先日、仕事帰り。
午後7時過ぎだったが、燃えるような空の色。
お気に入りの場所まで、車を早く走らせ、この景色を一人占め。
瀬戸内の夕焼け。
自然の美しさに、心が震える。
忘れられない夏の思い出が、まずは一つ。
岬人(はなんちゅう)
先日、仕事帰り。
午後7時過ぎだったが、燃えるような空の色。
お気に入りの場所まで、車を早く走らせ、この景色を一人占め。
瀬戸内の夕焼け。
自然の美しさに、心が震える。
忘れられない夏の思い出が、まずは一つ。
岬人(はなんちゅう)
本日、四国最西端の佐田岬の土曜夜市が開かれる。
「岬の夜市」
何か響きがいい。
地域の有志のみなさんが、明るい地域づくりのために企画された。
特に子どもたちの喜ぶ姿を大切に思われてのこと。
今年は、地元、三崎高校の特別屋台も出店。
そして、ビアガーデンも。
地域の中から、こんな動きがわき起こってくるって、本当すばらしい。
〇 日時 7月17日(土)午後6時~
〇 場所 佐田岬はなはな
ちなみに、このすてきなチラシ(イラスト)も手作り。
すごい才能を持った人がたくさんいる。
今、岬がおもしろい!
岬人(はなんちゅう)
佐田岬(ここ)は、世界農業遺産になりうるか?
結論からすると、「Yes! Of course!」
7月9日(金)・10日(土)に、第1回佐田岬ミーティングを持った。
様々な視点で、「世界農業遺産」の視点で佐田岬を見直した。
1 「生物多様性、文化・価値観を見つめる」
地元からは6名が参加し、自分の取組や地域の様子を語った。
町見郷土館の高嶋さん、裂き織り作家の橋田さん、日本蜜蜂の養蜂も手掛ける清家さん、生薬としての柑橘の可能性を探る加藤さん、柑橘を使ったお菓子作りをする田村さん。
聞けば、聞くほど、すごい!
みんな実践家なのだ。そこから出てくる言葉は本物。
初めて聞いた内容もあり、改めてここ佐田岬の魅力を見つめ直すことができた。
2 「佐田岬の食を味わう」
まりーな亭にて、店長の話も聞きながら。
3 「ふるさと教育を創る」
三崎中学校にて、世界農業遺産とふるさと教育をどう掛け合わすことができるかのアイデアを出し合った。
4 「聞き書きとそれを基にした表現活動の可能性を探る」
今、最も注目されている三崎高校にて、地域活性化に高校生をどう生かすかを探った。
5 「佐田岬に泊まり、佐田岬の食文化を感じる」
ゑびすや旅館で至福の食文化を感じ、ゑびすや旅館と二名津わが家亭に泊まった。
どちらも大切な人のおもてなしに、まちがいのない場所だ。
少しずつ、世界農業遺産が何を目指しているのかが分かってきた。
それは、ふるさと佐田岬や愛媛県の南予地方が大切にしたいことと重なる。
私たちの自信と誇りだ。
「世界農業遺産」の視点で見直してみることの大切さ。
ふるさと佐田岬には、夢がある。
愛媛県南予地方には、夢がある。
岬人(はなんちゅう)
6月20日(日)
梅雨の晴れ間の夕暮れ。
ウジナから見る瀬戸内。
海の向こうには、大分県の国東半島(中央)や姫島(右端)が見える。
今日は、快晴。
九州では梅雨明けが宣言されたところもある。
暑い夏の幕開け。
7月9日(金)。
佐田岬を訪れたお客様4名のおもてなしのために、三崎の「ゑびすや旅館」を利用させてもらった。
昭和の雰囲気漂うそのたたづまいとなつかしい道具の数々。
おじいちゃん・おばあちゃん宅に久しぶりに「ただいまー」
と帰って来た空気感。
そんな様子に居心地の良さを感じられたお客様。
そして、夕食。久しぶりのえびすやの料理だ。
地元でとれたお刺身の盛り合わせ。
「えー、これ一人分ですか!」
うにと青さが乗った茶碗蒸し。
「わー、おいしそう。」
魚の肝の天ぷら。地元の黒目塩を付けていただく。
初めての味に驚きの声。
出来立ての温かいものが続く。
旬の魚イサキの煮つけ。食べるのに一生懸命で写真を撮るのを忘れてしまった。
併せて、サザエのつぼ焼きも。
太刀魚の炙りだったような。
夏らしい味。
タコの酢の物。味噌との相性が抜群にいい。
一品、一品に感嘆の声が上がる。
そして、「心もお腹もいっぱい」状態。
「最後は、ご飯です。」の声にもとまどいが感じられたが‥
運ばれたご飯を見て、また感激の声があがった。
「こんな締めのごはん、初めて。」
こんな地元のおいしい料理と八幡浜、梅美人のお酒「漁師の酒」を飲みながら、
話は大いに盛り上がった。
宿の女将、大女将、そして料理人のお父さん。
その一つ一つのものや掛けられる一声一声におもてなしの心が宿っている。
佐田岬の「ゑびすや旅館」。
こんな宿があることがうれしい。
岬人(はなんちゅう)
日本農業遺産に認定されている ~愛媛・南予の柑橘農業システム~ ってどんなもの?
そもそも、「日本農業遺産」、「世界農業遺産」って何?
似た言葉に「世界遺産」ってあるけど。
重要かつ伝統的な農林水産業を営む地域(農林水産業システム)を農林水産大臣が認定する制度が日本農業遺産。
それを国際連合食糧農業機関(FAO)が認定したものが、世界農業遺産。
世界遺産が、貴重なものを変えずに保存していく。
これに対して、世界農業遺産は、持続可能性を重視。
そのときどきの状況に合わせ、変えずに残していくもの、変えていかなければならないものを見極めていく。
つまり、将来にわたり、持続可能なしくみを考えていく。
したがって、認定された後が大切で、アクションプラン(行動計画)をみんなで考え、目標達成に向けてみんなで取り組んでいく。
日本農業遺産、世界農業遺産とは?
https://www.maff.go.jp/j/nousin/kantai/giahs_1_2.html
漫画「南予のみかんは、なぜすごい?」がすごく分かりやすい。
https://ehime-nougyoisan.jp/wp/wp-content/uploads/2021/04/manga.pdf
柑橘は、幸せの色がする。
柑橘は、幸せの味がする。
岬人(はなんちゅう)
喜久家ブログも久しぶりの投稿。
忙しさに理由を付け、更新していなかった。
「初心忘れべからず」
この喜久家ブログを書き始めた初心を思い出す。
「ふるさとを出ている人のために、ふるさとの様子をタイムリーに伝えること」
こう思ったきっかけとなる出会いが、1か月前にあった。
その内容は、「世界農業遺産」
実は、日本農業遺産というものがあり、愛媛県の南予地方の柑橘農業システムがすでに認定されていることを知った。
愛媛県は、さらに世界農業遺産認定を目指しているようだ。
この話を聞いていて、わくわくした。
もちろん、ふるさと伊方町も含まれている。
何かが変わる予感がする。
愛媛県南予地方に、柑橘農業に、佐田岬に新たな風が吹き始めた。
風を感じ、風を読み、風にのっかろう。
風は土を作り、土は人をつくる。
つまり、風土が人をつくる。
※画像をクリック
柑橘農業システムとは|愛媛・南予の柑橘農業システム
愛媛が世界に誇る美しい景観と独自の農法を次世代に継承していくために、世界農業遺産・日本農業遺産認定を目指し、活動を行っています。
愛媛・南予の柑橘農業システム
岬人(はなんちゅう)
令和3年、ソトガイチの新倉庫がほぼ完成した。
父は、ことあるたびに私を呼び、新倉庫への思いやこれからの構想を語ってくれた。
「この倉庫なら、これから50年はもつ。しかも使いやすいはず。
おまえは、どう思う?」
私との大きな共通点は、「持続可能性」。
農業の魅力や大切さを、将来にわたり見つめていくということ。
今だからまだ聞くことができる、話すことができる80歳を超えた父との会話。
それをお互い、楽しんでいる。
これでもプレハブか、というくらいしっかりとしたもの。
県道との側壁は、もとの石垣を残した。
進入路をコンクリートで舗装し、大型トラックでも出入りや車の方向転換もしやすい。
今年の収穫物は、この倉庫が使われた。
数カ月がたち、新たに少しずつ整備。
県道に面した倉庫表は、コンテナや消毒タンクを置くスペースとして使われている。
倉庫裏には、のり面との間に屋根をかけ、物が置けるような大きな空間ができた。
進入口の砂利スペースの利用については、おもしろい使い道を考えている。
旧倉庫の増設部分の木造資材を使い、新たなものにリノベーション(作り変える)予定。
事務所プラスαとして。2階建てで。
この考えには、父も賛成。というよりも父の方がやる気満々。
80歳を過ぎた歳だが、考え方が新しい。
地域の未来を、農業の未来を、そして我が家の未来を考えている。
未来が楽しみ。
今、足りないのは経費だけ。
何とかならないものだろうか。
誰かの力を借りたいものだ。
岬人(はなんちゅう)
令和2年秋から本格的に始まった我が家の倉庫移転。
ハルサキの旧倉庫の整理とソトガイチの新たな倉庫の造成、建築。
三崎建設の多大な協力により、みかん畑が削られ、基礎が造成されていく。
父の経験とノウハウにより、かなり考え抜かれた青写真ができた。
広さは、ハルサキと同じくらいだが、コンテナの並びを考え、縦を少し長くした。
柑橘の保存環境を考えると、周りを木で囲まれ、涼しいハルサキには及ばないが、
我が家と近く、普段の農機具やトラックの保管等かなり立地条件は良い。
小林建設の社長と何度も検討を重ね、50年先でも使えるようなものとなっている。
令和2年年の瀬、この基礎の上にプレハブが建ちあがっていった。
岬人(はなんちゅう)
我がふるさとに県道拡張の話が持ち上がった。
その計画でいくと、我が家のハルサキの倉庫を移転しなければならない。
この倉庫は、倉庫の温度が高くなることを抑えることができるなど、柑橘の保存をするには環境がとても良い。
苦渋の選択だったが、
「地域のみなさんが喜ばれるなら移転しよう。」
と父が決めた。
その後も県道の用地交渉など大変なことが多かったが、令和2年度秋、進み始めた。
取り壊されるハルサキの倉庫。
この倉庫ができたときのことは、よく覚えている。
小学生ながら、屋根に上がってコールタール塗りなど手伝った。
40年前、ここを建てた父にとっては、暮らしの倉庫であり、思い出の倉庫。
その心境を思うと、父の思うように協力した。
農業を継いでくれている息子もトラックで移転作業をどんどん進めていく。
年が明け、令和3年、ついに建物が取り壊された。
建物がなくなってみると、案外狭く感じられる。
やがてこの基礎も取り除かれ、新たな道路となり、地域の交通が便利なものとなる。
変化の少ない田舎だが、新しい時代の風が吹いている。
岬人(はなんちゅう)