 この活動は、東日本大震災の被災地、気仙沼市立大谷中学校に地元特産のサツマイモ「紅あずま」を送るもの。
震災が発生した2011年から始め3回目。

 これまでの物語。

「2年前の平成23年3月11日に東日本大震災がおこりました。
震災直後、三崎中学校からは、毛布や義援金などといっしょに応援メッセージも送られました。
 
 それらは、宮城県気仙沼市の大谷(おおや)中学校に送られ、
今の中学3年生が入学してまもなく、お礼の手紙が届きました。
 被災地の様子を知り衝撃を受け、平和と勇気のシンボルである千羽鶴を送ろうという「折り鶴プロジェクト」が立ち上がりました。
休み時間などを利用して一日一羽運動を進めました。
学校ではいたるところで、それぞれの思いをこめて折り鶴を折る姿が見られました。

 そんな三崎中学校の活動を知った地域の人から、特産物のサツマイモをいっしょに収穫して被災地に送ろうという誘いがありました。
 そして10月下旬、全校で伽藍山体験農場へ行き、多くの大人の方々といっしょに収穫をしました。
横一列になり掘り残しがないように、傷つけないようにていねいに掘っていきました。
掘り出したときの喜びやそれを食べてもらえる楽しみを想像しながらの充実した活動となりました。
用意されていたコンテナは次々といっぱいになり、トラック1台分もの収穫をすることができました。
 
 11月中旬に三崎中学校文化祭がありました。
多くの人たちに被災地への支援を知ってもらうためと支援の協力をお願いするために昼休み企画コーナーを設けました。
 サツマイモを入れるためのビニール袋に応援メッセージを書いてもらったり、
サツマイモの送料のために販売を行いました。
 多くの人がつめかけ、支援の協力をしてくれました。

 そして文化祭後、サツマイモとビニール袋メッセージを、
大谷中学校とグランドに建てられた約190棟の仮設住宅へ送りました。
 
 12月、大谷中学校からお礼の手紙と復興させた田んぼから収穫された「大谷っ子米」が届けられ、
全校で感激して食べました。
「支援する」というカタチから「交流する」というカタチに変わってきたように感じます。
 
 今、三崎中学校で歌いつがれているサスケさんが作ってくれた「きみの笑顔に逢いたくて」という歌は、
これらの活動から生まれたものです。」


 このような活動や交流が昨年も行われ、今年は3回目のさつまいもプロジェクトとなる。
 ふるさとの大地で育ったおいしいさつまいもをていねいに掘り出し、
気仙沼市で前向きに生きている友達に食べてもらいたい。

                             岬人(はなんちゅう)
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どうして「お母さん」って呼ぶのだろう  ~母は、お日さま~

2013-10-18 | ブログ
 昨日、朝7時出勤前。
母家に顔を出した。
父は、いつものように神様や仏様にお茶をそなえる準備をしていた。

母の姿がなかったので、父に
「母ちゃんは、どうしたん?」
と聞くと、
「疲れてまだ寝ちょる。」
との返事。

 本当によく働く母。
歳とともに疲れやすくなったのだろうかと、手を合わせたくなるような気持ちがおこった。

 写真は、3年ほど前に知り合いのりえちゃんが撮ってくれたもの。
黙々と柑橘を選果する母の雰囲気が伝わってくる。
この写真がとても気に入っている。



 先日、【おかあさんの語源】というおもしろい記事を見つけた。

『 男は奥さんのことを「かみさん」と言ったりします。

これは元々「日身(カミ)さん」だったそうです。

この“日(カ)”は「太陽」をあらわす。
日にちを数える時に、「にち」以外によく「か」という呼び方をする。
例えば、2日の呼び方は、ふつか。

“身(ミ)”は「身体」をあらわす。

つまり「日身(カミ)さん」で、“太陽の身体”

そういえば、今年20年に1度の式年遷宮を行った伊勢神宮にまつられている、
「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、
女性の神様で、全ての人の租神様(おやがみさま)とされている。
太陽・光・慈愛・真実・秩序を象徴する最も尊い神様。

 お母さんはいつも明るくて、あたたかくて、
しかも朝、昼、晩、と食事をつくってくださって、
わたしたちの身体を産み、育ててくれる。

母親はまさに“太陽さん”そのものだから、
お日身さんと呼び、
「日(カ)」の古い言葉の「カアカア」から「カカア」に・・・

 子どもたちは「うちのカカさま」と言うようになり、
いまの「おかあさん」になった。

「おかあさん」の“か”は、
太陽だったんです♪

だから、女性は太陽のように輝いているのでしょう♪

「日本のこころの教育」境野勝悟 著 致知出版より  』


 元始、女性は太陽だった。
お母さんは、太陽のような存在。

 平礒には、一人暮らしの年老いたお母さんもいる。
子どもたちは都会に出てしまい、夫は先立ち、残って一人で。
 都会の子どもたちもふるさとに暮らす母のことが気になる。
母は、正月に子どもたちが帰省することを楽しみにしている。
かつては、その家も大勢の家族でにぎやかだった。

 親孝行しないといけないな~。
秋の夜長、そんなことを思った。
                    岬人(はなんちゅう)
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愛媛新聞掲載の反響 つながり

2013-10-13 | ブログ
 昨日10月12日(土)。
新聞週間特集に合わせ、三崎中学校の取組が愛媛新聞に掲載された。



 午前中、仕事を終えて携帯電話を見ると、着信があった。
双海町の「若松進一」さんだった。
 かけ直してみると、
「新聞を見ましたよ。がんばっていますね。
たとえ小さなことでも続けるってことは、たいへんなことですから。」
との温かい言葉。

 夕方、職場で仕事をしていると、保護者から携帯にメールが入った。
「今後も三崎中学校の記事が掲載されるのを楽しみにしています。
継続してくださいね。」
との喜びの文字。

 夜、ひき続き仕事をしていると、電話が鳴った。
二宮先生からだった。
「愛媛新聞、見たよ。すごいなー。うれしくなってすぐに切り取ったよ。
そしてあけみちゃんにも電話してあげた。」
との感激の声。
 二宮先生は、私が二名津中学校の時にお世話になった恩師。
もうすでに84歳。
今は、高齢者施設で入所者のみなさんを楽しませるようなボランティア活動を生き生きとされている。

 そしてたった今、義兄の哲ちゃんからの電話。
「今日、昨日の新聞を見たぜ。やりよるなー。本当、すごいことで。」
とのうれしい声。

 こんなふうに、いろいろな人とつながっていることをとても幸せに思う。

 ほんのひと声・ひと文字を大切にするような心でありたい。

                          岬人(はなんちゅう)

 


 
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新聞週間 愛媛新聞の特集に三崎中の取組が掲載される

2013-10-12 | ブログ


 日本新聞協会では、10月15日~21日を新聞週間と定め、
今年は1948年に創設され66回目にあたるようだ。
 地元の愛媛新聞は67回目になる。

 「いつの日も 真実に向き合う記事がある」
を代表標語とし、各地で関連行事がある。

 これに先がけて三崎中学校では、2週間ほど前に愛媛新聞八幡浜支社の藤中さんから
取材を受けた。
 度々「ヤン落」に投稿し、社会へ発信する活動を行っていることについて、
動機や掲載時の心境、生活の変化、今後の抱負などを聞かれた。

 2人の中学生も緊張しながら、しかしはっきりと自分の思いを語っていた。
私にも質問があったので次のようにこたえた。

 「様々な豊かな体験を感じるだけではなく、自分の思いを文章で発信して行動に移す大切さを感じてほしい。」と。
 
 中学生の原稿から、まじめに考えているんだと成長を実感することが多い。

 パキスタンのマララさん風に言うと
「1本のペンが、1人の子どもが社会を変えることができるのです。」

 ふるさとの子どもたちには、そんなふうに育ってほしい。
もちろん私たち大人が背中を見せなければならない。

                   岬人(はなんちゅう)
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「アラスカ物語」の主人公  アラスカのモーゼ(安田恭輔)

2013-10-07 | 感動
 伊方中学校での教え子が,今アラスカのフェアバンクスという街で暮らしている。
アラスカの大自然に驚き,感動し,現地の人たちとの出会いを通して,
さらにすてきな女性へと変わっている。

 彼女と連絡を取りながら,これを機会にアラスカについて興味がわいている。
いろいろと調べていると,ある日本人にたどりついた。
その人の名は,宮城県石巻市出身の故「安田恭輔」。
アラスカでは,フランク YASADA と呼ばれた。
 以下さまざまなものを調べた。




『今から100年ほど前、
宮城県石巻の青年、安田恭輔は、22歳の時単身アラスカの地に渡った。
乗り組み員となったアメリカ沿岸警備船がアラスカで寒波による氷に囲まれ身動きができなくなる。
 安田は救助を求めて、雪と氷の中を200キロ以上を数日間歩きイヌイットが多く住むバロー村まで死ぬ思いでたどり着く。
37名の乗組員は助かった。

 それが奇跡的な出会いとなった。
25歳の彼はそこに住みつくことを決心し、エスキモーの女性ネベロと結婚、フランク安田と名乗った。
主要産業である捕鯨の技術を教わり,そのリーダーになる。

 ところがバロー村を悲劇が襲う。
当時死の病といわれたはしかが流行し120人以上が亡くなる。
また白人の鯨乱獲による飢餓のため,バロー村は崩壊の危機におちいる。

 滅亡の淵に立った村人たち200人を引き連れて険しいブルックス山脈を越え600㎞を大移動。
3年間かけた苦難の末にアラスカ内陸部の新天地ビーバーへと移住させ絶滅から救った。

 第二次世界大戦中は3年間ものあいだ日系人捕虜強制収容に収容されるも、
彼は「アラスカのモーゼ」と呼ばれ人々から敬愛された。
 彼の作ったビーバー村は、今や空港まである村となっている。
アラスカにはブルックス山脈の1つに彼の名前を冠した「ヤスダマウンテン」という山もある。

 フランク安田さんをモデルにした、新田次郎『アラスカ物語』(新潮文庫1980年)がある。
そしてこれを映画化した『アラスカ物語』もあり,
テレビではドキュメンタリー番組まで作られた『アラスカの星』。

 フランク安田は、90歳の生涯を閉じるまで
ずっとアラスカのビーバー村で暮らし、一度も帰国しなかった。

 小説アラスカ物語の中では、晩年は何度か郷愁の思いにふける場面が登場するが、
実際もどんなにか帰りたかったのだろうと思う。
一度だけ、一時帰国のきっかけもあったようだが、それもあきらめる。
 エスキモーの奥さんや子供たちにも恵まれた彼は、もしかしたら
「一度帰ったらもう戻ってこれない」と思ったのではないかと思う。

 村のすぐそばを流れるアラスカのユーコン河を、故郷の石巻の北上川として映り、
目前の山や風景も幼少の頃の思い出の場所に見えていたのではないだろうか。』



 実にすごい日本人がいるものだ。
けっしてあきらめない気持ちとやさしさ。

 今アラスカに住んでいる教え子の100年ほど前には,
こんな先人がアラスカの大地で,現地の人と心を通わせる暮らしをしていたのだ。

 心が熱くなる。
自分もふるさとのためにできることはもっともっとありそうだ。





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アラスカのフェアバンクスで暮らす教え子

2013-10-02 | ブログ
 今年の7月からアラスカのフェアバンクスという街で暮らす教え子がいる。
今から17年前、伊方中学校に勤めていた頃の教え子。
彼女はもう30歳をこえ、すてきな大人の女性になっている。

 今年結婚し、ご主人の仕事の関係でアラスカに渡った。
 おもしろいもので、彼女が京都で看護師をしているときよりも
日本から5000キロ以上も離れたアラスカに住んでいる今の方がよく連絡を取りあっている。

 先日、こんなうれしい連絡があった。

『昨日の夜、お友だちの家に行き、自転車で旅をされている素敵な方に出逢いました。
その時のことを少しお話させて下さい。
 その方は、Skypeを使って福島の被災地の子どものたちと旅先から青空授業をされています。
また、旅先で資金に困った際にネパールでジーパンを作る会社を立ち上げ、
そのお金の一部を現地の貧しい学校へノートや消しゴムなどを寄付されていたそうです。
 その村の子どもたちは、援助のおかげで教育は無料で受けることができるけれどノートなどを購入するお金はなく、
子供たちは一度使ったノートを消して再度使ったり、消しゴムがないので指で消していたそうです。

 私は以前、バリ島で孤児院を建設するボランティアに行ったことがありますが、
その時の子供たちのことを思い出しました。

 その方は
「自分のために生きる 誰かのために生きる」、
「一生懸命生きる」
当たり前のことだけどとても大切なことをキラキラした瞳で話しておられました。
 
 福島の子供たちもきっと色々なことを感じながらSkypeしているんだろうな〜と思います。
私も同じような思いで今まで看護師の仕事をしてきました。
今日という日にありがとう、今日出会った人にありがとうと感謝しながら、
今の私に何ができるかわかりませんが一生懸命生きたいです。』


 かつての教え子は、今の私などよりもはるかに大きく成長し、
すてきな人生を歩んでいこうとしている。
本当、すばらしい。

 アラスカを旅する日本人。
この方も本当、すごい。

 誰かのために役に立つことができる人でありたい。
秋の夜長、そんなことを感じていた。
 
 日本一細長い佐田岬の田舎と遥かかなたのアラスカがつながっている。

                
                            岬人(はなんちゅう)

 
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愛媛新聞 新聞週間特集の取材

2013-10-01 | ブログ
 3週間程前、愛媛新聞社からの電話。
「10月中旬の新聞週間において特集をくみます。
もしよろしければ、ヤン落などに頻繁に投稿してくださる三崎中学校を取材させてもらえないでしょうか?」

 そして今日、八幡浜支社の藤中記者が取材に来られた。
授業風景の撮影と三崎中学校の取組、2名の生徒のインタビュー。

 藤中さんとさまざまなことをお話しする中で、
自分の気持ちを見つめ直したり、整理整頓することができた。



1 発信の大切さ
 「情報は、発信するところに集まる」と言われる。
 池に石を投げこむ。それは波紋を作り、周りへ広がっていく。
 そして岸ではね返った波紋は、石を投げこんだ所へ戻ってくる。
  これまでに三崎中学校が行った情報発信の反応と似たところがある。
 それが次の行動へつながるきっかけとなる。


2 新聞のよさ
  インターネットの発達により、新聞があまり読まれなくなったと聞くことがある。
 でも私は新聞が好き。新聞にしかないすばらしさがある。
 
 ① 情報の宝箱
   インターネットは、自分の興味ある情報を即座に手にすることができる良さがある。
  新聞は、開けばさまざまな活字が目にとまり、さまざまな情報を手にすることができる。
  見出しだけにでも世の中の様子があらわされている。
  政治・経済・社会・地域・投稿・スポーツ芸能など。
  バランスのとれた考え方につながる。

 ② 人の熱が伝わる
   今日の新聞を手にするまでにどれくらい多くの人が関わっていることやら。
  取材をする記者、編集、印刷、配達…
  そんな行程に多くの知り合いがいる。
  その人たちの仕事の結晶。
  それが今日、手にした新聞なのだ。
   新聞というモノの向こう側に人の姿が見える。
  これってあたたかい。そして時には熱い。



 デジタルはもちろん便利。
でもアナログの良さもある。
 人の手が加わるとあたたかい。

                岬人(はなんちゅう)
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